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2020年04月08日09:26

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詩的現代32号〈詩集・詩書時評(30)〉2/3


福原恒雄『記憶のなりわい』(詩的現代叢書39)。まず福原詩の特徴を言うならば、散文調詩句の文体と意味の捻りにある。その独特のリズム感は体言止めの多用によるものだろう。詩句によって成型されたイメージに余韻をもたせリズム感を生んでいるのだ。モチーフは、タイトルからも推察できるように《記憶》に刻まれた印象的な光景が展開される。『旋回の作り方』の詩は自作の模型飛行機を丹念に作る姿と、完成機の飛翔ぶりをイメージさせるし、詩『錘』では、《レールから微かに鉄輪の振動音》の詩句で機関車を間接的に表現しながら、そこに《耳》を《近づける》という身体表現によって、主人公である記憶のなかの客体化された福原自身を浮かびあがらせることに成功している。《記憶》に戦争体験を避けることはできない。詩『火焔地』がそうであり、そこで見た《人は燃えるものだった。骨の欠片まで壊れるものだった。還らない瑕疵になるものだった。そして世界の隅にも座れない残滓に変わるもの。尊厳皆無になるもの。太古の古墳に触れるもの。今そこここの生者が合掌する記念碑記念樹記念日に死者の唇は褪せていないか。身近に洩れるむかし語りのどす黒い血海の河が際限のない眠りも吐き出して街の辻を回ってきょうもわれを指差しながらやって来る》光景は凄惨なものだが、単に光景に留まることなく《われを指差しながら》問いかけてくるものでもあった。また、『その箱のまえで』の詩も、《仏間に四角の白い箱が置かれているのが玄関先からも覗けた》の《おばあさん》家の、戦死したご主人か息子の遺骨の《白い箱》のある光景が記憶となって眼底に貼りついているに違いない。しかしながら本書の後半は、生きることが悲しみや哀しみ一色ではないように、老いに居直ってみせる《おばあさん》や《じじばば》が主人公の詩『準備』や『じじばば塊団』などユーモラスな詩句が、生の救いとなる詩になり老いをモチーフとした文学につらなっていた。

りょう城『しあわせなはいじん』(モノクローム・プロジェクト)。書き手はバンドのベーシストで、歌曲の作詞をしながら歌も担当しているらしい。本書は詩集だが評者の目には大半が歌詞にみえた。両者の決定的な違いは、歌詞が作曲との互助関係によって歌曲を成立させているため、メロディやリズム感は作曲に委ねて、歌詞の言葉は叙景やメッセージに流れる傾向が強い。情感が濃厚な演歌にしてもそうだ。名曲「天城越え」や「津軽海峡冬景色」の歌詞を思い出しても、景観に情感を仮託したものになっている。評者はかつて歌詞のスカスカな情景描写の粗削りな箇所を埋める作業をしたことがあるが、空隙を埋めた緻密な描写は詩を散文に向かわせてイメージ飛躍に欠ける。歌詞は、言葉が成立するかしない瀬戸際のところで存在する。ボブ・ディランの歌詞はプロテストソングというメッセージ性が色濃いもので、国内に影響が拡散したとき、吉田拓郎は土着的情感に傾き、友部正人は米国ビートジェネレーションのギンズバーグやケルアック、バロウズの側に傾倒していった。歌詞の特徴は表層的、断片的な語句になる。とはいっても、本書の作品にも詩的なものはあった。『世界』という詩では、《食べることも/食べられることも/おなじこと//あなたの言葉も/わたしの言葉も/空気のふるえがとまらないから//この世界が広がりつづけて/とまらないから》の箇所に、詩『いみないバー』だと、《人の声が聴き取りにくいぐらいの/ちようど良い音量の音楽の/固い木のテーブルで窓の外の/メガネやのシャッター降りるのを/いつもぼんやり/ながめとった》の肉感をもつ描写に、『夢』の詩だと前半の三連。詩『ことば』では、《終電がなくなり、ことばを吐きつくして/胸がぎしぎししました/でも全く、意味あることしか、/いえないんですよね》という箇所にそれを感じた。詩とは言葉の意味を超える箇所を言い替えたものかもしれない。余白にあるという識者の言質もある。評者が歌詞だと思う理由は言葉の大半が意味に留まっていること。表層的な印象をもったのだ。『平日十一時半』が本書中最も詩作品らしいと感じた。まだ歌詞と詩が混在しているが、今後の可能性はしっかりと感じとることができた。

夏目美知子『ぎゅっとでなく、ふわっと』(編集工房ノア)。書き手の内面と外的世界をこれほど鮮明に描いた作品群はそうはない。だが本書のタイトルが示唆する通り夏目が追究する詩のコアにあるものはもっと違っていて、言ってみれば内面にひろがる感覚世界の言語化であろう。《境目を歩いている。どうなるのか判らない。/どちらに落ちても、それは成り行きだ。》(『私を訪れる切れ端のような感覚』より)や、《心は動く模様のようだ。幾つものシーンが現れ、思いに際限はなく、すべてが私から離れない。》(『淡い光の集まる場所で』より)の詩句が、そのことを端的に表わしていた。書法はそのための道具か容器、あるいは盛り付け用の器か乗物といった形式的な外景にすぎない。読み手が接するのも外景にすぎないのだが、そこを手掛かりにしなければ詩のコアに達することなどとうてい不可能なのだ。感覚とは、くっきりした輪郭を形作ることができないもののことであるから。冒頭に置かれた詩『小窓』が、夏目詩の特徴を如実に示している。「小窓」の枠内とは書き手の眼球フィルターや映写されるスクリーン幕そのもののことである。映し出されるものは、《空き家》であるために《次第に生気がなくなっていく》《隣家の庭》である。その庭が、《石蕗の葉が雨粒を受け、上下に揺れ始める。小石も、破れた金網も地面も次々と濡れていく。(略)降りしきる音が辺りに響き、その為に静けさがある》。《すぐ傍なのに、何処か遠いところのように見える》のは、見ている側の内面と映し出された外的世界であるスクリーンとがはっきり区分され認識されているからである。だからこそ映写されたものとは別物である実景の《道路に出て行き、覗いてみる》と、《壊れかけた扉の中では、古家が、間が抜けたように佇んでいるだけ》に見えてしまう。内外の明確な意識を補強しているのが次の詩句である。家に入り再度、《自宅から》《小窓の向こうを見る》と、《夕日が射して(略)オレンジ色に染まった庭》が見える。それがまた、《美しい夕暮れが凝縮している》ように《生気》を帯びてくるのだ。また夏目は自身の内面に湧きあがった思いや言葉の動静を誰よりも気にかける書き手である。《口に出すことのなかった思いの多くは、いったいどこに行くのだろう。》(『思いの密かに留まるところ』より)、《思いが明確なうちに口に出したとしても、放たれた言葉は独り言に近い。多くの言葉は素通りする。(略)「祈りは独り言ではありません」と言われる。》(『歩く、歩く秋』より)と。それにしても内面の思いや言葉はどんなふうに湧きだしてきたのだろう。ひとの思いは何かや誰かに触れなければ湧きだしてはこない。《どうでもいいような小さな出来事、数えきれない沢山の本、好きな絵、嬉しくて弾けること。沁みるような悲しく。何をどう感じて来たのかということ。実際の所、私は、それらで出来ている。》(『井口時計店の上の二日月』より)。だからこそ何んや誰かが大切に思われる。表題の変奏である《ふわっと関わる。/ぎゅっとはいけない》は、内面を大切におもう夏目の関わり方の極意であり、この語句こそ感覚世界を言語化しようと試みた果てのオノマトペだったのだ。

中村不二夫『鳥のうた』(土曜美術社出版販売)。あとがきを読んで、書き手が詩集のタイトルに籠めた意図がわかった。スペイン・カタルーニャの民謡で、「だれもが一度はどこかで耳にする」パブロ・カザルスが編曲、演奏した名曲『鳥の歌』からとったと書き記していたからだ。カザルスは、内戦とフランコ政権の圧政に抵抗してフランスに亡命、音楽という創造活動を戦争への抵抗に代えた平和運動家としても世界中に知られている。中村は、音楽を詩作に置き換えて戦争への抵抗と未来への希望を語ることはできないだろうかとも記している。そんな文言や、新川和江の《キリスト者の(略)重く美しい》《清潔な詩集》という帯文を読み合わせれば、集中の主要基調がプロテクト・ソングである理由が理解できるのだ。だが評者は冒頭の詩から順に、カザルスの『鳥の歌』ではなく、中村自身の『鳥のうた』中の《鳥》を探しながら読んできて、詩『別れの時』で足が止まった。主役である辻井喬を《まるで風のような生涯だった(略)天から仮の住まい 使命を与えられ(略)異郷の空に鳥のように放たれる/その人は 猶予が解かれ故郷の空に還っていったのだ》の詩句に胸を射抜かれたからである。一瞬にして、《鳥》とは辻井や中村本人のような詩人のことだと悟った。だからこそ次の詩である主役が山村暮鳥の『空を飛ぶ鳥』の《落下すれば それで鳥の命は終わりだ/鳥は休まず飛ぶことを強いられている(略)まるで筆名のような寂しい生涯だったが》の詩句が、相乗効果を生んで荘厳な教会音楽のように胸内に響いたのだ。さらに読み進めると『鳥の命』という詩があった。そのものズバリのタイトルである。しかしこの《鳥》は詩人のメタファではなかった。こんな詩句だった。《ぼくは鳥の帰りを待っていた/それはいつの日のことだったか/ぼくが ぼくの手で空に放った鳥だ/もう何年も 鳥は帰ってこない/ときおり 空を見上げてみるが/それはぼくが放った鳥ではなかった/消えていく者の命について/撃たれて死ぬ者の声について/世界は何を語ったか(略)命ある者の声に耳を澄ませ(略)世界は一つの意味を消す/それで終わりだ/いつかぼくも消される/その時 鳥は帰ってくるのか/その日がやってくるまで/ぼくは鳥の帰りを待っている/それは無数の鳥のことではない/ぼくに住むただ一羽の鳥である》。この《鳥》は難解である。詩心のようであり、詩の生成以前にあるマトリックス(母胎)内のもののようであり、真の自由のようでもある。いやむしろこの《鳥》は詩の多面性と解釈した方がいいのかもしれない。評者は本書を一冊のプロテクト・ソングを基調とした詩集だと解釈したくない。そんなちゃちな解釈に収まる作品群ではない。先に引用した二篇も佳品だったし、冒頭作『独りの旗』の《人が本当に護るべきものは目には見えない(略)ぼくは世界に向けて独りの旗を振る》姿勢にも共鳴した。詩『シェフの枝』の《死に向かう魚の命を甦らせる》調理のわざに感嘆し、詩『長野ベーカリー閉店』の老舗店舗の抒情的光景も好もしかったし、詩『彼岸花』の恩師に寄り添う書き手の情感にも魅せられた。評者はあとがきで知った、カザルスの『鳥の歌』から採ったという中村の言辞に囚われた読みに与したくない。なぜなら読み手が《鳥》の語句に籠めるイメージは、《詩》のそれに隣接して、書き手の意図や思惑を易々と凌駕して、深くて広い大空を行く自由者の表象であるからだ。

吉田義昭『幸福の速度』(土曜美術社出版販売)。瑕疵などあるはずもなく、過不足ないレトリックで文句のつけようもない詩が収載された詩集は語り難いものだ。息苦しいほど稠密に書き手の情感を言語表現で生成する、それはどれほどの熱量で煮沸した創作時間を生きることで得られるのだろう。『人生論詩篇』『いのちの詩篇』『社会学詩篇』各々十一篇に纏めた三章、一連六行四連で見開き二頁にきっちりと収められた詩作品の整然とした佇まい。『覚書』によると、「意味性と言葉のリズム(略)自己への批評性を意識し(略)俳句のように凝縮度を試みた」、この形式が「書きやすかったのだろう」と記しているのを読んで、申し分のない詩集誕生の理由がストンと腑に落ちた気持ちになった。ひとは空が近くなると展望台に佇んで来歴を眺めやり、ひとしきり感慨にふける時間をもつようだ。先述したように夫々異なるモチーフで三章に分けられ、書き手が語り手となって亡くした配偶者や親交のあった友人を登場人物として語る書法で作品化している。次の詩で吉田は、彼らと繋がる道具に『手紙』を選んだ。テクノロジーが進化した現代の通信手段はITが主流なのでライン、チャット、スカイプが日常的に利用されていることから、『手紙』の世界は時代遅れにおもえるかもしれないが、だからこそ日時を要する手紙という通信手段が愛おしく感じられるのではないか、電車でも新幹線が味気なく各駅停車のローカル列車に旅愁があるように。詩『遠い手紙』がなんと豊饒な作品におもえることか。《西と東に別れた友からの手紙/ただ一行だけ「元気でいるか」と暖かな文字/私も急いで「生きているよ」と返信/どう生きようかとか/若い頃にあんなに語り合ったのだから/あれからの二人にもう後悔の言葉はいらない(略)もう何年も会っていない親友からの電話/ただ一言だけ「会いたい」と録音された震えた声/私は涙ぐみ懐かしいより彼の顔が恋しい/そして急いで電話を「明日にでも訪ねて行く」と/遠すぎた時代は私たちを何も変えてはいなかった/遠すぎた昨日がこんなにも早く老いてしまうとは》。略したが、こんな詩句も豊饒な世界の創成に寄与していた。《忘れていた友からの手紙/ただ一行だけ「妻が死んだ」と悲しい文字/私は返事が書けず一年が過ぎ二年が過ぎ》や《孫ができたとか病気のことや老いの愚痴/仕事を辞めてからの普通の日々や私との別れ》などがそうだ。若い日々に交わった友との間に生まれた時間の溝を《手紙》は性急に埋めようとはしない。とても《遠い》ところから、時間をかけて届けられたかのような《手紙》には距離感が生まれる。ウェットな情感が生まれる。ただしこうも補足しておこう、未来のある時間にいまの通信機器で使用した記憶データが手紙と同じ役割を果たすかもしれないと。《手紙》もパソコンやスマホといった通信機器も同じ道具にすぎないのだから。本書所収のどの詩をとりあげても甲乙つけようがないから、恣意的に気に入った詩句を列挙して締めたい。《水は木が欲しがっている時にあげればいいという/花を売り感動も売りたかったが花はいつも売れ残り/本当は彼が花を手放したくなかったのかもしれない》(『花屋の場合』より)、《こどもの頃から男は上皿天秤が好きだった/今日一日と昨日一日の重さを比べたり/人生と肉体の質量を仕分けして両側の皿に載せ/どちらが重くなるのかと空想したり/今日までと明日からの人生の重さの差を感じ/針の揺れを気にして日々を生きてみたかった》(『星の重さ』より)、《この木から花の重さをひくと夏/(略)/この木から葉の重さをひくと秋/(略)/この木から寂しさの重さをひくと冬》(『宿命と運命』より)。まだまだ他にも気になる詩句はあるが、いずれも映像化できず言語でしか表せないコア的な詩句ばかりをチョイスした気がする。

中島悦子『暗号という』(思潮社)。一読、曼荼羅の図柄や秘密仏教の略語である密教といった言葉が、評者の頭のなかで洗濯槽の水流のように深部にむかって渦巻いた。それは本書のタイトルにも関連がある。「暗号という」形容詞だけで成り立っている用法も巧妙だが、なによりも語句自体が秘密めいている。当然次にくる姿を表わさない名詞がすっぱり切り捨てられ秘匿されたまま宙吊りにされている。じつにアクロバティックな語句なのである。収載されている詩も、様々なものが掻き集められているが、雑然とした収集ではなく注意深く選別し、整然と纏められた詩群によって編まれた一冊になっている。註記に、《古語の部分は「平家物語」より》とあり、出所の判然としないひながな表記の古語をも現代語のなかに召喚し、巧みに混在させることによって甦生させているところが最も特徴的なところだろう。と、ここまではだれしも来ることができる地点だが、評者は中島の書法に吉岡実の継承をみるおもいがした。《(ただし、一人は欠席)》でまず疑い、《紡錘形》や《死児》の語彙でそれが確信になった。雑多な素材を引用した綾織りの整然とした佇まいや宗教性が滲む死生観といったものに継承をみた気がしたのだ。本書三一頁《怨霊》の語句が重ねられ《怨霊怨甥怨霊祖父》が終わりにくる語句、六〇・六一頁の《茶憂奈・留孤・宇二三ァ佞ら始まり《水ゞ絽貽鷆空漠々南無》で終わる語句、《大講堂鐘楼経堂社壇御宝殿塔廟一切焼失笑失。》(『被流』より)など、念仏なのか呪文なのか不思議な語句が挿入された字句が曼荼羅にみえる。《肖像とは/刺繍の表にすぎず/錦糸を留めた裏は/ただのササクレ/人間の背景は何か/表懐の裏は何色か/ぐるりと回ってみなくては》(『猿罪』より)では人間の裏表と刺繍布地の裏表を重ね合わせた詩想の詩篇もそうだ。最後に置かれた詩『被流』の、最終の一頁の真ん中に一行《沈めば 迎えに来てくれる都があるのだろうか》は確かに「平家物語」の世界を一行でよく表しているとおもう。どれも完熟味のある、古語の世界と現代語と巧みに織りなした佳品ぞろいだが、詩『暗号』を避けては通れないだろう。《はさみで切り抜くことのできない形は//ねうしとらうたつみうまひつじさるとりいぬい(略)裏底の偽刻印の/古い文字は隠されて/死児に憶えさせようとすること(略)藪の中に隠れて紙漉をした/何度も何度も/切れるような冷水に手をひたして/隠れた文字を埋めこむと//ねうしとらうたつみうまひつじさるとりいぬい//いうことをききにくくなる/今年の/木の繊維が獣の舌/獰猛になる》の詩句で、またタイトルに戻る。名詞「暗号」と連体詞「という」を分けて考えると次にくるのも名詞であり、「という」は前の名詞「暗号」を説明する接続詞になる。であるならば次にくる名詞は「し」であり「死」と「詩」なのではないだろうか。謎解きになってしまったが、書評にそういう要素があることも付け加えておこう。


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