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2015年10月31日04:41

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対論の基本

大石寺派の僧俗や犬症会員は、自分たちの教義がどのような論理体系となっているかを全く知らず、歴史も学んでいないために、ウソ八百の教学部の資料を大本営発表のように鵜呑みにして、学会に対する誹謗をしていますが、これでは少し勉強した学会員に完璧に破折されて恥を晒すのは当然でしょう。
 与奪の義で奪って言えば、大聖人の御金言に基づいて教義を体系化し、信じるべきであり、途中の人師・論師の主張は、御本仏大聖人の言葉に合致する範囲でしか用いてはならないのは当然のことでしょう。このことは、御書で繰り返し繰り返し指摘されていることであり、大聖人の門下であれば当然のことなのです。しかし、大石寺派の僧俗は、全くこの基本原則さえも理解できていないので邪教と堕してしまったのです。

『所詮仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほ(守)るべきなり』(P.502)
(通解:結局は仏法を修行しようとするならば人の言葉を用いてはならない。ただ仰いで仏の金言を守らねばならない。)
『仏法の邪正は経文の明鏡に依る』(P.170)
(通解:仏法の邪正は仏の経文という明鏡=判断基準による。)
『経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり』(P.482)
(通解:経文に明らかである主張を用いなさい。文証が無いものは捨てなさい、ということである。)
『仏教には経論にはなれたるをば外道と云う』(P.152)
(通解:仏教では経文や論から離れた主張を外道と呼ぶ。)
『仏法の邪正をただす事・皆経文を先とせり、今当世の道俗・貴賎皆人をあがめて法を用いず心を師として経によらず』(P.1207)
(通解:仏法の邪正をただすことは全て経文を根本とする。ところが今の世の出家も在家も、みんな人をあがめて法を用いない。心を師匠として経文に依らない。だから誤るのである。)
『仏の遺言に依法不依人と説かせて候へば経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か』(P.9)
(通解:仏の遺言には、法に依って人に依らざれと説かれているので、経文のとおりに教えを説かない人をどんなに素晴らしい人であっても信用してはならない。)
『設い天台の釈なりとも釈尊の金言に背き法華経に背かば全く之を用ゆ可からざるなり、依法不依人の故に』(P.529)
(通解:たとえ天台の解釈であっても、釈尊の金言に背き法華経に背いていれば、まったくその言葉を用いてはならない。法に依って人に依らざれ、との原則があるのだから。)
『菩薩・人師の言には依るべからず仏の御定を用いよ』(P.544)
(通解:菩薩や途中の師匠の言葉を根本としてはならない。仏の定められたものを用いなさい。)
『仏法は強(あなが)ちに人の貴賎には依るべからず只経文を先とすべし身の賎しきをもつて其の法を軽んずる事なかれ』(P.481)
(通解:仏法は決して説く人の貴賎によってはならない。ただ経文を根本としなければならない。説く人の身が賎しいことを理由にその法を軽んじてはならない。)
『設い慈覚・伝教大師に値(あ)い奉りて習い伝えたりとも智証・義真和尚に口決せりといふとも伝教・義真の正文に相違せばあに不審を加えざらん』(P.307)
(通解:たとえ慈覚が伝教大師に会って習い伝えたと言っても、智証が義真和尚から口決相承したと言っても、伝教・義真の残した正しい文証に相違するならばどうして不審を加えないでいられようか。)

こうした御書を根本とした主張に対して、阿部管長のように歴代法主(実は自分)の言葉が正依だ、などという主張をするような者は、御書・経文に照らせば自らが道理に合っていないことを証明しているようなものなのです。

『問うて曰く経文は分明に候・天台・妙楽・伝教等の未来記はありや、答えて曰く汝が不審逆なり釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ経文に分明ならば釈を尋ぬべからず、さて釈の文が経文に相違せば経をすてて釈につくべきか如何、彼云く道理至極せり』(P.259)
(通解:問うて言うには、経文には明確に書かれているが天台・妙楽・伝教等の言葉に未来について記したものはあるのだろうか。答えて言うには、あなたの不審は逆さまである。天台等の釈を引こうとした時こそ経文には書かれているのかと不審を持つものであって、経文に明確ならば釈の文章を質問してはならないのです。そうすると、釈の文章が経文と異なっている場合は、経文を捨てて釈につくべきでしょうか。彼が言うには、まさにそのとおりである。)
『師の口より伝うる人必ずあやまりなく後にたずね・あきらめたる人をろそかならば経文をすてて四依(しえ)の菩薩につくべきか、父母の譲り状をすてて口伝を用ゆべきか、伝教大師の御釈無用なり慈覚大師の口伝真実なるべきか』(P.1258)
(通解:師匠の口から伝えた人が必ず間違いがなく、後で調べて明らかにした人が愚かであれば、それを理由にして経文を捨て四依の菩薩につくべきであろうか。父母=仏からの譲り状を捨てて、口伝を用いるべきであろうか。 伝教大師の解釈も無用である。慈覚大師の口伝が真実であろうか。仏の言葉を根本にしなければならないのである。)

そして、信徒たちが信じ込んでいる(狂信が大半ですが)法主のような立場の者の誤りを指摘する時には、経文根本という原則に従って、堂々とその誤りを御書に基づいて破折していくのだと大聖人が御指南されているのです。

『かくの如きの上人を豈に邪見の人と云うべきや、答えて云く此の事本より私の語を以て是を難ずべからず経文を先として是をただすべきなり』(P.1207)
(通解:このような上人をどうして邪見の人と言うことができようか。答えて言うには、このことは本来自分の勝手な言葉で非難してはならない。仏の経文を根本にしてこれを糾さなければならない。)

 これほど繰り返して大聖人が御指南されていることを守らない輩は、大聖人の弟子ではありません。

 すでに日蓮正宗から破門してもらって、独立した宗教法人として会則を改正し、
「日蓮正宗の教義に基づき」
という規定を訂正して、
「日蓮大聖人の御書を根本として」
としたのですから、奪って言えば大聖人の教えに基づいて日蓮正宗を破折するのです。

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