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2020年07月22日02:29

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暇つぶしの日本の歴史

「おうち時間」、要は在宅引きこもりが増えると
どうしても読書が進むものなのだが
僕の場合は老眼が酷くて、読書していると知らぬ間に眠りに落ちてしまう。
しかも在宅時の趣味らしい趣味は無いので
ただ料理を「手抜き料理」から「料理」に昇格させるだけの作業に
没頭してしまう
しかしね。一人前で一日1.5食程度の消費力でしょ
大した料理なんて作れない。
基本、作りすぎて、それを食べすぎる形で消費する。
これを繰り返すと凄い事になるわけで。
体重は「うなぎ上り」となってしまい、現在は絶賛ダイエット中なのである。

ウイークデーはファスティング的なことをやって
週末は通常食。
これを6/21から始めてちょうど一か月である。
約6キロは戻したのだが、それでも元のメタボ状態になっただけ(笑)
引き続き、少食に馴染むために継続することにした。

前回のダイエットはFacebookで体重を表示するというやり方だったが
そもそもFacebookは毎日開く習慣がないので
途中でやめてしまい、減量には成功したが特に誰かに結果を伝えるでもなく。
そうこうしている内に、頸椎を傷めて
自分に優しい生活を重視することになり、1年かかって元通り。

今回は誰にも言わずコツコツとやった。
それが良かったのか悪かったのか。

前にも言ったけど、
読む本のジャンルがどんどん狭くなってきていて
殆どが歴史関係の本に留まっている
元々は世界史が専門だったのだが、
井沢元彦の「逆説の日本史」に出会った15年位前から
日本史に傾倒してきているのだけれども
一番の興味はどこにあるのかは未だに分からずにいる。

しかし、少なくとも僕が教科書で学んでいた歴史、は
今となっては大きな間違いだったのではないかと考えるようになった
特に仏教史や思想史、宗教史に対して
「○○と言われています」などという表現は全く信用に値しない
誰が、誰に、いつ、どんな根拠で
そう言ったのかを検証すると大部分が何か歪んでいるのだ。
余りにも荒唐無稽なものは「神話」と呼んで誤魔化し
リアリティに満ちたものについては科学的検証が欠けている。

例えばである。

日本に仏教が伝来したのは6世紀半ばだと言われている。
あの「日本書紀」にそう書いてあるのだが
587年に廃仏派と崇仏派の対立が起こり「物部守屋の乱」が
さっそく発生する。教科書ではそう習った。
604年に聖徳太子の手で出されたと言われる「十七条憲法」で
はっきりと「三宝を敬え」=仏教を尊重しろ、と定めている。
これも教科書で習った。何回も。

後で詳しく述べるが
「物部守屋の乱」は「丁未の乱」と言われ、
我々は後世の人間なので結果は分かっていると思うが
物部氏が廃仏派、聖徳太子が与したのが崇仏派であった。
崇仏派の中心人物は蘇我馬子であり、聖徳太子の母親の叔父が蘇我馬子である。

「日本は八百万の神の国である」
と誰が言ったか知らないが、耳にしたことがあるだろう。
現在でも信仰の傾向としては残っているのだが
世界中の大多数の国が一神教であるのに対し
我が国は「○○の神」「▲▲の神」と色んな神が居る事を
観念的に許す信仰の体系を持っている事を表している。

物部氏は何を信奉していたのかと言うと
「国津神(くにつかみ)」つまり日本古来の神様である。
天皇自身は自らを神格化して世襲制に持ち込んでいたのだが
国津神たちは、こじつけられたその先祖神たちなのである。
つまり、先祖を信奉する信仰が
それまでは定着していた、といえるのである。
「私が○○なのは▲▲神の生まれ変わりに違いない」
とか
「もし○○なら◆◆の神のご加護を与えたまえ〜」
などと祈って、希望通りの結果が得られると
かなり手前勝手な信仰が生まれていくのである。
そもそも、そういう時代であるから、
そこに戦略があったかどうかは定かではないが
とにかく祈って実現、その祈る対象が矢鱈と多かった、と
今のところは分析している。

先祖と言うのは個人により違うものであり
生きている間に身分の高い低いはあるわけだから
身分の高い先祖の霊が力がある、そう伝えられてしまった。
要は文字などの記録に残せるもの勝ちであるから
伝承力やこじつけ力が貴族など文字を知る階級だけが特に強かったのである。
ともかくそう信じられていたわけであり
中でも不遇をかこって亡くなってしまった先祖神に対して
「祟り」を酷く恐れる信仰が定着してしまった。
一番有名な例はさしずめ「菅原道真」であろうか

現代の観点でいえば、実力で右大臣まで位を極め
帝の寵愛を受けた叩き上げの苦労人、
と言ったところだろうが
我々「庶民」からすると、彼はそもそもが貴族であり、
要は外戚として確固たる組織的地位を確立していた藤原氏との政争に敗れ
都から外れたところに転勤した、だけなのである
実際に讒言を受け、左遷扱いでの転勤であったと言われているが
その地で困窮を極めていたというよりは
失意のまま病死したことが「道真の祟り」の下敷きになっている

道真の死後、都では政争に勝ったはずの連中が次々と急死し、
その後落ち着いていたのだが、四半世紀経った頃にまた関係者の死や
建物の焼失などが相次いだため、「道真の祟り」は確定的になる。
きっと市井では
もっと惨めで貴族を恨みがましく思って死んでいった人々は
沢山いた筈なのだが、そこは無視して「道真の祟り」と決め込んだのである
その結果、道真は「追贈 左大臣」的な身分回復のための手当てをされ
祟りを恐れる貴族たちが鎮魂のために手厚く祀った結果、
「天神様」として神様扱いを受ける事になるのである。

「神様として祀るから、祟らないでね」
と生前の仕打ちを棚に上げてかどうかは知らないが
死んでからの扱いが破格の扱いを受けているが
清涼殿焼失事件、正しくは落雷焼失事件を経て
雷の神様と習合してしまうのである。
但し、良く検証してもらいたい
道真が讒言を受け太宰府に左遷されたのは901年である。

901年 大宰員外帥に任命され、事実上の左遷
903年 失意のうちに道真は死去(59歳)
908年 裏切った弟子の藤原菅根が死亡(53歳)
909年 政敵のトップ・藤原時平が死亡(39歳)
913年 後任の右大臣・源光が事故死(69歳)
923年 更迭を決めた醍醐天皇の嫡男・保明親王が病死(21歳)
930年 清涼殿焼失事件、醍醐天皇崩御(46歳)

お分かりだろうか。後半はもう迷信と言うかこじつけ極まりないのである。
そもそも道真を更迭した時点で醍醐天皇は17歳であり、
方や道真は57歳。親子以上も年は離れているのであり、
希代の天才と言われた道真には実務能力も敵う筈もない。
しかも「人生50年時代」である。
上の表に示した中で夭折したと言えるのは保明親王くらいであり
実は他にもいるのだが、道真が亡くなって100年近くの間、
何か不幸なことがあると「道真の祟り」という事になって
重ねて鎮魂されたのである。
そういった経緯で彼は「神様扱い」されていくのである。

科学的に「祟り」と示すことが出来ない事象を
「祟り」と断定して、その対象を鎮魂する度に
対象は持ち上げられていく。
そこで日本国中の「持ち上げられた人」に対しては
何某か不遇があって、「祟るんじゃないか」と恐れられたのではないか
と疑念を持つことになるのである。

それは死んでから「神になった人」や
名前に「崇」や「徳」や「聖」が付いている人。
本当にそれに値した人と、全くその功績が明確でないのに
名前が矢鱈と持ち上げられている人の2種類あると分類できる。
例えば、僕たちが学校で習った前出・聖徳太子は
物凄い名前である。生前は厩戸皇子または上宮太子と呼ばれていて
死後に聖徳王、または聖徳太子と諡号されたことが分かっている。
但し、彼は生きている間に物凄い事をしたエピソードが残されていて
その名に相応しい諡号が送られたとも考えられるし、
補佐をしていた推古天皇が長命だったため即位することなく亡くなったので
臣下でありながら天皇=神に相応しい諡号がされたとも
考えられるのである。

道真の逸話は荒唐無稽であるが、当時は真剣に考えられていた事であり
聖徳太子の生前の功績は余りにも超人的で信じがたい部分もある。
但し、彼は仏教に深く帰依していて
どちらかといえば仏になるべきなのに神に近づけられている
もう神仏習合は確立していたことになるのである。

相手が信仰であるから、存分に配慮して優しく言っているが
「習合」とはとんだ思い込みとか言い間違えの定着とか
もっと言えば勘違いの定着である。
そして多神教であるが故のユルさ。
「それもアリだな」「そうかも知れないな」
がそのまま大衆だけでなく知識層にまで定着してしまうのである
困ったものだ。

その最大の対象は七福神の一人の「大黒様」である。
詳しい方はご存知だろうが、七福神の大黒様のモデルは
「大黒天」である。
大黒天とはインドのヒンドゥー教の神の一人、
シヴァ神の化身の「マハーカーラ」の事である。
マハーとは「大」を意味し、「カーラ」とは暗黒の事である。
これに漢字を当てたものが「大黒天」なのである。
ところがこの大黒と前出の国津神の大ボスである大国主命の
「大黒」と「大国」を一緒くたにして信仰が進み
大黒天は柔和なイメージに変化してしまったのである。
少なくとも七福神などと言う
色んな宗教の神や人間や仙人が一緒になる「ありえない」アイコンが
成立するころまでには、区別がつかない状態になってしまっているのである。

これを「勘違い」だと言ってしまうと信仰を蔑ろにしてしまうので
「習合」といって「合流したもの」と見做す流れは
昔からある事だったのである。

話はぐっと戻るが、仏教伝来の6世紀半ばから
日本の宗教の中心軸には先祖信仰よりも仏教の方が優勢に立ち
以来、分離が行われる明治時代まで
神社勢力よりも仏教勢力の方が圧倒的に優位になるのである。
現に平安時代の天皇は引退すると仏門に入る事が多く
神主にならずに法皇(出家した上皇)になるのがトレンドであった

この構図が崩れるのが
1868年の「神仏分離令」である。
王政復古により再び天皇を神格化するに当たり、
仏教勢力との混淆を避けるために
或いは皇国史観的なストーリを始めるために
仏門を引き剥がしたのである。
仏教は多神教であり、
唯一絶対的な支配権を主張したい天皇を掲げたい
明治新政府としては相容れない部分がある
これが日本が誇る数多くの仏教史跡や史料の多くを失う事になるのである
中国でいうと文化大革命的な「超もったいない事件」である
この法律自体に問題があったのではない
神仏が分離されてしまったことで
民衆が勝手に今まで威張っていた仏教組織や建造物を破壊するという
実に愚かな行動に出たのである。
これを「廃仏毀釈運動」と教科書では習ったはずだ
これについては、これまで日陰の身であった神社勢力が
仏教勢力への攻撃を煽ったとも言われている。

ということで
天皇家の問題については次項で。
仏だ神だの問題は今回まで。
日本の信仰は実に出鱈目に満ちていると言っていいほど
揺れている事の一端を示したわけだが
「そう言われている」が事実かどうかの検証が不充分な上に
新しい発見があると大間違いである事が示されて話が変わる。
その理由はいくつもあるが、第一級資料のはずの古墳の調査を
宮内庁が拒んでいる事が一番大きな理由である。
言い伝えられているものを証明する物証が出てくれば
曖昧だった部分もより正しく示されるであろうし
日本の歴史は飛躍的に解明されていくだろうというのに。

教科書では丁寧に教えてはくれないので
我々も都度都度確認していく必要はあるという事だ。
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