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2020年02月17日01:51

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地方主権もないのか日本史は

○平安時代の国司、鎌倉時代の守護、室町時代の守護大名、これらを「都道府県知事」のように考えてしまうんですよね。実際は「都道府県民」にあたる主権者です。現代民主主義の日本でも、国民は三種の選挙権を持っています。衆議院と参議院の国政選挙、都道府県の知事と議会選挙、市町村の長と議会選挙。すなわち国家主権だけでなく、地方主権、地域主権と言うべき「権利」があるんですよ。

○律令制度の基本は「権限の委任」です。国司は、天皇から地方主権(一部範囲の主権)の委任を受けて、天皇に代わって「主権の行使」をします。電話も自動車もなかった遠い昔の時代、地方の行政庁がいちいち「天皇の承認を受ける」こともできませんので、言わば「全権大使」のように各地に派遣されて、地方行政の「承認行為」を代行するんです。国司の権限は「国」という範囲に限定されていますし、任期も四年と区切られています。あくまで部分的で一時的な委任です。

○鎌倉時代の守護についてはハッキリしませんが、封建制度の基本は「権限の委譲」です。よって、室町時代の守護大名に任期はありません。そもそも足利尊氏が室町幕府を成立させたとき、後醍醐天皇の国家主権から「独立してしまった」わけです。その際、功労者が守護大名になりましたが、彼らの全部が「足利家の家来だった」わけではありませんからね。甲斐の武田、美濃の土岐、近江や山陰の佐々木など、尊氏に「協力してくれた者たち」もいました。尊氏としては、自分が得た「権利」と同等に「分配」せざるをえなかったでしょう。ゆえに「国司の地方主権」を恩賞として「譲渡」したはずなんですよね。その場合は「個人の権利」として「所有」していますので、相続財産になるんです。一方で、将軍から「一代限り」の「委譲」を受ける「足利家の家来」たち。つまるところ、室町幕府の守護大名についても「外様大名と譜代大名」のごとき「別があった」と思われるのですが、かたちの上では区別がつきにくいので、難しいところです。まして「将軍が亡命」ともなってしまえば、各地の守護大名は「地方主権を私物化してしまえる」わけですよ。そうなると、将軍の存在など無視して「勝手に相続していく」だけでして、もはや半独立国家(プリンシパリティ)になるってわけ。

○一つ間違えてもらっちゃ困るのは、守護大名は主権者であって、執政権者ではないこと。信長が「尾張の守護代」になったのは、永禄二年と見られます。当時の「尾張の守護」は斯波義銀です。これについても「信長が義銀を傀儡にしていた」と言われてきましたが、もともと守護大名の多くは京都にいて、幕府の役職についていたんです。自国の政務は守護代に任せて、承認を与えるだけ。自分は幕府の政務をとって、将軍の承認を得る。単に「こういう仕組み」だということです。もっとも当時の義銀は尾張に在国していましたから、自分自身で「執政権を持つ」ことも可能ですが、それをやったら「岩倉の守護代」織田信賢が黙っちゃいないはずなんですよ。役職の権限も「委譲」であって「終身の権利」です。どうしても「役職を取り上げたい」のなら、武力で「討つ」しかないんですよ?

○信賢を「武力で支えていた」のは「美濃の守護」一色義龍です。かつて斎藤道三(義龍の実父と見られる)が、当時の「美濃の守護」土岐家と衝突したときの経緯で、尾張と美濃は敵対関係でした。その後に織田信秀(信長の父)と道三の和解があったり、義龍による「道三の討伐」があったり、紆余曲折があったあげく、このころの信賢は、一色家を後ろ楯にして「信長と対立していた」ようなのです。よって義銀は、信賢の「政策」を承認するか、拒否して「信賢を討つ」のか、選択せざるをえなかったのでしょうね。結果「信長を守護代に任命した」模様。なお、守護代の任命権は守護大名にありますが、「幕府の認可」と「将軍の承認」がないと「正式な守護代」にはなれないんです。守護大名が「私的に執政権を預けた」ことにしかならなくて、それを「目代」と言います。しかし、北近江の朽木に逃げていた将軍義輝が、この時期「ちょうど京都へ帰還」していまして、そして永禄二年二月、宮中の業務日誌『御湯殿上日記』に「信長の上洛」が書かれているんです。つまり信長は、正式に「信賢と対等な立場になった」ことで、信賢を逃亡させることに成功し、尾張の「政権交代」を果たしたってわけ。

○ところが今度は「駿河と遠江の守護」今川義元が動き出したのです。斯波家と今川家の対立は「応仁の乱」にさかのぼり、その後、何度も戦った経緯があります。通説の「桶狭間合戦」は「守護の義銀をカットしたフィクション」で、実際は「斯波義銀と今川義元の対立」です。このころの義元は、俗に言う「甲駿相の三国同盟」を成立させていて、背後に敵がいないんです。それもチャンスとなって、尾張の国内にある「今川方の橋頭堡」に兵力を入れて、義銀を挑発してきたわけですよ。一色家とは対抗する気になった義銀も、さすがに今川家に勝てるとは思えなかったのでしょうね。信長と「方針」が対立した結果、信長を討たせようとしたみたいで、逆に追放されてしまいました。途端に「義銀を保護した」のが義元です。よって「桶狭間合戦」で、もしも義元が勝っていたら、義銀は守護に復帰できたでしょう。ただし「今川の主権下」にある属国になっちゃいますが。

○最後に蛇足です。信長の「義銀追放」を、通説では「桶狭間のあと」永禄四年としてきました。それつまり「守護なんか、いてもいなくても同じだよ。意味ないよ」という「解釈」だってことです。主権のなんたるかもわからないのかね?
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