座右の銘というには長すぎるかもしれないが……
325人に座右の銘をきいた! 自分を励ます魔法の言葉
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=93&from=diary&id=6011937
おまへは化学をならったらう。水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはたれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。
(ちくま文庫『宮沢賢治全集7』P554〈銀河鉄道の夜 初期形第三次稿〉)
本当はこの言葉の前後2ページ分ほど引用したいのであるが、そんな長い引用は、いくら賢治作品が著作権フリーだからといって、やはり気が引ける。で、最低限ここだけは、という箇所を抽き出してみた。これ以上短くするのは私の能力では無理である。
私にとって座右の言葉といえばやはり賢治なのだけれど、一番好きなのが最終的な原稿から削除されたこの箇所というのは、もしかしたら賢治の意に反することなのかもしれない。しかしやはり、この言葉は今でも生きていると思う。
私が望むのは、人が「ほんたうの考」だけで議論してほしいということだ。
本当の考えだけで議論をしてなお、「そして勝負がつかない」のは人間の自然なあり方だろう。しかし今の世の中は「うその考」で議論する者が多すぎる。嘘か本当か自分でも分からないで結果的にそうなっているのなら仕方がない、というよりそれは当然そうあるべきことなのだが、今は意図的に嘘の考えを広めることが常態化している。
わたくしはさういふ世界がほんたうにいやなのである。
「けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなって行く」
(ちくま文庫『宮沢賢治全集7』P65「なめとこ山の熊」)
本当にそうであったらいいと心より思う。
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