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2019年12月05日03:55

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中村哲医師と「赤ひげ」について

■アフガンで銃撃、中村哲医師死亡=「ペシャワール会」現地代表、支援活動中
(時事通信社 - 12月04日 14:31)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=5889200

 ずいぶん以前に中村哲氏の著書を読んだことがある。たしか1993年のちくまプリマ―ブックス『アフガニスタンの診療所から』だったと思う。
 本を探し出していないので記憶に頼って書いているが、概略こんな内容だった思う。

 中村哲氏の医療以外の活動は、彼の診療所に通う患者の足が血だらけなのに気づいて、足を痛めない靴を作るところから始まった。
 患者の多くは徒歩で何日もかけて診療所に通っていた。そして彼らの多くは靴底が木の、手作りの靴を履いていたので、靴底をとめるための釘が足を傷つけていたのだと知る。中村医師はそれならゴム底の靴を履いたらいいのではないかと考えた。しかし靴を買う金もない貧しい患者ばかりである。そこで彼は自動車のタイヤを再利用して靴を作る事を思いついた。
 その過程で、中村医師は現地には医療以前に解決しなければならない事があると考えるようになった。ここから氏の医療外活動が始まって、現地の農業を再生するための井戸掘りに発展した。
そんな事が書いてあった記憶がある。

 その後の中村医師がさらに用水路建設にまで進む過程は書籍を通じてはフォローしていないが、度々報道されるのを見てはいた。
 2016年のETV特集「武器ではなく命の水を」も見た。

 私が中村哲氏について知っている事はその程度でしかないが、このたび氏の人生とは何だったのかと考えていて、黒澤明の「赤ひげ」の台詞を思い出した。
 だが正確な台詞が思い出せず、検索してもはっきりしないので山本周五郎の原作の方の台詞を示しておく。

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https://www.aozora.gr.jp/cards/001869/files/57840_65217.html

「現在われわれにできることで、まずやらなければならないことは、貧困と無知に対するたたかいだ、貧困と無知とに勝ってゆくことで、医術の不足を補うほかはない、わかるか」

「ここで行われる施薬や施療もないよりはあったほうがいい、問題はもっとまえにある、貧困と無知さえなんとかできれば、病気の大半は起こらずに済むんだ」
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 近頃はあまり使われないかもしれないが、貧しい人々を献身的に治療する医師を「赤ひげ」と呼ぶ言い回しがあったものだ。中村医師もそう呼んでいいだろう。
 しかし上の台詞を見ると、むしろ中村哲氏の医療以外の活動こそが、最も「赤ひげ的」だったのだという事に気づかされる。


 ところで、中村哲氏の報道についたコメントを見ていたら、心無いと呼ぶのが相応しい発言がかなり見受けられた。それらに一々反論しても詮ない事であるが、彼ら全員に伝えるのに相応しい言葉がドナルド・リチーの「赤ひげ」評にある。
 やや長い引用になるが、知っておいて損はない言葉と思う。

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この映画に出てくるいくつかの対比を注意して見てゆくと、赤ひげから保本、保本からおとよ、おとよから長次へと、黒澤が、善のきずなを創りあげていることがわかる。この着想は新奇だ。われわれはみんな悪のきずなを――悪は悪を生むのだと堅く信じている。……しかしながら黒澤は「赤ひげ」で、善もやはり善を生むのだというおどろくべき、われわれをあわてふためかせそうな命題を提出しているのである。
黒澤がこの映画の中で勇敢にもなしとげたものは何か?――それは理解できる。われわれが住んでいる世界は病院のようなもので――あるいは実は地獄なのかもしれない。しかし善も悪同様に伝染するものなのだと黒澤は発言しているのだ。われわれは《悪は悪を生む》とだけ固く信じているわけなので、その反対の提言にはまったく驚嘆してしまう。どこでもそうだが、現代日本もまた冷笑の世界である。この冷笑の時代にこうした命題を考えることは、ほとんど恥ずべきことのようにさえ思われる。しかし、それゆえにこそ黒澤はこの映画を作ったのだ。
(ドナルド・リチー『増補 黒澤明の映画』P492)
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ドナルド・リチーの原書は1965年刊だが、その当時でさえ日本は「冷笑の時代」だった。そして半世紀経った今、「冷笑」の気風はさらに強くなり、社会を上から下まで覆っているように感じられる。
リチ−が指摘した「悪は悪を生む」という通念も、「憎しみの連鎖」という言葉で、当時より一層厚く世界を覆っているように見える。

しかし「善は善を生む」もまた、それら冷笑的真実と同様に真実であるという事を、中村哲氏はその身を以て証明してきた。
中村医師が一軒の診療所から始めて、靴作りから井戸掘へり、そしてついに国全体を潤す事を目指して用水路建設に邁進してきたのは、彼一人の力でできたことではない。活動を続けるうちに多くの仲間が生まれて、思いを共にしてきたからこそ可能だったのだ。
「赤ひげ」における、「善のきずな」そのままに。

事実として、アフガニスタンにおいて善は善を生み出した。
日本においても、そうあろうと努めるべきなのではないだろうか。
それこそが中村哲氏の人生から何よりも学ぶべき事だと思う。

私もまた冷笑の世界に生きる一人である。日本社会が中村哲氏から学び、善が善を生み出す社会を作れるかどうか、その希望は決して大きくないと感じている。しかし少なくともアフガニスタンにおいては、中村哲氏の遺志を引き継ぐ多くの者がいる。彼らが中村氏の始めた事業を継続し、それはこれからも絶えることはないだろう。
それだけは信じられる。
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