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2019年12月09日00:38

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本能寺の変に土橋が便乗した

○手紙史料の場合、本人の筆跡が確認された「原本」なら本物ですが、「写し」などは「後世の人物が勝手に書いた」偽造史料であることも少なくありません。リアルタイムに書かれた手紙史料の価値は高くても、「原本」でなければ安易に使えないのです。その点、日記史料の信頼度は高くなります。紙一枚の手紙を偽造することに比べたら、日記の偽造というのは、相当な手間がかかりますからね。

○天正八年に大坂を退去した本願寺の門主は、和歌山市の「雑賀郷」にある「鷺ノ森」に移りました。ここで右筆を務めていた人物が日記を残しています。「本能寺の変」が起こった直後のころ、雑賀衆の「動き」が少し書かれているんです。

●『宇野主水日記』天正十年六月
「六月三日夜、鈴木孫一入城をアケテ岸和田城へ罷退」
「四日、ハシメノ骨張衆悉罷出て、早天に鈴木城を放火、それより兵太夫城をトリ巻て、兵太を討果了。同日小左衛門、幸仏両人の城へ取懸放火、此両人は内々扱ありて、命をばタスケ置也」

○この日記史料が、どの程度に信頼できるのか、そこは不明です。たとえ本物の日記でも、保存のために書き写すことがあって、その際に書き間違えることもありますし、勝手に「修正しちゃう」こともあるんです。だから「細かい点」を見ても意味ないんですが、少なくとも「雑賀衆の内部で戦闘が起こった」ことについて「書いてある」んですね。『宇野主水日記』によれば、雑賀に「本能寺の一報」が入ったのは六月三日の午前中。その夜に、鈴木家の当主「孫一」が岸和田城へ逃げたとのこと。雑賀郷は和歌山県和歌山市(紀伊国)で、岸和田城は大阪府岸和田市(和泉国)ですから、「他国へ逃げる」ぐらいの状況なんです。そして「光秀の原本手紙」には、高野衆と根来衆と雑賀衆が「至泉河表御出勢」と書いてあったわけですよね。泉州(和泉国)および河州(河内国)の方面へ「御出勢」ですから、兵を出した意味です。その後に岸和田城を攻めたのかどうか、そこまではわからないんですが、鈴木孫一が雑賀を逃げ出したのは事実らしいです。

○では、この「情報」でもって、光秀の手紙の内容を「論理的に読解」してみましょう。手紙の文中にあった「上意」の表記。これが誰であれ、和歌山の地元勢力に「上意を与えた」と仮定します。その場合、高野衆も根来衆も「上意を受諾した」のに、雑賀衆では「中心集団の鈴木家」が拒絶して、しかし土橋家などは受諾するという「分裂状態になった」と考えられるわけです。よって「上意に従う勢力」から攻められることを恐れて、鈴木孫一は自分の居城(実際には居宅という程度の規模)を捨てて、逃げたことになります。と、このように「解釈」した場合、一つの点に気づきますでしょうか。雑賀に「本能寺の一報」が入ったのは三日の午前中で、その夜には「孫一が退去している」わけですから、「本能寺の一報」自体が「上意」の意味になるってこと。光秀の背後にいる「高位存在」が「信長を討った。私の命令に従え。光秀に協力せよ」と「報せてきた」ということ。だとすれば、遠く備後にいる「義昭の上意」ではないってことですよね?

●『信長公記』巻十五(天正十年)
「正月廿七日、紀州雑賀の鈴木孫一、同地の土橋平次を生害候。子細は、鈴木孫一が継父、去年土橋平次討殺し候。其遺恨に依つて、内々上意を経、今度平次を生害させ、土橋構押詰め、右の趣注進申上ぐるるの処、鈴木御見次として、織田左兵衛佐大将として、根来、和泉衆差遣はされ、然て土橋平次子息、根来寺千職坊懸入り、兄弟一所に楯籠るなり」

○ところが『信長公記』に上記の内容があるんです。「鈴木孫一が、土橋平次を殺害。孫一の継父が、以前に平次に殺されたので、その遺恨で、内々に信長公の許可を得て、平次を殺し、土橋の居宅を押し詰めた。それを報告すると、孫一の後見として、織田信張を大将に、根来と和泉の衆が派遣された。そしたら平次の息子らが根来寺の千職坊に逃げこみ、たてこもった」というのが十年一月の話。記録史料の中では信頼度の高い『信長公記』ですが、それでも「遺恨があったから」という「理由の説明」を鵜呑みにするべきではありません。とはいえ、雑賀衆の内部で「鈴木家が土橋家を襲撃した」という事件があったのは、『宇野主水日記』にも記載がありますし、公家の日記にもあるので、事実と見られるのです。

●『宇野主水日記』天正十年一月
「廿三日、土橋若太夫を於橋ノ上討果、若太夫子供五人彼構へ取籠、近付衆思々に集る。又鈴木孫一を始て、兵太夫、小左衛門、幸仏此衆一味也」

○「一月の襲撃」の報復で「六月の襲撃」が起こったと考えれば、整合性がつきますね。この「情報」が加わることで、話が変わります。織田家に恭順する鈴木家と、反発する土橋家の内部対立があったところに、信長の急死で「後ろ楯を失った」鈴木孫一が、身の危険を感じて逃亡すると、すぐに土橋家が報復行動に出たということ。つまり、先ほどの解釈とは反対に「上意を受けての行動とは断定できない」となってしまうんです。かえって土橋が「本能寺の変に便乗した」可能性が考えられます。自分たちの行動を正当化するために「土橋のほうから高位存在に接触した」とすれば、「高位存在=義昭」の可能性も否定できないのです。
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