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2020年02月05日00:55

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外様大名が保有する特別権限

○江戸時代の藩主には「譜代大名と外様大名」の別があります。私がまだ学生だった「昭和のころ」には、「関ヶ原合戦の以前に徳川家の家来になった者が譜代大名で、関ヶ原以降に家来になった者が外様大名」という説明でした。今でも変わらないんでしょうね。だって、もしも「理解が変わった」のならば、「本能寺の変」の理解は「画期的に変わっている」はずだからです。そのようすはないし。

○新井白石の自叙伝『折たく柴の記』には、江戸時代に起こった実際の事件が、いくつか記載されています。その一つが「武州川越藩での殺人事件」です。内容は省略しますが、将軍の家宣が「差し戻し」を命じたことで、老中評定所の「再審理」となりました。ちなみに川越藩は「譜代大名の領地」です。前に説明したとおり「領民に関する司法権」は将軍にありますが、それは幕府の直轄領に限った話ではなくて、譜代大名の「領内」であっても「評定所の決裁」と「将軍の承認」がなければ「判決を出せない」ってことなんです。じゃあ藩主には「領民に関する権限が何もないのか?」と言いますと、『折たく柴の記』が書く「越後村上藩での一揆事件」という別の事例。もちろん村上藩も「譜代大名の領地」です。

○細部は略しますが、村上藩の飛び地領の村落が、隣接する幕府直轄領の代官所へ「年貢を下げてほしい」と訴えたことに始まります。代官所が却下すると、村落は「村上藩への年貢納入を拒否した」のです。よって代官所は「村落の全員を村上藩に引き渡す。藩主に従えばよし、従わねば、死罪、追放、田畑没収など、藩主の裁定次第に任せる。それでよろしいですか?」という報告をしてきました。

○たとえ「隣接する代官所へ訴えた」としても、彼らの村落は、あくまで「村上藩の領地」なんです。だから「年貢高を決める」のは村上藩の権限であって、代官所では「門前払い」をするんです。しかし「年貢の拒否」という事件になってしまいますと、その処分を「代官所が決定」するし、「老中評定所が決裁」したのち「将軍が承認」して、はじめて「藩主の裁定に任せる」となるってわけ。もっとも、この件も家宣は「差し戻し」をしてまして、結果は「逆転無罪」になるんですけどね。村上藩は「検地」をやり直して、実情にあった年貢高に改定することとなりました。つまり「一揆事件」の司法については「幕府の上位権限」が介入して「年貢高のほうに問題がある。無罪とするから、検地をやり直してあげなさい」と命じたけども、幕府が自ら検地をやって「年貢高をいくらに決めた」とは、してないってこと。「年貢高を決める」行政権には介入してないんですよ。

○しかし外様大名は違うんです。これも『折たく柴の記』ですが、家宣は将軍に就任した当初に「恩赦」をするんです。蛇足ですが、「遠島刑」というのを「無期懲役刑」のように言う時代劇があります。実際は「終身追放刑」です。無期ならば「刑期が決まっていない」ので、いつか「釈放」という可能性もありますけど、実際には「終身」ですから「一生、島から出られない」んです。懲役刑ならば「役人の監督下で働かされる」のですが、実際は「追放刑」ですから「島にいるだけ」です。現代の刑務所と違って「食事は出ない」ので、自分で畑を耕すなりしないと、生きていけないだけなんです。実家や親戚から仕送りがあれば、働く必要はありません。そして、罪状や経過年数によって「恩赦」はあります。家宣は「将軍になった意気込み」で、恩赦の基準を改めたのですが、それを外様大名たちにも「できれば同じ基準にしてほしい」と「要請した」んですね。すると多くの外様大名が返事を渋ったので、繰り返して説得したんだそうですよ?

○つまるところ、外様大名には「独立した司法権」があるってことなんです。おそらくは、領民に関する裁判でも「藩主の承認」で可能だったと見られます。もちろん「独立した行政権」もあります。ただし「戦争」については話が別なんですね。『細川家史料』で「島原の乱」を見ていけば、外様大名といえども「独立した軍事権はない」とわかります。「征夷大将軍の最高軍事指揮権」には従うのみです。というわけで、将軍は「軍事権、司法権、行政権」の三つを所持。外様大名は「司法権と行政権」の二つが独立していて、譜代大名は「行政権」だけが独立しているらしいわけ。この違いは、どうして生じるんでしょうかね?

○もう一つ、これには重要な問題が付随します。たとえば細川家の場合、関ヶ原戦の以前は丹後国が領地でしたけど、関ヶ原戦の加増で豊前国をもらいます。その後に肥後国をもらいました。こうして「徳川家から領地をもらった」あとになっても、外様大名は外様大名なんです。かつての説明ならば「関ヶ原以降に家来になった」という事情は「何も変わらない」わけで、どれほど加増を受けても外様大名は外様大名にすぎないと言えるでしょうが、新たに「徳川からもらった領地」に対しても、どうして「譜代大名とは違う権限」が認められているんです?

○江戸時代のことを調べていた「十五年ほど前」のころ、この疑問に突きあたりました。解釈は二つが可能です。江戸幕府が成立した当初「意図的に、こういう仕組みにした」と、江戸幕府が成立する以前からの事情があって「必然的に、こういう仕組みになった」です。西洋史を見る限りでは、後者なんですよ。だから戦国時代にさかのぼって、どこに、どんな事情がありうるか、調べる必要が出てきたわけです。そしたら案の定「既得権の問題」というのが、あったわけなんですね。これによって「本能寺の変」の理解も、決定的に変わってしまうんですよね。
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