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2020年01月24日01:58

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戦国史が封建制になってない

○君主の権力を「憲法」で制限するのが立憲君主制。封建君主制だと「違う仕組み」で制限します。そんなことも歴史学者は知らないのかなあ、と思っちゃうね。

○現代で、殺人事件があって、裁判の結果「死刑判決が確定した」としましょうか。その判決に、行政府の長である総理大臣の承認を必要としませんし、国会の承認も不要です。現代の民主主義は「三権分立」だからです。裁判を行うのも、判決を宣告するのも「裁判所の権限」であって、行政府や立法府には権限がないからです。しかし「死刑の執行」には、法務大臣の承認が必要じゃないですか?

○江戸時代の制度では、「死刑の執行」にいちいち将軍の承認を必要としない代わり、その前の「判決を下す」段で「将軍の承認が必要」なんです。民主主義じゃないんですから「三権分立」ではありませんので、将軍が「司法権」も持っています。ただし、これは「領民に関する裁判」の話であって、武士身分は別なんですよ。正式な「主従関係」にある限り、主人は「家来に対する司法権」を持っています。自分の家来を裁くのも、処刑するのも「主人の権限」であって、将軍の承認は不要です。「こういう事情で、こうしました」と事後報告をするだけ。

○これも、時代劇だと逆なんですよね。武士が町人を斬り殺しても「斬り捨て御免」で許されるとかって話。実際は、大名だろうと「取り調べ」の対象です。もっとも「大名がそんなことをした事例」はありませんけどね。調査の結果「確かに町人のほうに無礼があった」と裁定されれば、無罪となりますが、理不尽に殺した場合は「切腹」です。一方、わがままな大名が、理不尽に家来を殺して、幕府にバレたら困るから「内々に済まして、隠蔽する」とかって話。実際は、ちゃんと幕府に事後報告しさえすれば、「今後は無茶なことをしないように」と叱られる程度で済んじゃいます。べつに大名でなくとも、武士身分であれば、自分の家来を殺害しても無罪です。とはいえ、いくら幕府が注意しても「粗暴な行為がなおらない」となれば、最終的には「行政処分」の対象になってしまいますけど。

○現代だろうと江戸時代だろうと、「法で定められた権限」というのがあって、その範囲を逸脱すれば「権力の濫用」なんですよ。現代は、民主主義の理念に基づく憲法によって、権力に制限を定めていますけど、封建制度では、それを「権限の委譲」でもって制限するんです。つまり、領民に対しては「将軍の司法権」があるものの、武士の家来については「主人に司法権が委譲されている」ので、これを逆に言えば、将軍であろうとも「他者の家来を裁くことはできない」んですよ?「領民に対する司法権がある」と言っても、町奉行所に「捜査権」を委譲して、老中評定所に「審理権」を委譲しているため、将軍は自分で裁判をすることもできません。疑問や不満があれば、「承認しかねる」と拒否権を行使するのみです。お忍びで出かけて、自分で裁く『暴れん坊将軍』は、時代劇でしょうが。

●永禄十三年正月二十三日「信長の条書/日乗上人・明智十兵衛宛」三〜四
「一、奉対公儀、忠節之輩に雖被加御恩賞御褒美度候、領中等於無之は、信長分領之内を以ても、上意次第に可申付事」
「一、天下之儀、何様にも信長に被任置之上者、不寄誰々、不及得上意、分別次第可為成敗之事」

○今度は「条書の四」です。義昭は「天下のことをいかようにも信長にお任せになられた」わけです。だったら「誰々に寄らず、上意を得るに及ばず、分別次第で成敗をなすべき」というのが信長の主張。「誰であっても、義昭の承認を得ないで、信長の判断で、成敗できることにします」と言っていますが、「成敗」の言葉は単純に「処刑する」の意味ではなく、もっと広く「裁判権」のはずでしょう。ゆえに問題なのは「義昭の承認を必要としないで、裁くことができる」の点。

○もちろん「織田家の家来」に関しては、信長に裁判権があるはずで、その判決にも、刑の執行にも「義昭の承認を必要としない」はずです。しかし「足利家の家来」や「他の大名家の家来」については、信長に権限はないはずなんです。それにも関わらず「義昭の承認もなく、信長に裁判ができる」というなら、信長は「義昭から司法権を取り上げてしまった」意味になるでしょうか。一見「そういうふうにも読める」のですが、ならば「条書の三」を見てください。「公儀に対し奉り、忠節のやからに御恩賞、御褒美を加えられたく候といえども、領中などこれなきにおいては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべき事」と書いています。この文を「信長の領地の内から恩賞を与えて、信長の家来にしてしまう意味だ」と読んだ人がいますけど、ちゃんと「上意次第」と書いてあるじゃないですか?「義昭様に忠節した者に、義昭様が恩賞や褒美をあげたくても、義昭様の領地に余裕がなく、あげられないなら、信長の領地を削っても構わないので、義昭様の御意向どおりに与えます」と言って、義昭の「上意」を認めています。

○「信賞必罰」の言葉があるように、いいことをすれば褒美が与えられて、悪いことをすれば罰せられるべきです。信長は「義昭様から褒美を与え、信長が罰する」と言っていますので、ここで言う「成敗」とは「司法権」の意味ではないようです。これはたぶん「軍事権」で、つまり「軍法による裁判権」の意味ではないでしょうか。本来の将軍は「征夷大将軍」の肩書でもって、「武家の棟梁」として「最高軍事指揮権」を持っていますが、どうやら義昭は、軍事権を信長に委譲してしまったみたいですね。「義昭の王国」は、信長の軍事力で支えられていたのですから、信長としては「指揮権の統一」を必要としたのでしょう。すると疑問になるのが「鞆幕府」です。信長に「軍事権を委譲してしまった」ことに懲りた義昭は、輝元には軍事権を与えずに、自分で「軍事指揮権」を持ってたの?
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