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2020年04月08日09:10

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詩的現代31号〈詩集・詩書時評(29)〉1/2

           ポスト成長資本主義とともに迷走する詩

 先の台風一九号は静岡に上陸、関東・上信越・東北と広範囲に大小多くの河川氾濫や堤防決壊等で多数の被災者、家屋やライフラインに被害を与えて通り過ぎた。家族や家屋が被災された方々に衷心よりお見舞い申しあげます。その甚大な自然災害の被災者に考慮して、十月二十二日の天皇陛下即位の儀式は世界の要人を招いて粛々と執り行われたものの祝賀パレードは先送りされた。さて話を転じて、少し前にTVで観た国連サミットにおいて約六〇ヶ国の首脳や閣僚を前に十六歳のスウェーデン環境保護活動家グレタ・トゥーンベリ女史が語った厳しい口調での、《あらゆる生態系が壊れだし、私たちは絶滅の淵にいる。にもかかわらず、あなたたちは口を開けばカネのことや、いつまでも続く経済成長などというおとぎ話ばかりだ。よくそんなことが言えるものだ》、《大人は無責任》、《私たちを失望させる選択をすれば決して許さない》といった演説は、今回の強大な台風による河川氾濫や竜巻による惨状の光景とクロスオーバーした。地球温暖化による気候変動や気温上昇は台風を巨大化させ異常気象を常態化させている。海面上昇と地球規模の環境汚染は人類科学の進歩や経済成長が最大の要因だ。先進諸国の代表たちが国家や経済の受益を顧みて開発途上国代表の前で口にすることができず、SDGs(エスディージーズ)のような国際目標のスローガンが国連で採択されても、肝心の核をめぐる採択に対しては米国、ロシア、中国、インドといった国々は及び腰であり、世界で唯一の被爆国である日本もまた米国に忖度するようでは、核廃絶の声は誰の心にも届かず絵に描いた餅でしかないだろう。待ったなしである地球の危機を、若い女史の視座だからこそ躊躇いも駆け引きもない言葉を放つことができたわけで、トランプ大統領が足早に通りかかる映像では、背後で腕を組み唇と目に強い反発を籠めた視線の女史の姿とともに、大人vs子供=現在vs未来という象徴的な対立構造の存在を感じて強く印象に残った。現代社会に原因が特定できない病巣が思いがけない症状となって突発的に発症し悪化の一途をたどっている。偶発的に発生する事件・事故、憂慮すべき事案、スクランブル的事態となって、ネット・ニュースやTV報道の冒頭で語られたり書かれたり新聞や雑誌の見出しとなる。改憲に前のめりの首相の発言を聴きながら嫌悪感や誹謗中傷など負の感情を核にした個の集合体的社会環境の排他的・偏執的風潮と、《戦前回帰》の危惧の声とは、コインの表裏のように一体であると感じる。国家の法律は現状に適合させるべく改変して運用しなければならないし、トランプ大統領の自国第一主義に端的に表れているように米国の影響力低下は「核の傘」に委ねられて戦後復興を加速させた戦後史の流れから、独自の防衛力や安全保障の自立を促されているのはわかる。だからといって自国民を人質に脅しまでかけて軍事費を膨張させる手法が正しいとはとても思えないし、改憲は世論調査でも反対が過半数を占めているのだから《戦前回帰》の批判的な声が喧しいのも仕方ないことだろう。なによりもわが国は近隣諸国をはじめ諸外国との良好な関係強化以外に生き残る道はないはずなのだ。軍事費の膨張はまるで幽霊に脅える子供のようだ。先に記した諸症状発症は、日本経済の相対的な衰弱に伴う労働環境の悪化や閉塞感といった、社会不安や将来に対する希望の空疎さに起因している。社会制度が包摂型社会から排除型社会へ構造変化をしていることも要因の一つだろう。もともと村落単位の農業共同体が壊滅して移行した都市型コミュニティーには、村落共同体の心性である団結力と村八分という排除の論理が民族古層に残存している。不寛容社会は不適合者を排除して仮想敵を想定する。社会問題化している教育現場や職場でのいじめやハラスメント、あおり運転やユーチューブによる愉快犯的なバイトテロ、無差別大量殺人などが被害妄想的で偏執狂的加害者による暴走行為が社会に対する憎悪の代替行為となって無差別に弱者にむかうところに悲劇性が増幅されている。こういったわが国固有のミクロ的視点ではマクロ的視点には到達できない。グローバル化と世界経済とは地球環境のように一体であり、人類の生存条件や未来のグランドデザインと深く関わっている。カール・ハインリヒ・マルクスが予測した「資本主義は崩壊する」の言質をもち出すまでもなく、わが国の衰弱は資本主義の末期的症状とパラレルだろう。だからといって拙速にこの状況に、《国家間のトラブルを交渉で解決する辛抱を失い、国民が「日本は正しい。悪いのは全て相手国だ」という一面的な価値観に染まった時に「戦争を待ちに待つ」空気が広がる》(西日本新聞論説副委員長・永田健のコラム)ようでは、「戦争しないと、どうしようもなくないですか」(丸山穂高衆議院議員)の発言と同質であり、思考停止状態だと全否定せざるを得ない。グローバル化は自由市場経済と各種の情報によって、地理的・心理的距離を解消し、ダイバーシティーと情報の世界同時性を獲得したが、反面において個々の主張を平準化し等質化して結果的にコンセンサスを砕いてしまう役回りとなってしまった。仮想通貨は世界の国境を超越・無化して貨幣価値に疑義を齎し、電子決済の利用増は常にハッキングやサイバー犯罪による強奪危機に曝されている。AIやテクノロジーの進化は近代産業革命後の世界のように安定には向かわず、いまだ新たな産業を生み出せない混迷の渦中にある。マルクスの『経済学哲学草稿』ノートに、《人間がいかに生きるべきかという哲学を深めるためには、経済を解明するしかない》という文言があるが、平等という理念が作為的錯覚でしかないことが露見した現代において《いかに生きるべきか》の哲学に占める経済問題は決して軽視することはできない。成長していく子供達の教育水準と家庭環境の格差には厳然たる相関関係があるし、中産階級が壊滅状態となり世界の八人の大金持ちが世界中の半数の資産を占めている。GAFA(ガーファ=グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)がその象徴だ。寡占による富の割合は国家規模以上に膨らんで世界各国の税制面に悪影響を与え、喫緊の懸案事項に急浮上しているにもかかわらず決定的な解決方法は見いだせないまま棚上げになっている。いまわれわれは様々な情報を耳にしながらも途方に暮れて混沌とした世界に生きている。《われわれは今、(略)押し寄せる「万華鏡のような情報の選択肢」を持ちながら、何が「真の事実」か分からない世界に生きている。》それを「ポスト真実」と呼ぶ。《事実と虚構、真と偽の区別を見失った人々こそ「全体主義的統治の理想的な臣民だ」》と、現代にも通じる言説で鋭く指摘したのはハンナ・アーレントだったが、克服したはずの全体主義が米英で台頭している。《真実と理性が「絶滅危惧種」になりつつある》と『真実の終わり』で書いているのは、ニューヨーク・タイムズ誌で三十年以上書評担当を務めた日系米国人で文芸評論家のミチコ・カクタニだ。彼女は、それらの原因の一つをポストモダニズムと見立てている。ハイデッガーやニーチェを淵源にして、フーコーやデリダを「真実という考えを視点や立場の概念に置き換え」て、あらゆる価値を相対化したからだ、と。《何が真の事実か分からない今日の知的混迷は、原爆やホロコーストに科学を応用したことで極限化した価値相対化に始まっているのかもしれない》と青山学院大教授の会田弘継は同調している。確かに近代哲学はフリードリヒ・ニーチェの「神は死んだ」、ジャック・ラカンの鏡像段階理論、デリダの脱構築、ドゥルーズのリゾームなど、構造主義やポスト構造主義によってサルトルの実存主義に打撃を与えたが、世界のグローバル化による通信機器の双方向性が飛躍的に進化向上して、儒教をはじめとした家族関係の親子、老若・男女、ジェンダーや主従などの価値観を包含した関係性が流動性のあるものへと変容して、世界中の個人が主役の座を奪って脇役から主役にのしあがれる機会を持ってしまった。価値の軽重が不明な情報の氾濫がすさまじいものになった。リテラシーが一部のマスコミやメディアのものから個人のものになった。真の事実である真実と理性が《絶滅危惧種》であるという言質は耳に痛い。われわれは日々の表層的情報や場当たり的な情感に流され惑わされて右往左往してはならないのである。じっくりと永いスパンで思想の起源を辿った上で結論を導く必要がある。即断即決は負を齎すことも忘れてはならない。このごろ《同調圧力》という言葉がよく言われる。ほんとうの意味は、少数者に対する多数勢力の社会的排除圧力を指すのだが、ネットの場合それは過激で高圧的な一部の少数者であることが多いようだ。過激派が多数を騙って多数の無組織な浮動勢力に攻撃をしかけるのである。自国第一主義というナショナリズムの仮面を被った過激派のアクティブな意見がまるで正論であるかのように、誇張した民族主義や嫌悪感を前面に押したてた排他的な言質をゴリ押しして反対意見を社会的に抹殺しようとするのである。世界各国の個別の事案が、さまざまな立場の意見によって複雑骨折し危機的状況を作り出してしまう危惧も指摘されるようになった。世界経済のグローバル化が民族内外の格差と分断を招いてしまったのだ。
 さてここで話題を転じて、自己vs他者、自己vs社会について、ラカンの言質に触れておきたい。ラカンは言語規則や社会的規範などの社会的ルールを「象徴界」という概念で捉え《大文字の他者》と呼んだ。対比的に個人が求める欲動のことを《対象a》とも呼ばれる《小文字の他者》という概念で呼んだ。ラカン派哲学者のスラヴォイ・ジジェクの言質では《対象a》は、「それ自体は空っぽなのに、あるいは空っぽであるがゆえに、そこに僕たちのいろんな幻想を投影することができるスクリーンみたいなものだ」という。「対象aは、純粋な想像の産物でもないし、現実的な存在でもない。にもかかわらず、僕らの幻想において中心的な位置を占め、その完全なイメージを持つことはむずかしい。それは、いわば三界(想像、象徴、現実)が接しあうような境界に位置づけられていて、どこにもきちんと属さないかわりに、それぞれの特徴を少しずつ併せ持っている。僕たちが自分を語るとき、どうしても語りきれずに残ってしまうもの。現実を象徴化し尽くそうとこころみても、どうしても取りこぼしてしまう現実の尻尾。ラカンは対象aの概念を洗練していくときに、マルクスの「剰余価値」概念をヒントにしたらしい。そう、対象aはいつでも、いろんな意味で「余り」の位置におかれているのだ」(斎藤環『生き延びるためのラカン』より)。現代は、為政者の手によって社会規範が強化されるほど内圧が高まって他者の声が聴き取りづらくなり混迷が増進されているようにみえる。《小文字の他者》である《対象a》が身体の内部からまるで異星からの声が個人の耳に届く時代になっているのではないかと思える。それは幻聴かもしれず悪魔の囁きかもしれないのだけれど、地球の悲鳴かもしれないのだ。悲鳴を聞くことができるのは、社会的組織の規範からも常識や病歴という偏見からも自由であるグレタ・トゥーンベリ女史のような信念をもった個人であり、彼女の熱い演説は苦痛に歪む地球に灯された一点のシグナルという記号である。先日、世界遺産であるノートルダム大聖堂や沖縄首里城の焼失が人々を落胆させたが、それらは人類の危機的状況に呼応して打たれた記号の一つであったのかもしれない。
 詩を書くことは《大文字の他者》である社会規範や経済活動にとって役立たずだが、やむに已まれず書いてしまうのが詩だ。詩作は私的行為以外のなにものでもない。私史の小暗い感情や記憶の縁から陽炎のように輪郭もなく立ちのぼってくる。読み手が言葉の美しさに魅かれ、詩句の断片で懐かしいひとや景色に再会したり、忘れていた大事なものや普段気づかなかったことを示唆してくれたり、架空の物語で真実を暗示されたりするだろう。「嘘は真実の影」とは、多面体である詩の一面を的確に表出する。詩は心の荒野に雨を降らせてくれる。固有の場所で読み手の心を潤してくれるサプリメントみたいなものだ。とはいえ社会とは隔離された安全な場所で、恋愛詩や日常雑感を淡々と描くだけでは仕方ないのではないか。日常にも驚きと不思議があることは谷川俊太郎やまどみちおが教えてくれた。詩は、等身大のじぶん以上に大きく見せられるものではない。また振り出しに戻ってしまった。何度でもホモサピエンスに立ち戻って、最初の文字の書き出しから頭を抱えてしまうタチの悪いものだ。詩の書き手は、動・植物たちの死に際に立ち会う感情のフチをすっぽりと失くしたなら、《同調圧力》に屈してしまうひ弱な人種である。戦争前夜のような世界的潮流にあって、もし言論の自由が奪われた最悪の社会環境になったなら、書くことは止めなられずとも一切の発表は回避しよう。詩人たちよ、暗澹たる混迷の時代を生きるなかで、腹を括った覚悟をもつ必要があることを肝に命じよぅではないか。
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渡辺めぐみ『昼の岸』(思潮社)。本詩集で渡辺は抒情の系譜に連なる覚悟を示している。現実の影響下に身を置かねばならない状況を引き受けざるを得なかったからだ。本来生身の声帯からは甲高い声が発せられるのだが、収載の詩篇は冷たく打ち沈んで重たい、身体表現にまでそれが及んでいる証拠だ。それほどまでに骨身に沁みる出来事に身心を晒したのだ。読み手であるぼくも彼女とともに《空の底辺に立つことができる(略)帰してあげなければいけない/逆立ちをして/わたしたち地上の者が》(『灼熱』より)と、そういう行為を成すことができるだろうか、あの日のあの時のように。小さな言葉を呟いて寄り添うことができるだろうか、いまのぼくに。だからといって、渡辺が生成した詩の言語空間を現実の出来事に換言し、還元したいわけではない。そんなことに意味がないことぐらい知っている。ただ《ティーカップの上に立ちのぼる湯気が/焼き場の煙のように/消えてゆく》(『春の窓』より)、《死に神を抱きしめて/今日を死んでゆく姉は/妹の声を聞かなかった/姉妹一緒に羽の影が途絶えた》(『旗下』より)、《ここは魂の僻地/長いこと日も差さず/祈りは傾いていた/斜めに人の腹に向けて/傾いていた(略)すべてが砕け散ったところから/そのとき天を見上げよう/そして囁こう/「おはよう/心肺停止の先へゆきます」》(『鬼百合の咲く頃』より)、といった象徴的でショッキングな具体性があり、悲し気な光景に触れて感情を共鳴させているだけだ。なかでも、《空の彼方では/恒星が生まれ/恒星が死ぬ/果てしない時の罠に/巻き込まれたんだね/友よ/今頃どこを運ばれてゆくんだろう》(『空 晴れて』より)には、斎場の祭壇にむかって読み上げる弔辞に似て凛として沈静した雰囲気が感じられた。詩篇『口無し川のこと』では、《誰にも信じてもらえなかった人の涙が集まり/できた川なのだとか/川に毒を注ぎ入れる者がいても/川はせせらぎの音を立て続けることしかできず/人はその川が川の悲鳴ではなく/殺意なのだと言いました》と、疎外感とそれに転じた《殺意》もあって、悲しみに打ちひしがれたように見えるひとの内在地にある複層面を垣間見ることができた。しかし概観するならば、ルネ・マグリットに献じたパート兇鮟き、過半数を占めるパート気亮載詩は悼歌か鎮魂歌のように感じられ、それとともなって書法の変化も見ることができた。

渡辺玄英『星の(半減期』(思潮社)。評者は、渡辺が第一詩集を編む以前の若い頃から読んでいるので彼の書法の変化は承知している。本書でも、すでに見慣れた語句が癖のように散見される。表題にある対であるべきパーレンの前部だけの手法もその一つだ。今回詩集を通読すると、より自覚が増し書法が深化してある意味をも籠めていることに気づく。凝縮ではなく拡散、一極集中ではなく分散、今様のダイバーシティーさえ視野に置いているかのようにおもえた。パーレンの不完全さは《(台風が近づいている(闇が濃い(光(風(雨》(『夜の(半減期』より)と、表記的にはポリフォニックだが、意味は横滑りして意味の軽重もなく横並びの印象を与える。これは一言でいえば定型崩しの、彼自身が途上であることの自覚であり、完成前の未完状態の保持で、つねに選択時の分岐点にいることを指し、彼が属する世間や世界観の混沌をも遠く指差している。目次の前に置かれた序詩『未読の街』では、《地面が濡れたら雨は降る というように/この文章が不完全に記されたから/わたしはここで傾いている/(わたしはかれだ(かもしれない》と、時制の倒錯があり、自他の未分明状態の疑問形あり、と現実の固定観念や定着した認識に揺さぶりをかける。柔軟により不完全に、あらゆるものに疑念をもちつつ不安を煽って詩行を進めてゆく。全体の意味や主張、擬物語性を希釈して散文的なものとは一線を画し、詩はそんなところにはないと主張する。《いまは風景の破片になろうとして/このようにおびただしくわたくしはくるくると/方位を変えながら流れていく(略) (ここは過去の未来だもの》(『ひかりの分布図』より)という詩句がある。《わたくしは》《流れていく》流動体なのである。変容してゆく主体や客体の動態がコンセプトで、モチーフは今日を《過去の未来》と柔軟に認識する《時間》だろう。《三日後の夜に三日後のブランコがゆれる》(『夜の(半減期』より)、《倒れているきみは時間の断層だ(った》(『白い街 青い光』より)、《鳴く猫と/鳴かない猫のあいだに/時間が緩慢に止まろうとしている(略)鳴く猫と/鳴かない猫のあいだに/ほんとうは未来があった(のかも(しれない》(『胡桃(くるみのとき』より)などいずれも、《過去の未来》である《現在》という《時間》の変奏なのだが、モチーフである《現在の時間》は巧妙に隠蔽されている。《現在》という《時間はいつだって凶器になる》(『虹の廃墟』より)からだ。隠蔽箇所を巧妙に迂回する書法の詩句が渡辺の詩なのである。詳細に触れることは避けが、彼には、《みだのほんがんみだのほんがん》(『箱(はこのうさぎ』より)という詩句や《玄英》というペンネームが指し示す過去があり、《(我が一門の機動兵器》《震電》(『震電』より)と書き記す《一門》の過去があって、秘匿すべき事実として表出することを回避してきたが、ここで初めて控えめに表出された。唐突に《ごめんね昨日まではそうだった》の詩句があるが、それは戦争で亡くなった死者たちへの贖罪であろう。

坂多瑩子『さんぽさんぽ』(思潮社)。坂多の詩は、《あたし》という主人公である主体が自在にメタモルフォーゼする軽妙な作風である。浮遊感すらある。冒頭の作『へいすけ』からそうだった。《へいすけをあたしは好き》で、《へいすけ》は《子ネコを(略)会うたびに連れてきた》。《ジャンパーのなか》にいたり、《マフラーのなか》だったりした。変化は《あたしはあたしで/このままというわけにはいかないぜ》から始まる。《喜びそうなことならなんでもやった》と、《舌でなめ》たり、《揉み揉み》した。ついには《ネズミをプレゼントしたことだってある》で変化の動態は完了して、ネコになった。《うしろの座席》が一連目と最後の連で交響して、記憶に残る恋情と言葉による寸劇がバスとともに走りさる。自在さはいたるところに顔を出す。《お似合いですよ/知らない人ににっこりされ/豚もおだてりゃ木にのぼる//金柑になったり/ゆうぐれになったり》(『いいさ』より)、《小豆がびっくりしてびっくりしたら死んじまうって》(『学校帰り』より)、《寝てるふりと死んだふりの違いはどこにあったのか》(『幼年』より)、《神隠しにあったように/若い叔父二人欠けていたけど/死者としてはまだまだ初心者で》(『でも』より)、《となりの死んだおばちゃんがニコニコ聞いてくれている/亭主より死んだ人のほうがよっぽど親切だ》(『せっかち』より)、《髪の長い先生の髪はあいかわらず長く/いつのまにかあたしより若くなって(略)おがくずみたいな子がいっぱい寄ってきて》(『パイ』より)、《このところ長雨がつづいているせいで/本のなかは/ぐしょぬれ/あたしもぐしょぬれで(略)とうめいにんげんになった/ナメクジってどんな顔だっけ/あたしの犬が寄ってきて匂いを嗅いでいる/おしっこ かけられた/足もと ぐしょぐしょ》(『読書』より)、ユーモアのセンスも抜群だが、どこかシリアスなものが漂う。生活感がチラつくからだろうか。《きんたろうあめだね/包丁でポンポンと/散らかった顔を/ならべて(略)一生ぺたんとくっついているわけですから/よく働いて/健康で/まあまあ長持ちする男/好きです(略)なめると甘いです/あたしの顔にぺたんとくっついて》。《散らかった顔》の《金太郎飴》が、《一生ぺたんとくっついている》《男》になり、《あたしの顔にぺたんとくっついて》しまう。ここでも《ぺたん》が響き合っている。本書のなかでも表題作は圧巻で、坂多の詩の面白さはここに集約されていると言っても過言ではない。終わりの連四行、《おばあさん/おばあさん/あぶないですよ//あたしが呼ばれてるんだ》には、まだ現実感が残存するが、全篇を通すと透明感から不在感が存置していると感じる。《あなたの手を握ろうとしたら//ない/消えたのはそっちじゃない》(『いいさ』より)、《もう透けてみえないあたしの手のひら》(『鉛筆』より)、さっきも引用したが《とうめいにんげんになった》など、不在という認識の視座から現実を見渡すと、メタモルフォーゼが容易に可能になる。冒頭に挙げた自在さの獲得は、そういうことだったのかもしれない。


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