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2020年04月08日09:14

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詩的現代31号〈詩集・詩書時評(29)〉2/2


水出みどり『泰子』(思潮社)は、《稚魚の/ひかる鱗が/夜明けをはじいている》(『はるかなものを』より)と、こういう瑞々しい詩を含む静謐で透明感のある詩集だ。少ない文字数の行を連ねて、一篇の行数が少ないその見た目とともに、心情を情景に託すリリシズムがそう感じさせる。《こんな夜/樹が立っている/ゆれる黒い影になって/ゆれ動く記憶になって》(『記憶について』より)では、吉原幸子の《風 吹いている/木 立っている/ああ こんなよる 立っているのね 木》(『無題(ナンセンス)』一連目)とコダマのように呼応しているが、真に呼応しているのは《五歳上》の姉《泰子》と、《ゆれ動く》はずのない《記憶》の方であり、詩集の最後に置かれ当初の作品発表を改作した表題の長篇詩に集約されてゆく。だが、水出の詩は単純ではない。繃帯で包まれた傷のような真相は、次に引用する巧みなレトリックで秘匿されている。《夜が満ちる/闇はしなやかな/狂気をはらんでいる//吃音の問いが/こだまする/深夜//睡りのなかを/はてしなく落ちていく/とらえられない/影がある》(『ひそかに』冒頭三連)、《明るい真昼/水の棺が沈んでいく/語り得なかった言葉たちが/あわだち ひかりながら/消えていく》(『水の棺』最終連)、《夜明けまえ/まだ生暖かい夢を/かすかに罪の匂いのする夢を/ついばんで翔んだ/小鳥がいたことを》(『囀っている』最終連)といった具合に、《狂気》や《影》にも《吃音》のためらいがある。《水の棺》は《語り得なかった言葉たち》や《罪の匂いのする夢》のメタファだ。水出が秘匿するものは記憶のなかの姉である《泰子》とも直結している。《三年後離婚/生まれたばかりの(泰子)が残された//父はその後/泊まり込みで赤ん坊の世話をしていた》と、詩句が書き記されるだけで、《泰子 姉ちゃん死んだ/泰子 姉ちゃん死んだ/泰子 姉ちゃんが死んだ》と、喪失感だけが塗り重ねられる。家族の史実を正直に書いたからといって詩にはならない。真の事実は言語化できないし、言語が真の事実に逢着することもない。であるから秘匿の覆いを外して書き記すことに重大な意味などない。水出は深層から湧き出る言語によって、悲しみの結晶に透明感のある言語によって詩の生成を行ったのだと解釈すればいいだろう。

谷元益男『展』(ふたば工房)。全篇を覆っている限りない詩の静寂は、作者≒主体の記憶や思念を含む内在性と道具に象徴された生活環境、眼前の山容や田畑といった風景とのトライアングル内で成立している。谷元本人かつて東京に暮らし多くの記憶の堆積があるだろうが一切触れない。家族や血族関係の描写も注意深く希釈されている。あるのは、水に溶解されないおもいが沈澱してゆくじつにゆったりとした時間感覚でのカメラワークでいう思考のティルトダウンであり、そこで生きた農民らの暮らしの遠い幻燈を言語表出している。収載された詩篇は周囲の山の景観にも似てほとんど同じ姿態にみえる。こういった具合だ。《過ぎ去った日とともに/固まった土塊を/いま はじめて掘り起こす/この地に足を踏み入れた村人の/頭蓋がいくつも連なって/馬の脚に踏まれて砕かれていく/土を起こす刃はひかるが 畝道を走るひと影は/いまは いない(略)ひとの気配が ここにあるのは/生まれては/死んで/かたちを 残したものだけが/鞍の上に しずかに/たちあがる》(『鞍』より)、《鉄の先で 日は生かせない/かたちを失ったまま/畑で根を張り続けるので/その翳だけを引きぬく/ひとに似た草だけを/絶え間なく引き抜いている//畑の中には/三日月のような/獣の爪が/落ちている》、《山あいの田で/老いた男女が/両足を泥で真っ黒にして/空を 見上げている/腕を腰に/水を飲んだ月のように/揺れながら陰を落としている》(『馬鍬』より)、《欠けた壺の端を/月が昇っていく/深く切れ込んだ中腹にだけ/ひかりを溜め/ひび割れた線を伝って/時が/流れはじめる》(『稜線』より)。都会の景色では見落としがちなものを田舎の景色に溶け込んでいるとひとは容易く美しい幻視を見ることができるかのようだ。

新保啓『朝の行方』(思潮社)。本書収載の詩篇は平明で軽妙なユーモアが横溢している。コンセプトの分析形而上学的ロジックで説明できる明晰なものであり、各詩篇のテーマもまた明確だ。前半部に特徴がよく表れている。《朝と昼の区分がよく分からない/どこから どこまでが/朝なのか(略)朝にも遅刻はあるのだろうか/遅れてやってきた朝は/きまり悪そうにして/空を曇らせた/昼とのさかいを一層分からなくした(略)それぞれの朝は/今どこでなにをしているだろう/消えた朝の行き先は/海たちだけが知ってるらしい》(表題より)。朝・昼・夜と、一般名詞の各語句の意味と区分は明白なのだが、実質的な境目は明白とはいえない。地球上の国々は環境によって凡そが定まるが、わが国に限定しても職業や各個人でズレが生じている。「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」の語句自体は明らかだが、使用の際には季節による日照や個人差が介入してくる。評者の場合、朝昼の境目を一〇時ごろと決めている。夜なら暗くなった後だ。この詩の《朝》にしても《昼》との境目は不分明なので非明晰になりそうだが、それを救っているのが《遅刻》や《きまり悪そうに》といった擬人法によるユーモラスな言語表出の箇所だろう。その後の論理的帰結として《空を曇らせ》、朝は《行方》知れずになる。《行方》を《知ってるらしい》のは《海たちだけ》と断言する。辻征夫に似たライトバースの見事な詩だ。次の『水の上』は《水》をテーマにしている。《山の高いところにも池がある/と 知って驚いた//同じ水なのに/それぞれ居場所が違う(略)水の上の日々は/水にとって/重くなったり 軽くなったり/するのだろうか》(一部より)は、水の慣用性を転覆させて本質に肉薄するとともに、作者≒主体と《水》とを人的に同類視する擬人法の使用が肝要なところで、問いそのものは重要ではない。《水平線へと向かう/差出人のいない/手紙のような船が》(『きれいになった水平線』より)、《道の草たちは/私のことや/犬たちの散歩を/いつも見ている》(『道草』より)、《夕方近くになると/波だって/ほっとして すこし/休みたく/なってくるのだ》(『波』より)任意に引用したが、こういう詩句がたくさんある。擬人法の多用が主だが、異なる素材同士を同類視する視点の詩もあり、本来シュルレアリズムの手法だがそうは感じさせない。その理由は、難解になりがちな詩句や韜晦的表出に逃れたりしない書き手の、潔さと軽妙さに負っている。これが新保詩の特性であり斬新さだろう。

草野理恵子『世界の終わりの日』(モノクローム・プロジェクト)。現実と酷似した世界があるが同一ではない。現実とは少し距離を置き、似ているようで本質的にまったく違う世界。次のようなことが起きても事件か事故か、法的に罰せられることがない世界がある。《姉はツララが怖く私と父でいつも叩き落とした/ある日間違って姉の体の上に大量のツララを落とした/何本かが姉の胸に刺さり/雪の上 鮮血が飛び散った/それはゆっくりと雪を溶かし小さな赤い穴をいくつもあけた/父と私はそのまま姉を埋めた》(『ツララ』より)は、いくつもの非常識がある。まず、怖がる姉の眼前でツララを落としたこと。胸にツララが刺さったにもかかわらず救護することも救急車を呼ぶこともなく埋めてしまったこと。ツララが《ゆっくりと雪を溶かし小さな赤い穴をいくつもあけ》るのをじっと冷静に観察していたこと、その客観描写。これは現実の出来事ではない。言語表出による詩の創作だから、そうかもしれないし、いやそうなのだろう。草野の詩は、量子力学の世界でよく知られた概念の「多世界解釈」理論であるパラレルワールドに類似している。《北の果ての鉄の街はいつもしんとしていた/歩くのにとても疲れた/自分の足音が高く響き 違う人のようで/自分のものにしようと思うとますます他人の音になった》(『鉄の街』より)この乖離感覚は他の詩にもある。《「交代します」と顔色の良い同じ顔の〈私〉が来た(略)私は〈私〉に教えた/〈私〉は目を輝かせて報告しますかと言った(略)〈私〉は顔色の悪い私と観覧車の運転の交代をする》(『冬期閉館』より)。私と〈私〉とが《同じ顔》でも別人格でもあるかのようなのだ。こんな奇妙な世界もある。これは言語表出と弁護しても、われわれの世界ではない。《男は乳母車に乗り/手向けられた白い花が顔の周りを埋めている/成人した男だから/乳母車から手も足もはみ出している》(『抽斗』より)、《文字を書くには文字屋に行ってひとつひとつ文字を買わなくてはなりませんでした》(『文字屋』より)、いずれもグロテスクで珍妙な世界で、メタファによって別の現実を示唆する物語性を多量に含んだ世界だと解釈することもできるが、先に記したようにパラレルワールドだと解釈することもできる。「多世界解釈」理論での世界はいくつにも並行した多層的に存在する世界だが、われわれが視認できるのはただ一つでしかないから、確認のしようがない相互不干渉な世界である。しかしひとの潜在意識に相互にコンタクトして干渉しあっているという解釈もあり、ルーティンとなっている日常から唐突に外れた行為をすることがあるのは、その影響によるという言質の学者もいる。草野の詩世界は、もう一つの、いや多重世界の一つひとつの現実を体感しているのではないかと感じさせられる物語世界なのである。したがって、われわれの常識が通用するはずもなく、もし空間のゆがみに落ちて別世界へ行ってしまったなら、帰ってくることは可能なのか。こっちの世界で死んでしまった者が、別世界で生き続けるなんてことが可能だろうか。《これまで誰にも言わなかったことを話します》(『口寄せ』より)や、《〈地球最後の日さん〉は遠い丘の病院からやって来た/僕の部屋の小さな窓からそれが見えた》(表題作より)、《私は早く戻らねばならない/とても遠くまで来てしまった》(『絶叫』より)といった詩句は、空間のゆがみに落ちて別世界に行ってしまった者が観た光景だとも言え、悲痛な願望を表出している囚われ人の文言にも似ている。また現実感はないのだが、物理的現象を忠実に描写したものだともいえる気もしてくるのである。

中井ひさ子『そらいろあぶりだし』(土曜美術社出版販売)は、詩集なのだろうか。帯や表紙、本紙にもそんな謳い文句はない。『あとがきふうに』が行分けで書かれており、中井固有の言語表出なのだろうファンタジー味のあるフィクショナルな詩で、詩句は聡明な切れ味もある。それでいて本文の書法は真逆に散文なのである。評者も当初、散文詩集のつもりで読んでいた。だが読み進むうちにそうではないかもしれないとおもい始め、決めつけた読みはいけないと考えはじめた。詩集と決めつけて読み、感想を書く立場に与したくないのだ。詩集かエッセイ、ファンタジー色濃い掌編小説か、カテゴリーは読み手にはどうでもいいことだ。詩でなく映画やTVドラマの映像ならば、この内容は表現できるだろうかとよからぬ考えをもって読み進めた。映像で表現できないものこそが詩ではないのかとおもったからだ。CG加工すれば大概の映像は表現できるし、モノローグやダイヤローグによって登場者の役柄の心理描写も可能だろう。近い将来には匂いや振動といった五感の領域にまで感受領域は広がり、その場に居るかのように感じることができるはずだ。詩と映像の違いは能動的な感受か受動的な感受かの違いだけだろうか。文字を読みイメージする享楽は文学であり詩作品を感受する喜びに直結している。この手慣れた文章の整然とした美しさは比類がないし、ファンタジー味あるフィクショナルなエッセイとしても読めそうで袋小路に迷い込んでしまった。中井の筆力が詩という狭いカテゴリーからはみ出すほどのエネルギーを発露させているせいだ、きっと。《「心が通い合った時だけ俺たちが見えるんだよ」(略)「死んでも心だけは動いているんだ。それが良いか悪いか解らないけれどね」》(『お花見』より)、《ある時気づいた。懐中時計のどうしようもない気まぐれさに、思い出したように、ものすごく速く進んだり、ゆっくりゆっくり進んだりする。どうかしたらピタリと止まったまま絶対に動かない。ネジを巻こうがたたこうがピクともしない。/そんな時計は困るだろうと思うかもしれないが、そうでもなかったのだ。この懐中時計の時間は、私だけの時間になっていることに気づいたからだ。》(『懐中時計』より)は文字的、書記的であるが、次のような語句、《七年前に逝った父は相変わらず無口だった》(『扉』より)や、《「だれ?」/「おばけ」/照れくさそうにカーテンから顔を出した。/「嫌だ、私そっくり」/叫んでしまう。/「違うよ、あなたの若い時でしょ」/おばけのくせになまいきに口を尖らす。》(『お化けとの語らい』より)セリフ回しも含めて映像表現できそうだ。本文の最後の頁にこんな語句を読むことができた。《狼が鉄の魂を持っているからといって、人間にならなくてもいい。好きなものになればいい。鉄だってそうだ。すべての魂が悲しいまでに冷たくて懐かしいものだから。》(『狼』より)詩らしい詩など書かなくていい。好きに書いて、それが詩だと思っているのなら、それでいいんじゃないのかなぁ。

伊藤啓子『ユズリハの時間』(工房MOE)。伊藤の詩は、日常生活のなかに隠れるようにある。過去の記憶のなかや、夢のなか、寝起きの朦朧とした意識のなかなどにある。夢か現か判然としない輪郭のない時間のなかにある。《歩くたびに森は深くなり/なかなか建物へは辿りつけない/美術館はまだ?/返事の代わりに/ふふ、うふふ、はじめて声を聴いたが/女の子たちは森の奥にころがるように駆けてしまい/もう姿を見ることがなかった》(『美術館まで』より)目的地であるはずの美術館に《辿り》着くことが真の目的なのではない。詩はいつでも途上にある。案内役は添え物のツマでもあるから、《顔のそっくりな女の子二人》が途上を同行するだけで、姿を見ることができなくなるのは当然なのだ。《ずっと覚えているだろうと思ったが/なにを食べようなどと/朝食に気を取られはじめたらもうおしまい/雲の色が変わっていくように/夢が少しずつ擦れて手が消えていった》(『春の寝起き』より)では《手だけの夢》こそ詩のメタファだろう。《うっそうとした杉木立の間や/石仏の蔭から/いくつもの眼がこちらを見ている/かすかな声がしたようで》(『捨て子』より)、《白い吹きだまりの向こうに敵がいる/遠い日の子ども達の列もいる》(『討ち入り』より)、《真昼間から/仏間を横切る摺り足が聴こえる》(『八月の読書会』より)、こういったものを感受できる高性能な受信機が伊藤の感受性であり、詩に近接した生活ぶりなのだともいうことができる。これらの引用した詩句に現れた気配に対して、主体≒作者側には正対する距離感があるのだが、最後に置かれた『妖怪待ち』では、その距離を狭めようとする受容と覚悟が窺える。《妖怪とは血が繋がっている/いつかわたしも立派な妖怪になる(略)縁側に足投げ出して/ユズリハを見あげる》。その覚悟で《ユズリハ》を見あげる。この『ユズリハの時間』こそが、伊藤にとってゆったりとした詩の時間でもあるのだろう。

山本美重子『坩堝は突然やってくる』(梓書院)。山本の詩には、稠密に綴られた散文詩という理由からではなく、以前から息苦しさを感じていた。同人仲間でもあった評者は無意識裡にそこから逃げていた気がする。だが今回ばかりはそうはいかない。決着をつけなければ本書を読んだことにはならないからだ。この息苦しさの正体に迫ることで理解が進み、評者の責を果たせるのではないかと思ったのだ。その解は意外にも早々に訪れた。『空間の不思議』を読んでいるときにピンときて、『ある日の僕の脳』機銑靴噺綢海了蹐鯑匹鵑燃凌した。日常的思考と形而上学的思考との間の空間に構築された詩作品なのだと。様相論理学から導き出された様相概念によって閉じ込められた閉塞感覚に起因したものだったのだ。日常空間のレイヤーを超脱してマトリックスから生成された純粋な言語宇宙だったことにあらためて驚いた。以下の作品で解明したい。《正三角形で牽制を始めた三つの点は いつも定点であるはずなのに僕の感情の起伏で 二等辺三角形になったり直角三角形になったり 曖昧な境目をいつか越えて 直線上にナカグロの点を一つ置くだけの関係になった途端に この屋根を持った空間が崩れ落ち始め 僕は空を感じながら君たちとの距離を計っている》(『空間の不思議』より)、《見上げると複雑怪奇で鋭角に切りとられた 三角形の重なる思考回路だけの僕の脳を見て 一目散に逃げていってしまった 組み方とは真逆で単純な僕の脳に 白と黒で色分けされたボールを残して》(『ある日の僕の脳 機戮茲)、《猜疑心はにこやかにやってきて 切子カラスのような僕の脳に罅をいれた(略)幾何学模様の切れ目から ある日疑問符がひとつ現れた》(『ある日の僕の脳 供戮茲)、《僕の脳に現れた現象がそれだった》(『ある日の僕の脳 掘戮茲)などに、日常から形而上学へのベクトルを読み取れる。《僕の脳》に《幾何学模様》の《罅》を入れるのは《にこやかにやってき》た《猜疑心》だという。思考に感情の揺さぶりや混濁が流れ込む。《チチキトクスグカエレ》の時ですら《見渡す限り規則正しく並んだ ドットと思えるカタカナが浮かぶ海 クロールで言葉の連なりをかき分けて泳ぐ》(表題作より)のだ。《視界が届く限り自分の起源を探して 渦に向かって潜っていく 今を感じる文字を手にいれるために》と、山本は《自分の起源を探》す方法として《文字を手にいれる》ことに貪欲なのである。詩の言葉が現実に還元できると考えている書き手が多いなかで、山本は真逆に、節目の現実や負の感情すらも言葉に還元できると思考し続けている詩人である。

加藤思何理『花あるいは骨』(土曜美術社出版販売)。加藤の詩集を読むのはもう何冊目だろう。第二詩集と第三詩集の間に一年ブランクがあるが、以降は毎年で、本年二冊目の第七詩集である。繁茂し交錯していた枝葉が、間引かれ美しく刈り揃えられた感があって経験値が高度化されている。それにしても、多産なのは加藤のマトリックスが正常値を逸脱しており、原因としてなにかの欠損を補填するための過剰供給である気がした。《大文字の他者》の規範をどこまでも超脱したいエネルギーの湧出量がハンパない。加藤の作品群は、日本人的感性よりもどこか西洋風のSFとミステリー、ファンタジーとホラーをかき混ぜた感のある作風で、エドガー・アラン・ポーのフランス語訳をしたボードレールと原作者との混血児を思わせられた。散文詩は一部の例外を除いてリリカルなものや日常雑感的なものに偏りがちだが、本作はどこまでもそれと一線を画したものになりたがっている。ポー風という観点に視座を置けば、異色とは呼べないものに容易く変容するだろう。プロローグに掲げた《柔らかい土には足跡が残る》や章立ての語句《色》《重さと軽さ》《形》にそれぞれ添えられたエピグラムが、本文より短いけれど強く印象に残った。こういう短文だ。《ぼくの隣で目覚めた妻が、あなたを産んだ夢を見たわ、と言った。》、《絵本のなかで一心に遊んでいると、仕事から帰ってきた母親が何も知らずにその絵本をぱたんと閉じてしまう。/それ以来、ぼくは絵本の世界から外に出ることができない。》、《全身がびしょ濡れになって家に帰ると、入れ違いに父親が外出するところだ。/父親は祭りの日のように真白な衣服を身に着け、ズボンのポケットにはたっぷりと金貨を詰めこんでいる。/非常に若若しい顔つきだが、あるいはぼくより年下なのかも知れない。》本文を通読した時に感じた書法の本質を的確に掴んだ短文であるように感じた。エピローグも面白い。《道に迷ったときは、道自体を迷わせよ。》は、加藤の詩に対する一貫した対峙の仕方を言語表出している。本質的には金太郎飴の顔々かもしれないが、《男たちは殺す。/鳥を殺す。/その屍骸を埋めるために男たちは競って穴を掘る。その穴は、だが常に多すぎ、大きすぎる。/だから男たちはさらにたくさんの鳥を殺さなければならない。》(『鳥を殺す』全行)。夢リアルの不能性、危機意識による恐怖感、唐突な意外性、生活中の陥穽などの語句に還元できよう。書法的にはロジカルだが、そのロジックをひねって陥穽に落とす、落語的オチ噺といったところだろうか。その双面を両の手に網をもって本文の儀物語に挿し込むならば、大部分は掬い取ることができるのではないだろうか。
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本来なら、御恵贈いただいた四冊『ぎゅっとでなく、ふわっと』(夏目美知子)、『雨は群星の影を逐って』(田中勲)、『発熱装置』『単独者鮎川信夫』(ともに野沢啓)も入れなければならないのだが、締切り間際に届いたために触れられなかった。次号で必ず触れますのでどうぞご容赦を。

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