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2020年02月13日02:12

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室町幕府の最後の将軍は義輝

○戦国ゲームの初期設定は、各地の戦国大名が「群雄割拠」する状態。無論フィクションなので、どんな「設定」も自由です。「日本がバラバラ」から「統一する」のに理屈は不要。けれど「歴史」を考えるなら、そこに「なぜ」の理解が必要です。でも、なぜだか「統一する」ほうの理由ばかりで、「バラバラ」の理由を言わないんです。フィクションならば「最初はバラバラ」と「設定するだけでいい」ものが、現実ならば、統一国家だったはずの日本が「なぜバラバラになったのか?」の点こそ、最も重要な理解だと思いますけどね。

○永禄十三年の「祝宴」に、関東と東北の守護大名が一人も関わっていないという事実。そもそもは、これが「始まり」なんですね。話を単純にわかりやすくするため、足利尊氏が、全国統一の「足利王国」を成立させたとしましょうか。尊氏の没後に「義詮」が将軍になると、関東管領になっていた「弟の基氏」が、自ら「鎌倉公方」と称します。この意味は「親父の領国のうち、関東と東北は俺が分割相続する。兄貴は、残る西日本の全部を相続するんだから、いいだろ?」ということ。当然、義詮は認めませんので、基氏と「争う」わけですが、室町幕府は「決定的な勝利を得られなかった」のです。その結果、なしくずしのまま、この時点で「王国が分割された」んですね。基氏は「公方」と名乗っていても、べつに「将軍宣下を受けた」わけではありませんので、「勝手に名乗っていただけだから」と「解釈」されて、軽く見られてきました。実は反対でして、中央の官位を必要としないなら、上位国家「日本」からも「独立している」かもしれないくらいの「重要問題」なんですよ。この点は明言を避けておきますが、室町幕府は当初のころから「室町王国」と「鎌倉王国」に分裂していたようなものです。

○その後に鎌倉公方が「古河」へ逃げると、この時点で「鎌倉王国」は解体されるんです。東北と関東の守護大名は「独立勢力」になってしまうんです。その後にまた、北条家が「関東管領の上杉家」を追放すると、上杉家の家来衆が「独立勢力」になってしまったわけ。彼らは「自分の身を守る」都合で、あっちに付いたり、こっちに付いたりするんです。関東と東北は、とっくにバラバラだったわけ。

○一方の「室町王国」です。「応仁の乱」で「戦国時代になった」と言われていますが、私は少し違う見方をしています。確かに「応仁の乱」の結果、各地の守護大名は「幕府に逆らうこともできる」と考えるようになったでしょう。そうだとしても、それぞれが「自分の権益を守る」ため、中央の権力闘争に便乗していたようなもの。決定的になったのは、十代将軍の義植を追放して、十一代将軍に義澄を立てたときですね。これ以降、義植派の守護大名たちと、義澄派の守護大名たちで、ほとんど分裂状態になるんです。言わば「日本のバラ戦争」ですよ。

○この状況を「王国内の二つの公国による内乱」と見るか、それとも「一つの王国が二つの王国に分裂した」と見るか、それは難しいところです。義植派は次に義維を、義澄派は次に義晴を「主家」として争い続けますが、義維派の首領「三好長慶」と、義晴派の首領「細川晴元」が歩み寄ったようで、いくらかおさまるんです。しかし義晴の病没後、三好長慶は、次の「十三代将軍」義輝と、管領の細川晴元を「追放してしまう」んですね。天文十九年、西暦で一五五〇年。結果的に見れば、これが「室町幕府の解体」となったのではないでしょうか。その後に復帰と逃亡を繰り返した義輝は、永禄八年、三好三人衆に殺害されました。西暦一五六五年です。これは「とどめ」のようなもので、封建制の「建前」で言えば、これで各地の守護大名は、自分の「国主権」で独立してしまったわけですね。

○室町幕府の最後の将軍が「十五代の義昭」である点には、誰も異論はないようです。かつては元亀四年(天正元年)に「信長が義昭を追放したとき」に「室町幕府が終わった」とされていました。西暦で一五七三年です。しかし近年では、備後国(広島県)の「靹(とも)の浦」にいた義昭を「靹幕府」と言うんです。そして「まだ室町幕府が終わってなかった」という主張も見られます。でも、私はその反対に考えているんです。室町幕府の最後の将軍は、義輝ではないのかと。

○たとえば、フランス王国の最後の国王は誰でしょうか?「普通に答える」のなら「ルイ十六世」となるでしょうね。市民革命により、ルイ十六世が処刑されたときに「フランス王国は終わった」と考えるのが「普通の理解」ではあります。しかし「ルイ十七世」がいるんですよ。その後にルイ十八世、シャルル十世、ルイ十九世と続いて、最後はアンリ五世です。あとに子供がいなかったので、ここで断絶。

○このように見ていけば、フランス王国の最後の国王は「アンリ五世」になるんです。だとしても、やっぱりルイ十六世を「最後の国王」とするのが「歴史の理解」というものではないでしょうかね。最終的に「崩壊してしまった王国」の、一時的な王政復古とか、亡命先の国王などは、区別するほうが正しいように思います。その意味で「室町幕府の問題」も同じです。アンリ五世が「フランス・ブルボン家の最後のフランス王」でしかないように、義昭は「足利将軍家の最後の将軍」ではあっても、「室町幕府の最後の将軍」とは言えないのではないでしょうか。早い話、私は「室町幕府の崩壊」を永禄八年と見ているんです。それ以前から弱体化していたのは事実としても、封建制の上では「義輝の殺害」で崩壊。そう考えたとき、「本能寺の変」の理解が大きく変わって、一つの「解答」が見えてくるのです。
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