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2016年10月15日22:12

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NHKの賢治番組を論じて併せて日本の伝統文化に及ぶ

 百蹉跎亭佗助さんのご要望に応えて、ボイスから日記に昇格させることになった。

 きっかけは10月13日のコズミックフロントNEXT「銀河鉄道からのメッセージ 宮沢賢治の宇宙論」
http://www.nhk.or.jp/cosmic/broadcast/161013.html
からである。
 オタクは大抵そうだろうが、自分の関心事をTV番組が取り上げると、内容が薄くて薄くて見ていられないことがある。残念ながら今回がそうだった。もちろんこれは本来番組の責任ではない。視聴者一人一人に合わせて番組をチューニングする訳にはいかないのだから。だがそれにしても、見ていて番組の方向性としてずれている気がしてならなかった。

 というわけで愚痴っているうちにコメントが膨らんで、かような仕儀と相なった。


 以下本文。
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どうも……賢治が同時代の宇宙観をどう消化して作品に生かしているかを論じるならいいのだが、「現代天文学」に当てはめようとすると無理矢理感が否めない。#コズミックフロント

いうか今回、現代の知見を紹介する必要はないと思う。そういうことは普段の放送でいくらでもできるだろうに……もうちょっと「賢治の見ていた宇宙」に迫る姿勢がほしい。#コズミックフロント

あと今回、賢治の科学にだけスポットを当ててるので宗教的思想的次元が落ちてる。これじゃ賢治だか原田三夫だか分からなくなる。番組もうちょっと頑張ってくれないかな……#コズミックフロント

まあ、一時間でまとめるのが土台無理なのかもしれないが……作り手が番組の枠に無理に押し込めようとして群盲撫象の一人になってしまった感。#コズミックフロント

池澤夏樹は賢治を「人生より作品が大きかった」人と書いている。しかしメディアが賢治を取り上げる時は、人生を大きくして作品を小さくすることで辻褄を合わせる傾向がある気がしてならない。

吉本隆明が言っているが、羅須地人協会の活動などは本気の社会活動家から見たら旦那芸レベルである。賢治の構想を本気でやった人に松田甚次郎がいる(安藤玉治『「賢治精神」の実践 松田甚次郎の共働村塾』農文協1992)。

同時に吉本は言う。「しかし、その思想圏は、どんな近代知識人よりもいいのです」(『文芸読本 宮沢賢治』河出書房新社1977・p114)

結局、日本人には「文学」というものは作者の「生活」と同程度の大きさしかないものだという固定観念があるような気がする。取り上げ方があまりに「小さい」し、その小ささに見合ったスケールのない小説ばかりが「人気になる」。最近じゃアニメまでそうなってきた。
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百蹉跎亭 佗助
それは日本の近代文学史の黎明期から文学とは私小説であると云う文脈があるからでしょう。SFで云えばやたらインナースペースにこだわりまくったのでどんだけ深く自分に潜れるかばかりを競うようになって、そりゃあスケールは小さくなりますわな。で、もっと外の世界にも目を向けようぜ!とした作家は概ね異端と…。(笑)
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mesklin
> 百蹉跎亭 佗助さん 私小説は近代文学の問題ですが、根っこはもっと深くて、日本文化には歴史的に知的構築を重視しない性格があるのかも、と思ったりします。つまり問題は「現実偏重」かなあ、と。

> 百蹉跎亭 佗助さん 最近発掘した『ケプラーの夢』(1634)をずっと読んでるのですけれど、史上初の「月世界を科学的に想像した小説」なのですね。こういう作品を天文学者が創作し、しかもその後の西欧知識人に大きな影響を与えている。この種の流れが日本史にはないのです。
フォト

つまり知的に現実を超えた世界を構築するという態度です。これが現代エンタメ消費者に至るまで、「ない」。mixiでも時々ありますが、「娯楽だから」出鱈目でも良いという主張をよく見ます。つまり、「リアルな」現実と、「リアリティーのない」創作の二者択一で考えている。

「知的にコントロールされた想像力」という発想がきわめて弱いのが日本文化の特徴で、これは古典文学からずっと継承しているのではないかという気がするのです。

近代文学で知的な創作の流れになったかもしれないのが明治の政治小説だといいます。このジャンルが自然主義文学によって潰されたという歴史も、「現実主義文化」の産物かなあ、と感じます。

非SFファンの間で、SFファンとは「科学的」な主張をしてエンタメを否定する人種だ、という典型的思いこみがありますが、こういう精神風土と無関係ではないと思います。

こういう思いこみは、「科学的」という言葉を、「現実」と同じ意味合いで使っています。つまりフィクションに「正解が一つあって、その正解でないから否定する」のがSFファンだ、と思いこまれているわけです。で、SFファンは娯楽を理解しない偏狭な人間だと思われている。

SF(の一部)にとっての「科学」は、想像力に力を与える「道具」である。しかしほとんどの消費者にとって科学は、想像力を束縛する「現実そのもの」として考えられている。そういう「道具」は科学の他にも多種ありますが、「デタラメに使ったのでは何も生まれない」ことは、どの道具でも共通しています。

けど、日本人にとっての「想像力」は「デタラメ」とほぼ同一視されています。若い世代ほどその傾向が強い気がする。その根底には「情」を無条件に肯定する文化的伝統があると考えています。つまり日本的伝統への回帰であり、昭和初期への道です。
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百蹉跎亭 佗助
> mesklinさん とてもウンウンとニマニマしてしまうコメントが続いてますが、本日は体力が尽きたので、後日改めます。(笑)出来れば、つぶやきではなく、日記に展開されませんか?(笑)
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mesklin
> 百蹉跎亭 佗助さん それじゃやってみますか。計算尺の日記以来になりますが、ここまでのコメントを再掲するという形で。
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コメント

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