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2020年02月09日02:07

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光秀は織田家の家来なのか?

○豊臣秀吉の「子飼い」と言われる家来に、加藤清正と福島正則がいます。わかりやすく、この二人を例にとります。どちらも少年期に「小姓」として秀吉に仕えて、やがて「城主」になるという経歴。そして関ヶ原戦の恩賞によって、二人とも「国主」になりました。さらに「大坂の陣」で豊臣家が滅亡したあとも、徳川の「幕藩体制」の中で、しばらくは存在。いわゆる「外様大名」の立場ですね。

○加藤も福島も「城主にしてくれた」のは秀吉です。よって彼らは、自分の領内に対する行政権を「秀吉から委譲されていた」はずです。「権限の委譲」が「封建制の基本」だからです。ただし、彼らは「豊臣家の譜代大名」みたいなものです。秀吉には「先祖代々で仕えてきた家来衆」がいませんので、普通は「譜代大名」という言い方をしませんが、豊臣時代の彼らは、江戸時代の「徳川譜代衆」と同じ立場じゃないですか。だとすれば、彼らは「独立した行政権を持っていても、独立した司法権はない」はずで、豊臣家からは「独立していない」はず。

○次に関ヶ原戦の恩賞で、今度は「国主」になります。彼らを「国主にしてくれた」のが、豊臣秀頼なのか、それとも徳川家康なのか、そこは難しいところですけど、「秀頼」だと仮定すれば、この時点では「豊臣家から独立していない」ことになりますね?「家康」だと仮定した場合は、彼らに「国主の権限を委譲してくれた」のが家康である以上、この時点で彼らは「家康という主君から委譲された」ことになって、「徳川家の家来になった」と考えられるとしても、一つ問題が残るんですよ。その前に「秀吉から委譲されていた権限」はどうなるんです?

○福島正則は「尾張の清洲城主」でした。関ヶ原戦の恩賞で「安芸の国主」になりました。つまり「秀吉にもらった領地」を手放して、新たな領地を得ているわけです。しかし、加藤清正はもともと「肥後の熊本城主」で、恩賞によって「肥後の国主」になったんです。新たにもらった部分、すなわち「元は小西行長の領地だった地域」に関しては、新たに「権限が委譲されている」と考えても、元から持っていた領地の「権限」があるんです。しかも「大坂の陣で豊臣家が滅亡した」ことで、「権限を委譲してくれた根源存在」が消滅しちゃうってわけ。その場合、豊臣家の消滅に伴って「豊臣家が委譲した権限」も消滅しちゃうの?

○じゃあ、考えてみてください?「天下統一」に向かって「広大な領域」を手に入れてきた信長は、自分の家来たちに「領地を分配」しているじゃないですか。その「織田家」がつぶれたとき、家来たちが「受けていた権限」は、全部が消滅しちゃうんでしょうか。もしもそうなら、そもそも「下剋上」ができないってことでしょ?「主家を討つ」と、途端に「自分の権限が消滅する」んですからね?

○かつての歴史解釈では「領地の獲得」だけを見てきたわけです。土地の「所有権」だけを問題にして、領地を手に入れさえすれば、自動的に行政権、司法権、立法権、軍事権も「自分のものになる」かのごとき解釈。というよりも、いちいち「権限の問題」なんて考えてこなかったようなもんで、そもそも行政権(その中でも徴税権)しか「気にしてない」んですからね。しかし前回に説明したとおり、江戸時代の外様大名は、譜代大名に比べて「独立した権限」が強いんです。ということは、理解は反対であるべきで、主家が滅亡しても「委譲された権限は消滅しない」どころか、受けていた権限が「主家から独立してしまう」ってこと。

○すなわち「下剋上」とは、「主君の持つ権利を簒奪すること」ではなくて、第一に「主君から委譲された権限を自己所有にしてしまうこと」なんですよ。たとえば、義昭が「足利王国」のレグナントで、信長がリューテナントの場合、その信長が「義昭を追放する」と、義昭のレグナント権を奪うのではなく、信長が受けていたリューテナント権を「自己所有してしまう」ってこと。そして問題なのは、それが「主君を討った自分だけ」では済まなくて、ほかの家来衆も全員「受けていた範囲の権限を自己所有する」んです。細川藤孝、明智光秀といった「義昭の家来たち」が皆「足利家から独立してしまう」んです。日本国の中に「大小さまざまな独立国家が乱立する」ことになるんです。彼らから「権限を取り上げる」ことはできません。たとえ「ほかの領地を与えて、別の場所に移した」としても「既得権限」は継続します。それをどうしても「取り上げたい」のなら、戦争で、一つ一つを「つぶしていく」しかないですね。つまり「乱世に逆戻り」…。

○江戸時代の外様大名が「独立した権限を持つ」のは、徳川家が「既得権限を無理に取り上げることをしなかった」証拠なんですよ。これによって、日本の封建社会でも、その点は西洋に同じ概念であり、小規模の領主権だろうと、大規模な君主権だろうと、主家の滅亡で得た「既得権限」が「認められていた」とわかるわけです。日本は明治維新で「過去の既得権限」をチャラにしちゃったもんですから、このへんの理解がなくなっちゃったみたいで、ぜんぜん考えてないっぽい。

○江戸時代の外様大名を、単純に「徳川家の家来」と言ってしまっていいものでしょうか。私は疑問です。ゆえに「本能寺の変」についても同じ疑問が生じるんです。明智光秀が「将軍義昭の家来だった」ことは、研究者の誰もが認めるところ。その後に信長が「義昭を追放した」時点で「光秀は信長の家来になった」と言われています。もちろん『織田信長家臣人名辞典』にも光秀は記載されています。しかし「旧幕臣衆」を、本当に「織田家の家来」と言っていいのでしょうか。
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