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2020年04月05日22:52

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【うちのんとの思い出】癖が強すぎたうちのんの家族(その2)

※最初にご注意を※
私の記憶をたどっているので、脚色というか美化されている箇所があるかもしれません。
変な表現があるかもしれませんが、そこはご了承ください。

今回は以下の続きなので、先にこちらを読むことをおすすめします。
【うちのんとの思い出】癖が強すぎたうちのんの家族(その1)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1975244584&owner_id=6286369


2006年8月にうちのんの母親が亡くなり、どうにか葬儀を済ませることができましたが
それですべてが落ち着くわけではありません。
たとえ離婚していても母親の家事を期待していた父親にとっては
大事な金づると家政婦を同時に失ったわけことになるのですから一大事です。

よく考えれば、2か月ほどの『家政婦不在』で音を上げていたのだから、
肉親の誰かに助けを求めるのは必然だったのかもしれません。


2007年の夏、突然うちのんの父親からうちのんに電話がかかってきます。

「今日、東京行くからよろしゅうな。」

うちのんが混乱して私に電話してきます。

「父ちゃんが東京来るって。もう新幹線に乗ってるらしい。」
「なぜに?父ちゃんこっちに用ないだろ?」
「分かんない。若松で何かあったのかも。」

会社を定時ダッシュして東京駅へ行くと、うちのんの父親はニコニコして
「お世話になります、へへへ」と言うのです。

『へへへ』じゃないですよ、本当に。その態度が泊めさせてもらう態度かと。
『なんで東京に出てきたのか?』と理由を聞いてもはぐらかすので
『お金に困って逃げてきたんだな』と察しました。
その場で「帰れ!」と言うにも当日福岡に帰れる新幹線も終わっており、
やむなく連れて帰るしかなくなりました。
そして、家に上げるわけですから、当然のごとく居座るわけです。
しかも、人の家ではなく、わが家のように振る舞うようになるのです。

そして、トラブルもたくさん。

まずは近所周辺に「引っ越してきましたぁ。よろしく」とあいさつし始めるのですが
道路近くの地面に置いてあるものは全部もらえるんじゃないかと勘違いして、
「この置いてあるのっていただけたりせんですか?」と
平気で声をかけてご近所に迷惑をかけます。
むしろ、もらってこられても迷惑です。

うちのんに自転車のカギを借りて、近所周辺走り回り、
帰ってきてもカギを返さずに延々と使い続け、しまいにはカギをなくします。
カギをなくしたら自転車が使えないので、ロック錠を取り外し、
市販のものに付け替えようとしますが『取り付けられたらOK』とばかりに
しっかりとねじ止めをしないのです。
「ちゃんとネジを止めないと」と注意しても直そうとしません。
そして、翌日自転車を乗って出かけて店に入っている間に自転車を盗まれます。
『盗まれたんだから仕方ない』と言う感覚で盗難届も出しておらず、
うちのんが慌てて父親を交番に連れて行って盗難届を出させる始末でした。

ある時は一緒に買い物に出かけて、いついつはどの料理を作るからと
計算して食材を買っているにも関わらず、その場を観ているにも関わらず、
自分の食事のために勝手に食材を使って食べて、夕食時に食材不足を起こします。

また、ある時は自分でご飯を炊こうとして、炊飯器ごとひっくり返し、
炊飯器を割って使用不能にしたにもかかわらず、まったく弁償しようとしません。
私が「ごはんどうやって炊くの?」とこんこんと怒ったために
やっと重い腰を上げて新しい炊飯器を買ってきてくれたのです。

それだけのトラブルを起こしておきながら、ご近所には人当たりの良さで
うまく話を合わせては
『うちの娘の旦那はろくでもない』
『娘の親をないがしろにするなど許せん』と言いふらしていたんだそうです。

ご近所さんが私のことをそう言っていたとうちのんから聞き、
私は悲しい気持ちになりました。誰が自分勝手に動いてるんだと。
そもそも勝手に東京に来て、若松の家をほったらかしてるのは誰だと。


若松の家をほったらかしてる状況は、別の問題を引き起こします。

市川に引っ越してきた以上、
住民票と国保と年金のは住所は切り替えておかないと何かと問題があります。
ですから、半ば強制的に住所変更をさせたのですが、
なんと、北九州から督促状が届いたのです。

それは、若松の家(市営住宅)の未払い家賃の支払い督促、
そして、北九州での国保保険料の未払い分の支払い督促です。

たとえ私が督促されているのではないにしても、ポストに督促状が入れられていると
ご近所がそれを見つけたときに心証がよろしくないので、
私は何とかして、うちのんの父親に『この二つを解決してきてほしい』と頼みます。
しかし、うちのんの父親は全く動こうとしません。

結果、若松の家(市営住宅)の家財道具は競売にかけられ、
それにより相殺する旨の通知が来ましたが、国保保険料の未払い督促は止まりません。

改めて、うちのんの父親に『国保保険料の督促について話をしてきてくれ』と頼み、
父親は北九州に一度行くことになります。

父親は北九州で話をして帰ってきましたが、口から出てきた言葉に耳を疑いました。

「『今、千葉でアルバイトをしているからそれで支払います』って言って帰ってきた。
 納付書はまた改めて送ってくれるそうだ。」

アルバイトなんかしてないんですよ、うちのんの父親。
なにウソ言ってごまかしてんだよ。んなことしたって支払いの総額減らないし、
そもそも、延滞の利子分が余計に乗っかるじゃないか・・・(苦笑)

その時点でやっと私は理解したんです。
『(うちのんの父親は)話を理解する気がない。
 とにかくその場を逃れればどうでもいい人』なんだと。

とはいえ、食料があれば家でおとなしくしてくれるので、
余計なことをできるだけさせないようにすればどうにか丸く収められるのでは
と、私は考えていたのですが・・・


2008年の春ごろ、うちのんの携帯電話に知らない携帯電話からの留守電が入っていました。
留守電を聴くと、蒸発したはずのうちのんの弟でした。

聴くと、二島の家は別の人が住んでいるし、若松の家にも父親がいない。
うちのんの知人に相談したら、うちのんの携帯電話を教えてもらったと言います。
電話をかけなおし、詳しく話を聴きます。
すると、『今、広島マツダの工場で働いていて、東雲の社宅に住んでいる』
と言うではないですか。

なぜ、広島まで流れ着いたのかは聴きませんでしたが、その時点で無事だったことを
父親もうちのんも安堵した表情で受け止めていました。

この出来事が、私とうちのんのうちのんの弟と会うついでに
RED STORM DAY 2008に参加することに繋がっていきます。


2009年1月、そのうちのんの弟が泣きそうな声で電話をかけてきます。
聴くと、以下のことがわかります。

・マツダの工場を派遣切りにあった。
・土建の住み込みを始めたが『無断外泊』がバレてクビになった。
・今、行くところがなく、途方に暮れている

この状況を素直に受け止めると、うちのんの弟が来る場所は私の家しかありません。

そのため、私の家は『私が借主』なのに超アウェーになってしまいました。


うちのんの弟は、社会的に黙っていたことがありました。
それは知的障害の療育手帳を受け取っているため、障害基礎年金を受け取っていること。
しかし、彼は蒸発して住所変更を行っていないことと、現況確認を怠ったため、
2年ほど受給を停止されていました。

うちのんの弟が市川に来て、住所変更を行ってすぐ、年金機構から現況確認が来ました。
それを提出すると、彼あてに停止されていた障害基礎年金約2年分が
振り込まれることになりました。

しかし、この金額をそのまま彼に渡すことは非常に危険な事でした。


彼も父親同様、金銭感覚が全くない人間でした。
働いたお金はすぐ使ってしまう。胡町の仲のいいママさんに心配される始末。
あげく『スナックの飲み代を払うついでに積み立て貯金』してもらう始末。
その『積み立て貯金』を『東京に行く元手』として受け取ったのに
それをパチンコに使ってしまう有様。

そのため、私たちは彼を救済するために、以下の条件を出しました。

・約2年分の障害基礎年金の一部は、うちのんの母親のお墓を建てるローンの頭金にする
 残りはうちのんが全額管理する。
・東京でアルバイトをさせ、その給料はうちのんが管理する。一部は生活費に回す
・アルバイトは変えてもいいから3年間まじめに働けばまた一人暮らししよう

うちのんの弟は「わかりました」と言い、
それによって、うちのんの母親を納める墓を建てることができ、
うちのんの弟は文房具配送の梱包バイトに就き、
バイト先の紹介により銀行口座とクレジットカードを持ちます。

うちのんの弟のために、バイト先までの定期代を3か月ごとに渡していたのですが、
3回に1回の割合で全額無くして帰ることがありました。
最初に無くした時は「紛失届出してこい!」と言いつつ、定期代を渡し直したのですが
さすがに二回目となると『いい加減にしろ!』となります。
紛失届を出させつつ、定期代を渡すのをやめ、私が代わりに買って渡すように変えました。

今考えれば、現金を渡すのが良くなかったんだと思います。
定期代を渡された日は『バイトを休んでパチンコしていた』のだと思います。
よく考えれば、前科があったんですから。


うちのんの弟を救済するために出した条件ではありましたが、
うちのんの弟はそれを『お金を奪われた』と認識していたのかもしれません。

それを実感させられる出来事が徐々に忍び寄ってきていました。


2010年8月、急にうちのんの父親が『北九州に帰る』と言い出します。
理由が信じられない話で『いい見合いの話がある』と言うのです。

はっきり言って、60も超えて学のない歯抜けのオヤジにどんな人が寄り付くんだよ。
私はそう思いました。
が、私たちの「帰るのやめときな」には聞く耳を持たず、
帰る支度はしっかりしている姿を見て、私は止めるのをやめました。

翌日、うちのんの父親は何も告げず、家を出て行きました。
後日私の携帯に『うちのんの父親の代理人』を名乗る人から電話がかかってきて
『入れ歯を忘れたらしいんで送ってくれないか』と言われたのですが、
私はこう言って突っぱねました。

「帰ってくる気があるんだったら、ご自身で取りに来られればいいのではないですか?」

うちのんの父親は帰ってきませんでした。
が、後日、北九州の役所から『うちのんの父親が生活保護を申請した』と通知があり
『お宅では世話することができないのか』と確認する書類が届きました。

一応、北九州の役所に電話し「勝手に家出してるんだ」と伝えたのですが、
「当人は『(私たち夫婦が)私を世話してくれないから逃げてきた』と言っています」と
うちのんの父親の肩を持つ回答が返ってきたので、
「こちらは世話する気がありますが、当人が嫌がっているということであれば拒否します」
そう回答しました。


2011年3月11日、東日本大震災があり、私は東京駅近くのオフィスに缶詰めになりました。
うちのんの弟は倉庫のあったふ頭から歩いて市川まで帰ってきます。
そこまでして、うちのんのことを守ろうとした弟だったのに、
その2週間後、バイト先の給料日に合わせ、うちのんの弟も何も言わずに家を出て行きました。

それだけでなく、うちのんが管理していた弟の障害基礎年金、バイト代の振込口座のお金を
全額引き出し解約して持ち逃げしたのです。

約束の『3年がんばったらまた一人暮らししよう』まであと9か月。
うちのんの弟はそれを待たずに出て行きました。


その2か月後、うちのんは体調を崩し緊急入院します。
私は自分の実家に助けを求めつつ、うちのんの父親の居場所を教えてくれるよう
北九州の役所に電話して必死にお願いします。

すると、北九州の役所の人が、うちのんの父親の家から電話をくれたのですが、
うちのんの父親は非常に冷たい反応を返してきました。

「おう、なんか用か?用ないなら切るぞ!」

うちのんが入院したことを伝えると、

「そんなん知らん。勝手にすりゃええ。用ないなら切るぞ!」

『実の娘が苦しんでるんですよ』と伝えても

「わしには関係ない!切るぞ!」

向こうで役所の人が『そんな言い方ないでしょ!』と怒っているのが聞こえます。

私が『なんで話をわかってくれないの』と言うと

「分からんのはお前じゃ!」と言われ、切られました。


もう、うちのんの家族には頼れない。
私は改めて自分の実家に電話し、私の父にすでに亡き母が入院した時のことを聞きました。
「お母さんが入院した時、お父さんはどういう気持ちだったの?」

父は「『絶対に治って一緒に家に帰るんだ』って思って母さんの世話をしてたんだ」と。
「だから、お前も『大事にすると決めた人』なんだから、一生懸命世話をしなさい。
 治療費のことは困ったら支えてやるから」

そう言ってくれました。


うちのんの父親とうちのんの弟が北九州の同じ住所に住んでいたのが発覚したのは
それから2年半後の2013年9月。

その事実を知り、
『そうか、二人は裏で手を組んで自分勝手に生活するタイミングを計ってたんだな』と、
実の親や弟であっても、簡単に家族を裏切ることができる二人だったと見抜くことができなかった
自分の非力さを情けなく感じました。


二人が出て行った後、うちのんに病魔が襲い掛かることになりました。
私の必死な介護生活がはじまったのです。
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