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2020年02月21日02:31

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桶狭間が嘘だから本能寺も嘘

○太田牛一の『信長公記』は、「桶狭間合戦」を「天文二十一年のこと」としています。天文の次の弘治年間に「今川義元が存命」なのは『言継卿記』にも書いてありますし、さまざまな手紙史料から、実際には「永禄三年のこと」だと確認されているようです。牛一の勘違いですね。問題なのは、この勘違いによって牛一が、「信長の義銀追放」を桶狭間合戦のあと」に書いていることです。

●『信長公記』首巻
「一、尾張国端海手へ付いて石橋殿御座所あり。河内の服部左京助、駿河衆を海上より引入れ、吉良、石橋、武衛仰談らはれ、御謀叛半の刻、家臣の内より漏れ聞え、則御両三人御国追出し申され候なり」

○「石橋」は、幕府の要職「引付頭人」を代々で務めた名門です。このころは京都を逃げ出していて、尾張の西部に居を構えていたそうです。「吉良」は三河の守護大名ですが、このころは今川義元が「三河を実効支配していた」ので、石橋と同様、斯波義銀が保護していたのでしょうか。「武衛」は兵衛督の別称で、斯波家の歴代の名乗りです。つまり斯波義銀のこと。この三人が、尾張西部「海西郡」の服部左京亮を通して「駿河衆とつながっていた」の記述。そして、信長に対し「御謀叛」を起こそうとした半ばのころ、家来の中から話が漏れて、信長の知るところとなったため、信長によって「三人とも国外追放」という話。

○この事件を「桶狭間のあと」永禄四年とする解釈は、「駿河衆を引き入れようとした」という記述を「不思議に思わない」ってわけなんです。だって「桶狭間のあと」なら、総大将の義元が戦死して、多くの武将を失って、今川家はガタガタじゃないですか。吉良家の本拠地「吉良荘」を含めて「三河西部地域」は、一斉に信長の支配下に入っちゃったし、松平元康(徳川家康)も平気で離反するわけですよ。そんな状況下で「駿河を味方にした」ところで、いったい何ができるんです?「わざわざ負け馬に乗ってくれちゃうバカたちだ」とでも言うつもり?

○小瀬甫庵の「物語」がベースでしかなかったころの「歴史」では、信長が「尾張を統一していた」ところに「上洛を目指す義元が攻めてきた」という話で、すると信長は「頭の古い家来たち」を使わずに、側近衆の「精鋭部隊だけで奇襲した」と語っていたのです。そういう「解釈」の中では「小領主たちの全部が信長の家来だ」の意味になっちゃうじゃないですか。つまり「守護の家来は、たった一人の守護代だけで、国内の勢力は、すべて守護代の家来である」という解釈です。おかしな「解釈」だと思いませんか?「義銀の存在」がカットされているから、こうなってしまうのに、義銀の追放を「桶狭間のあと」と言うわけ。

○「桶狭間に参戦しなかった者たち」がいたのは事実です。そこで、彼らを「信長の家来ではない。義銀の家来だ」としてみましょう。そして追放を「桶狭間のあと」としてみます。その場合、彼らは「主君の義銀が裏で義元とつながっていたから、義銀の指示に従って、信長の出陣命令を無視したのだ」という意味になったうえ、義元の侵攻は「義銀の要請で、信長を討ちにきたもの」となるじゃないですか。これだけでも「話が変わってしまう」んですが、これだと「義銀が駿河衆を引き入れたけど、信長が撃退した。味方を失った義銀は追放された」という「展開」になります。しかし『信長公記』の記述は「御謀叛半ば」で「漏れ聞え」たので「御国追出し」なんですよ。記述と展開が一致してませんでしょう?

○だから、義銀の追放を「桶狭間の前」だと仮定してみるんです。信長だって義銀の家来なのに、「主君を追放」してしまえば、ほかの「斯波家の家来衆」も、みんな「独立してしまう」ってわけ。尾張はいっぺんに「バラバラ」なんです。そこを狙って「義元が侵攻」してきたなら、信長に従ってくれる者ばかりではないわけです。過去に「今川家と争ってきた因縁」がありますから、義元の支配を受けたくない者もいたでしょう。そういう者たちが「戦うしかないのだ」と決断する一方で、「信長が勝てるはずもない」と冷ややかに見ていた者たちもいたでしょう。ところが「物語」では、合戦の最中に油断して「宴会をする」ほどバカな義元に、天才の信長が「勝って当然」という解釈ですもんね?「信長が敗けるかもしれない」という考え方は、歴史学者の誰も「頭の中にない」んじゃない?

○信長が勝つという「結果がわかっている」なら、誰だって「信長に味方する」に決まってますよ。もちろん今川義元だって「信長が勝つとわかってるのに攻めてくる」ほどバカじゃないはずで、ゆえに「桶狭間合戦」も「起こらなかった」ことになるでしょうよ。それ以前に、義銀自身が「信長の方針を受け入れる」はずで、そしたら「義銀の追放」が「ない」わけですから、結果的に「足利義昭を将軍にしたのは斯波義銀だ」となるじゃないですか。将軍の義昭、管領の義銀、管領代の信長という「幕府体制」になるだけでなく、「義元が死んでない」となれば「徳川家康も今川配下の松平元康のまま」ってもの。歴史がまるで変わっちゃいますよ?「未来は誰にもわからない」からこそ、義元は強気に出たし、義銀はおびえたのだろうし、信長は「戦うことを決断した」んですよ。そうして「目の前に今川軍という強大な敵がいる」ときに、せっかく味方してくれる「斯波家の家来衆」に、信長が「俺様の家来にならねば許さない」とかって言うとでも?

○「国主」の義銀が消えた尾張国には、三種類の「小領主」がいたはずです。信長に従わない者。信長の指揮下にはいても、家来ではない者。信長の家来である者。この理解が、そっくりそのまま「義昭追放後」の理解にもつながるってこと。
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