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2019年08月19日00:35

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総論11「通説が阻害する」合戦考証71

○「城」というのは、そもそも「落とされない」ために造るものです。しかしながら、どんなに工夫を凝らした堅固な造りの城であろうとも、「防衛する兵がいない」ようでは、簡単に乗り込まれて「落とされる」わけです。「仏を作って魂を入れず」と言うごとく、兵力のない城など「無用の長物」にすぎません。ところが「城の構造や性能」だけを見て、落とせるの落とせないのと言う人たち。通説の「大坂の陣」が典型的と言えるでしょうね。難攻不落の大坂城は「落とせない」ので「家康は一計を案じ、和睦したフリをして、堀を埋めた」という話。

○城とは「防備してある」ことが前提のものです。ゆえに「城は落とせないものだ」と考えることが前提となります。ところが「落ちたかどうか」の「歴史的結果」だけを見て、落とせるの落とせないのと言う人たち。通説の「関ヶ原合戦」が典型的で、防衛兵力もろくにないはずの伏見城を「なかなか落とせなかった」と言ってみたり、ばっちり防備を固めているはずの岐阜城を「一日で攻め落とした」と言ってみたりするありさま。合戦の理解をいかに通説が邪魔するのか。

○「城は落とせないものだ」という第一前提は、正確に言えば「即時に乗り崩して落とすことができない」の意味にすぎません。ここに時間の要素を加えることによって、「即時に落とせないのなら、無理に落とさなくても、干し殺しにすればいい。いずれは敵のほうが城を出てこざるをえなくなる」という考え方が成立するわけですね。つまり「防備の足りない城は短期で落とせるし、防備してある城でも長期で落とせばいい」となって、どのみち「城は落ちるものでしかない」という「逆の前提」が成り立つわけです。しかも「鉄砲の時代」になると「防御してある城でも、比較的短期間に仕寄で落とせる」となってしまうため、なおのこと「敵には籠城する意味がない」んですよ。しかし『信長公記』の中にも「敵が籠城抵抗した」事例の記述は、いくらでもあるわけですね。なぜでしょうか?

○それは当然ながら「籠城しても勝てると思ったから」に決まっているじゃないですか。というふうに私が言ったところで、「勝てる見込みもない戦争を平気でやる」と思い込んでいる人たち。それは「近代戦争の悪影響」ってもんですよ?

○元亀元年の姉川合戦「信長による小谷城攻め」の場合ですと、まだ「弓矢の時代」なのですから、信長は「長期間の干し殺し」をするしか方法がないわけですよね。だとすれば、敵の浅井長政は「信長に長期間の対陣は不可能である」と判断したからこそ「籠城に踏み切った」はずだし、現に信長は「十日ほどで決着をつけた」わけで、結果的に長期対陣を「していない」んです。ゆえに問題は「信長に長期対陣ができない」と「どうして浅井が判断しえたのか?」の点となります。ここは非常に複雑なので、今は割愛しますけど、その答えを示す記述が『言継卿記』の中に見つかりました。ちゃんと「記録はあった」のに、通説が理解の邪魔をするせいで、「文章を読んでも意味が理解できないから無視される」わけ。

○一方、天正九年「秀吉による鳥取城攻め」の場合なら、すでに「鉄砲の時代」ですから、秀吉には「比較的短期に仕寄で落とす」の選択がありますよね。だとすれば、敵の吉川経家は少なくとも「秀吉が仕寄を仕掛けてこない」と判断したから「籠城に踏み切った」はずだし、現に秀吉は「四ヵ月の長期対陣」をしたわけで、ついに仕寄は「しなかった」んです。とはいえ「長期間の干し殺し」をくらえば「最終的には落ちる」ことになるわけで、だったら「秀吉には長期対陣も不可能だ」という判断もしていたのでしょうか。しかし秀吉は長期の干し殺しをしたのですから、そこの判断を間違ったせいで吉川は敗北したわけですか?

○この時点で「矛盾が生じている」ことに、お気づきですか?「長期の布陣ができない」のなら、仕寄で落とせばいいだけのことです。すなわち「仕寄を仕掛けてこない」と判断したということ自体が、「秀吉は長期の干し殺しを仕掛けてくると判断した」ことの「意味」なんですよ。それが「どういう意味なのか」と言えば、つまり「秀吉に鳥取城を落とす気はない」と判断したってことです。狙われているのが鳥取城で、織田軍にとって「鳥取城を奪取すること」に重要な意味があるのなら、吉川経家に「じっと籠城していること」の意味がないんです。どうせ「城攻め」に来ても、城を落とさずに「干し殺しを仕掛けてくるだけ」と判断したから、吉川は籠城抵抗を選択したのです。この点から「通説は間違えている」んですよ?「鳥取城を飢えさせて落とすのが秀吉の狙いだった」ってふうに。

○では、このとき秀吉は「何を狙っていた」のでしょうか。その答えは『信長公記』に書いてありますが、これも同様に「読んでも意味がわからない」わけですね。秀吉の目的が「鳥取城を落とすこと」だと思うがゆえに、せっかくの記述が意識の中で「つながらない」んです。歴史学者も歴史家も、そして歴史作家にしても、合戦の理解の根底に「通説というフィクションが居座っている」限りは。
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