mixiユーザー(id:6231411)

2018年12月11日16:16

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神は、内なる存在

体調もすぐれず、気分もすぐれない
この憂鬱な状況を打開していたのが
最近では「自炊する夕食」であると気付いたが
それではカロリー調整が難しい


世の中、徐々に暮らしにくくなっていくのだろうとは
頭でも肌でも感じているのだが
どういう仕組みが自分を苦しめていくのかは
想像力も足りないので難しい

学生時代は今よりは間違いなくちゃらんぽらんで
楽天的な思考に満ち溢れていた。
「神は、自分の中にある」と断じて疑わなかった。
神が居ると信じる自分が神を創り出すのであり
信じていない者には永遠に感じる事が出来ないものが
「神性」だと
そういう風に定義づけていたからだ。

従って、信じている人には感じる事が出来るが
信じていない者には一向に感じる事が出来ない、という
霊的なものについて辻褄が合うと理解していた。
オカルト的なものについてもそれなら説明がつくと

実際に、事前のストーリーや前段を聴かせていない外国人に
パッと見ただけでは分からないが
日本では比較的有名な霊感場所に連れて行っても
彼らは全く怖いとも感じないしピクリとも反応しない

その上、予め別のストーリーを説明しておくと
本来の霊的なものと全く別のものを見たと言い出す始末である。
少なくとも英語しか喋られない外国人に
日本の霊が和風の服装に着替えて
英語で喋り始めるという設定は、彼らなりの「思いこみ」である事は間違いない

問題は、彼らには聞こえても
我々には聞こえなかった事であり
その正体が例では無くて
自分の五感の主体的認知に過ぎないという事である。

神性については否定していない。
「ある物事をこう理解しよう」
「ある現象をこう説明しよう」
という事を何百年、千年以上、と続けていけば
そのストーリーが少しずつ共有されて
広く多くの人に「そう、感じる」と共有する事すら可能ではないか

あまり生真面目でもない僕が
オウムの人たちを見て、
「もう少しマシなストーリーで走らないと」
と突っ込みを入れたくなっていたのはもう30年も前である

ところがどっこい
超常現象を目の当たりにすると
今まで信じられなかったことがちょっと信じられてしまったりしちゃうところに
カルト教団の神髄があるのである

学生時代に、大学の研究材料の一つとして
オウムの機関誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」を何冊も購入した事がある
京都市内の大学近くにある本屋で普通に売っているから面白い
中身はとてもまともには読めないほど狂っていて
組織か思想の中に居る人しか理解できないであろう、酷い内容だった。

確かに公安警察はどこかデタラメで
カルト教団を取り締まろうという動きもあっただろうし
彼らが「ほら、みろ」と言いたくなるのは分かるのだが
それ以前にオウム側がデタラメだったので
そこにスルーかよ!と突っ込みたくなる部分が満載だった

今でも彼らには信心も思想もあるだろうし
教団は解体しても、信者が集まって信仰活動を熱心に行っているに違いない
だけど、それ自体は悪くないというか
彼らにとっては正義だと思う

だけど、自分にとっての正義が
他者を傷つけてしまったり、法に抵触する場合は
それを憚るか議論するか考え直すか、何かあるだろう、何か。
僕は新興宗教の殆どが、自らの団体の外との
真剣な対話が足りないのではないかと
そこを指摘したいと思う。

教祖は
全く神聖化される対象ではなくて
お布施と称してお金を巻き上げて
トリックで超常現象をみせて
ありもしない神性を彼らに提示した存在だった、と
証拠を見せながら、分かるように説明すれば
信者の多くは目が覚めるんじゃないか

あの頃、どうしてマスコミが彼らを
ちょっとでもまともな人たちとして扱おうとしていたのかが
今となってはさっぱり分からない
信仰の対象は実在しない偶像だから共有できるのに
実物が存在したら、そりゃあデタラメがバレてしまうだろう?

彼らは大量に死刑となってしまったが
死刑への懸念はその辺にあったのかも知れないね
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