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2020年04月06日18:59

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ジャパニーズファイターパイロットが探している、、、

ヘンリー境田の尽力により1993年7月07日付けの「ア−カンザス州民主新聞」に
「ジャパニーズファイターパイロットがパインプラフ市出身の元海軍パイロットのの消息を探している」と言う記事が掲載されました。
1945年当時、ウエストブルック中尉の実家がアーカンザス州パインプラフ市になっていたのですが、、、終戦後、そこには親族は住んでいない事が判り、ヘンリー境田がこの新聞社に依頼をしたようです。
すると、新聞社をはじめ、へンリー境田の元へ多くの情報がもたらされました。

、、、、そして、ヘンリー境田の元へウエストブルック中尉の弟である「ジャック、ウエストブルック」氏から手紙が届きます。
ロバート、ウエストブルック中尉のすぐ下の弟である「ジャック、ウエストブルック」は戦後、テキサス州立サムヒューストン大学の英文学の教授となりテキサス州ハンツビル市に居ました。
また、3男の「マックス、ウエストブルック」氏もテキサス州立大学オースチン校の英文学教授をしておりオースチン市に住んで居る事が判りました。

ジャック、ウエストブルック教授からヘンリー、境田に届いた手紙の要約、、、としては、、、、
「戦後、50年近くが経った現在でも、兄のロバートの消息は家族にとっては、どんな些細な事でも知りたかった、、、しかし、、、もしかして兄のロバートと空戦をして、、、少なくとも兄の死の一端を担った相手と文通をする事へは躊躇した。
しかし、この日本の元ゼロファイターパイロットはロバートがパラシュートにぶら下りながらも、もぞもぞと動いていて生きているのを最後に見た人物でありしかも、戦後、最近まで、きっと救助されて活きているものと思っており、またロバートに、共に戦った相手として再会したい、ともに称えあいたい、と言う気持ちを持っていた人物であり、、、、そして「我々、家族にとっては、たとえ、兄の死の一端を担いだとしても「知らないでいるよりは知った方が良い」と言う結論に達した、、、とヘンリー境田に伝えて来ました。

そしてヘンリー境田は藤本さんに「ジャック、ウエストブルック教授」に対して「心のこもった手紙を送るように勧めてきました。
                    続く
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