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2017年02月19日19:22

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大石寺のケツまくり騒擾の歴史的な事実と証拠  <法主が血脈相承を拒否して「他家の相承」を渡したと公文書に明記>

 退席痔(すでに広布から退席し、オレオレ詐欺坊主にだまされて8時間もの拷問説法でお尻が病気の老人の集団のこと)では、アホッス(愚かな法主のこと)の権威にしがみついて、「唯授一人の血脈相承」だなどと、さも立派そうなものが伝わっているかのように偽装しています。
しかし、その歴史を詳しく調べれば、アホッスからアホッスへの伝言ゲームは大失敗で、お粗末極まりない歴史的な事実があることが明らかになります。

 その典型が、17世日精から19世日舜への血脈相承が不十分で、しかも邪伝(邪宗の相伝を伝えた!)だったことや、寺の建物建設の不正経理が原因で、後任法主が先輩法主のことを寺社奉行(今でいう裁判所)に対して訴えたという、まさに「ケツまくり騒擾」としか言いようのない歴史的事実があるのです。大聖人の教えは証拠主義ですので、その証拠を示しながら説明しましょう。

 すでに相伝書は堀上人によってすべてが公開されており、一切衆生が純粋な信心によって大聖人と直結して血脈を流れ通わすことができる時代が開かれています。
 この資料の公開と解説によって、退席痔のオレオレ詐欺坊主どもが唯一のアイデンティティとして来た「ケツマクリ騒擾(血脈相承)」が、どれほどお粗末で見かけ倒しの、意味の無いものであるかがよくよく理解できます。


1.証拠資料
 大石寺には「富士学林」と呼ぶ図書館のような学校のようなところがあり、そこの書庫の中にある歴史の記録文書「資料集」のうち、「法義文書」という題名でたくさんの文書が保管されている中に、以下のような内容があります。

「[073] 精師舜師矛盾書付/三大章疏七面相承口決/安国論問答/本尊七箇相承/内証仏法血脈相承他」

 作成されたのは「享保4年(1719年)」であり、

「大遠日是/文雅日照 写」

となっていることから、大石寺の能化たちによる写本として「本尊七箇相承」などの相伝書も含めた重要な記録が保管されているということです。
 この中の「精師舜師矛盾書付」というのが、退席痔の「血脈相承」が実は「ケツまくり騒擾」だったという記録です。事件の張本人である日精が死んだのが1683年であり、この文書が1719年の書写ですので、日精死後から30数年後に記録を残したということになります。現代で言えば、昭和50年代の正信会による学会弾圧の歴史を記録するようなものです。決して遠い昔の話ではありません。逆に、混乱の真っただ中にいるよりも客観的に見ることが出来るのです。

 その内容は以下のとおりです。■が本文、続けて本文の「解説」、○が背景などを分かりやすく説明した内容です。


■「精師舜師矛盾書付」

(解説:大石寺の17世日精と後任住職である19世日舜との矛盾した主張の文書、という意味の「仮題」であるが、日舜が裁判所に訴えた文書は記録が残されておらず、日精の文書のみ写本が残されている。)


■「大石寺十九代日舜、自筆を以て無実を言い懸け申し候に付き、返答書を以て申し上げ候事」

(解説:17世日精は、大石寺の後任住職である19世日舜(1645年10月27日登座)から、今でいえば裁判所のような寺社奉行に対して、日舜自筆の文書によって無実の言い懸かりをつけられたので、日精が1651年に寺社奉行にこの返答書を提出した、というものである。)

○当時の寺社奉行は、宗教を管轄する江戸幕府の行政機関であり、寺の取り潰しなどの強力な権限を持っていました。この日精の文書はその寺社奉行、今でいえば裁判所に対して提出した公文書のようなものですから、その内容には虚偽は許されないし、大変重い内容であるということが出来ます。いったいどのような内容でしょうか?


■「一、大石寺、住物・道具共盗み取る等之事、某、旦那と親子之契約仕り候に依りて、大石寺入院の砌、旦那従り道具共之を給う目録二冊御座候を、正保二年九月、某病中に物の本二駄、大石寺代々相伝之血脈並に証文その外、右之目録共相渡し候。某拝領之道具共に候上は余人之いろい有る間敷く候処、盗み取る之由に申され候事、不審千万に候。何とて其の方入院の始め五三年之中には申し上げらず候や。何樣其方之代に申し上げらるべき事を、隠居致し次之代に申され候事は偽り歴然に候。其の道具拝領の時に見申す衆、餘多(あまた)御座候、御尋ねにおいては隠れ有る間敷く候事。」

(解説:大石寺の住まいの物や道具などを盗み取った等ということについて、私は、旦那である敬台院と親子の契約(今でいう養子縁組)をしたことによって、大石寺に着任した時に、敬台院から道具などはこれをもらった目録が二冊ありますが、正保二年(1645年)九月に、私が病の時にいろんな物の本を二箱、大石寺の代々相伝の血脈や証文その外、右の目録などを渡しました。私が持っていた道具などであった以上は、他人がこれをとやかく言うべきものではないのに、盗み取ったように言われた事は、極めて不審に思います。どうしてあちら(日舜)は着任した(1645年)始めの5年や3年の間には言われなかったのであろうか。とにかく日舜の時代に主張するべきことを、日舜は隠居して次の代に主張するということは、偽りが歴然である。その道具を受け取った時に見ていた人々がたくさんいたし、質問については隠しているようなことはない。)

○19世日舜が着任してから6年も経って、日舜が法主をやめて隠居してから、前任法主の17世日精から受け取るべき相伝などを受け取っていない、と訴えて来たことに対して、日精は完全に頭に来た回答をしているとしか言いようがありません。
 しかも、盗み取った、などと日舜が文書で裁判所(寺社奉行)に訴えたことに対して、日精は露骨に腹を立てて、「ケツマクリ騒擾」をやらかした理由を順番に説明していくのです。
 その文書の最初が、自分は敬台院と親子の契り、今で言えば養子縁組をしているのだと、初めにカウンターパンチのようにカマシているのです。養子縁組とは子供の立場である日精の側からではなく、徳川家康の養女である敬台院の側からのアプローチによるものである以上、日精にとっては俺のバックについているのは徳川幕府だ、ということを強調しているのです。

 そして、大石寺に着任した時に敬台院からもらったもののリストは2冊あるが、1645年9月に自分が病気になった時に、日舜にそのリストや相伝書を渡したが、自分の持っていたものを他人である日舜から盗んだようなことを言われてけしからん、と寺社奉行に対して主張しているのです。しかも、日舜がまだ法主である間の、3年とか5年とかのうちに何も言わずに、日舜が隠居してから訴えてくるとは明らかにウソだ、と主張し、荷物を日舜に渡す時にはたくさんの人々が見ていたので、隠し事などはない、と日舜が全面的に悪いと主張しています。

 実はこのような事実については、31世日因が書き残した直筆文書(富要1−377)の中にも記録されており、

「当山念珠の御相伝三通之れ有り、目師御筆、道師御目録之れ有り、然る処に十八代日精上人御代之れを失ふと見へたり日舜上人精師在府の砌り仰せ越され候へば長持の中に之れ有るべき由仰せ候へども之れ無しと見へたり」

(解説:大石寺には念珠の相伝が三通あった。そのことは日目師の文書や日道師の目録に記載されている。ところが18代(現在は17代とされている)日精の時代にこれを紛失したという記録がある。日舜が、日精の江戸在住の時に受け取りに行き、長持(箱)の中に相伝書があるということを聞いていたけれども、相伝書は無かったと書かれている。)

と書き残したのは、まさにこのような歴史的資料に基づいたケツまくり騒擾の事実を知っていたからに他なりません。
 しかも、日道の相伝目録(富要5−213)には31箇条の項目があり、その中に確かに「念珠に関する相伝」が3項目(念珠の相伝、三衣の相伝、三衣の口決)あることから、この「精師舜師矛盾の書付」で問題になっているのは念珠の相伝に限定されたものではなく、31箇条にわたる相伝全体であるということなのです。オレオレ詐欺坊主がこれを「念珠の相伝だけだ」などと言っているのが、いかに舌先三寸のお粗末な誤魔化しであるかも明らかです。


■「一、先年大旦那従り大堂客殿以下造営に付き算用の帳相違の事。此の書面に就き偽り露見仕り候。其の故は寛永八年十月十二日夜大石寺諸堂炎焼仕り候。先師日就大願をおこされ候へ共、翌年二月に終焉の故某師に替り再興仕り候。大旦那より之を奉加、前後合わせて八百両餘り、其の外は十方の旦那之助成を以て造営仕り候。千五百八十両余り金子皆旦那より出でたるにては無く御座候。此の段富士之衆徒旦那皆存じて候。」

(解説:先年大旦那の敬台院から大堂客殿以下の建設について、収支の計算が合わないとの指摘があったとのこと。この書面について偽りが見つかっています。その理由は、寛永八年(1631年)十月十二日夜に大石寺の諸堂が炎焼しました。前任の日就が大願を起こされたけれども、翌年二月に死んだので、私が日就に替って再興しました。大旦那の敬台院からはこれに対する寄付を、前後合わせて八百両あまりいただき、その外はあちこちの旦那の助成を得て建設しました。千五百八十両あまりの資金が全て大旦那の敬台院から出たものではありません。このことは富士の僧俗旦那は誰もが知っています。)

○ここに日精と敬台院との仲違いの原因が日精による不正経理疑惑、つまりお金の問題だったことが明らかにされています。
 退席痔のオレオレ詐欺坊主どもは、「敬台院が造仏に執着を持っていたので、日精が善導した。敬台院はそのことで日精に怒りを持った」などと妄想を根拠に日精をかばいだてして、悪いのは造仏に執着を持っていた敬台院だと、お粗末な誤魔化しを企てていますが、実は1631年に大石寺の諸堂が焼失したことに対する復興予算の日精による不正使用疑惑が原因で、日精と敬台院とは決裂したことが記録されているのです。オレオレ詐欺坊主ども、ウソはいかんよ、ウソは!

 日精の金銭や財産管理に対して敬台院が不満を持っていたことについては堀上人も、敬台院の手紙について註釈を加えられて、

「虫払の日は七月の初に定めて準備を怠らぬやう等数々の注意が為されてある其文の底には暗に精師の住職としての物質的取扱ひぶりの不満が洩らされてる」(富要8-59)

(解説:虫払いの日は七月の初めに決めて、準備を怠らないように等の数々の注意が書かれているその手紙の文の底には、暗に日精の住職としての物質的な取扱いぶりに対する不満が洩らされている。)

と書かれているとおり、敬台院は日精の金銭管理や行事の遂行の杜撰さ等に怒りを覚えていたのです。
 退席痔の公式な記録である富士年表からも、そのあたりの経緯が推測されます。

1632年 日精が大石寺の大坊に入る。
  同年  敬台院が大石寺の御影堂を寄進。
1637年 敬台院が大石寺への御朱印の下付を幕府重役に依頼。
  同年  日精が敬台院の推挙によって公儀の年賀で御輿に乗ることを免許。
<ここまでは敬台院はやり過ぎるほど日精を全面的に支援>
1638年6月24日 敬台院が大石寺基金として741両寄進。
  同年  日精が大石寺中門を建立、総門を再建。
  同年  日精が江戸下谷常在寺を再建。

 どうやら日精は、敬台院の寄付を、自分の住まいにした常在寺の再建にまで流用し、そのことで敬台院の反感をかったものと考えられます。


■「炎焼之跡にて候へば御推量成され候いて下さる可く候。御趣を以て今之書面を見申し候へば偽り分明に候。又某材木二割を掛け申し候はば其の時に申されず候いて二十年過ぎ去りて何とて申され候や。又其の方入院之始め申さるべき事を今年迄引き延ばす、不審に候。証文之れ在りて候へば某割を掛け申し候はば材木屋之手形に加判之証文歟又人に申し付け候はば其の趣状候や。」

(解説:火事で焼けた後でしたので御推量してくださいますように。このような事実をもとに今の日舜の書面を見ていただければ偽りは明らかです。また私が材木に二割の利ザヤを掛けたというのならば、その時に指摘せずにいて、20年も過ぎ去ってからどうして言われるのでしょうか。また日舜が着任の最初に言われるべきことを今年まで引き延ばしたことは不審です。証文があるので、私が利ザヤを掛けたならば、材木屋の手形に判を押した証文か、または誰かに指示したのであればその記録があるのでしょうか。」

○日精が工事費用の2割のピンハネをして、不当な利益を得ているという日舜からの訴えの文書に対して、日舜が登座してすぐに言わずに、20年も過ぎてから言い出したことはおかしい、と何度も詳しく執拗に主張しているのです。そして、日精は自分が不正経理をしたという証拠があるのかと開き直っています。
 その内容は、日舜が敬台院の指示で動いているということを、暗に指摘しているということでもあり、出世間のアホッスが、金の切れ目が縁の切れ目という、世間と同じ状況に落ち込んで、「血脈相伝に対してケツまくり」している傑作な姿でしかありません。

 大石寺の血脈相伝とは、結局はこのような権力闘争の一貫で形式的になされてきたものでしかないことが明らかなのです。だからこそ堀上人は、それらすべてを詳細に調査し、後世の坊主による意図的な改竄文書などの後加文を抉り出し、すべてを公開されたのです。



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