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2015年01月19日23:44

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三春町にガイナックスが進出する報道に思ったこと

 先日、書庫から資料を発掘していたら、S・S・ブロウアー『カリガリ博士の子どもたち』を発見した。パラパラめくっていたら、こんな引用があった。
(「カリガリ博士」を製作した会社の社長の証言である)


第一次世界大戦後、ハリウッドが世界支配に向かいだした。(略)ドイツは敗北した。どうやったらほかの国々と競いうる映画をつくりうるか? ハリウッドやフランス映画をまねしようとしても、とてもむりだったろう。それで、われわれはあたらしい試みをやったわけだ。つまり表現主義というか、様式化された映画だ。ドイツにはあふれるほどすぐれた画家や作家がいたし、しっかりした文学の伝統があったから、これは可能だったのだ。(略)ドイツにとっての問題は、ハリウッドと競争することだった。
                                   (『カリガリ博士の子どもたち』198頁)


 つまり、ドイツ表現主義映画が目指したことは、「クール・ジャパン」と同じだったと言えないだろうか。
 アメリカのメジャーな文化には真似できない独自な文化的表現を確立すること。それを産業のレベルでやろうとした。
 映画史に無知なので、この試みが、その後どのような経緯を辿ったのか全く知らないが、 自分が気になるのは、ドイツではなくあくまで日本のことである。
(ドイツ表現主義の歴史も気になるが、また一つフォローすべき問題が増えるのかと思うと、少々疲れてしまうのだ)

 「クール・ジャパン」について、いろいろ威勢良く語られるようになってきたが、1920年代ドイツの先例を思うと、あまり楽観できる状況にはないように思う。

 表現主義映画の作り手たちには、文化運動としての自覚があった。しかし「クール・ジャパン」を政治的に推進したがっている連中に、そこまでの意識があるようには見えない。


 今日、福島県にガイナックスが制作拠点を新設するというニュースがあった。
 「エヴァンゲリオンの制作会社」というふれ込みだが、現在の劇場版ヱヴァがガイナックスとは無関係であることは全く報じていない。
 この件で福島県知事はエヴァやウルトラマンやゴジラに(福島ゆかりのコンテンツという関係で)言及したが、その「中身」については何も触れなかった。もし触れていたとしても、その声は報道されていない。
 みんな、「中身」には興味がないのだろうと思う。

 「クール・ジャパン」とかサブカルチャーとかコミケとかの報道すべてに共通するのは、「売れている」「人気がある」としか語らず、どんな「内容」なのか決して語ろうとしないことだ。
 つまり産業としての興味でしかないということなのだろう。どんな「文化」なのかに関心がないのだ。

 日本のサブカルチャーが国際競争力をどうにか維持している原動力が、産業としての力ではなく、文化としての力であることを考えると、「クール・ジャパン」を推進する勢力に文化という認識が乏しいのは、非常に危うい気がする。
 今、「クール・ジャパン」のコンテンツを国際的に売り出そうとする動きは、「外国の観客に受け入れられるようにする」、すなわち「現地の文化に適合させる」という立場で進められているように見える。

 これは工業製品を輸出する姿勢と変わらない。「文化」の輸出を、自動車を左ハンドルに付け替えるのと同じメンタリティーでやろうとしている。しかし「コンテンツ」を顧客の文化に合わせることは、むしろ商品価値を落とすことになるだろう。

 もちろん日本の文化が海外に普及するなら、文化的に変容するのは当然だが、それはあくまで「受け入れる側」がすべきことだ。送り出す側が率先して進めるべきではないと思う。

 それを無自覚にやればどうなるか。商業的に成功するためには、どこまでも顧客の要望に合わせ続けることになるから、成功すればするほど、文化的な距離は縮まり、現地文化と差別化できなくなる。
 その帰結は競争力の喪失だろう。ハリウッド文化を世界中に輸出できるのは、アメリカの経済力が背景にあるからだ。日本の国力が衰え続けていく以上、同じ土俵でハリウッドと競争できる時代は決して来ない。

 結局、日本発の文化が競争力を保ち続けるには、「異文化」であり続けなければならないということになる。だから、自分たちがどんな「文化」を送り出すのか、明確な自覚がなければならない。 「クール・ジャパン」にはその自覚が感じられない。

 サブカルチャーを「クール」と言い募るばかりで、「中身」を何も語ろうとせず知ろうともしない「クール・ジャパン」は最初から失敗を運命づけられているように思える。


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