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2020年04月07日17:15

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詩的現代29号〈詩集・詩書時評(27)〉2/2


田中眞由美『待ち伏せる明日』(思潮社)。表層的な読みに終始するならば、清冽でリリカルな詩情に満ちた詩群であると思えるのだが、実は思弁で構成された心的根毛に秘匿されている小暗い情念が垣間見える。その正体は明瞭に語れないけれど、ニーチェのルサンチマンにも相当するかの、自然災害によって度々蒙る日本人の悲哀や畏怖といった暗黙知の、共通の枠組みとしての共感力に負っているかのようなのだ。詩集タイトルの『待ち伏せる』の語句、主体意識に換言すれば「待ち伏せられる」、その緊張感が詩群全体に張りつめている。つづく語句の『明日』も、陥穽待ち伏せる非安穏たる日常に対する身構えの姿勢であるのかもしれない。待ち伏せる当のモノとは何か、八木忠栄のように問いかけたい気もするが、何であろうと追い詰める必要はない。「待ち伏せられ」ている心的状況が明確であればそれでいいのだ。そのことが判然とする詩篇といえば表題詩篇だろう。《〈明るい〉が溢れかえり/ベルトコンベアーで運ばれてくる毎日/ゆりかごの中で思考を眠らせて/まどろんだままで一日が仕舞われる/意識不明に置き去りにされる日々》。この詩では〈明るい〉と〈暗い〉が換喩となって不条理な現実をあぶりだしている。次の『非日常の日』も同趣向の詩だ。《未明の事象は/暗いしじまのなかを/強い風に乗って/暮しのなかに/気づかれず/もぐりこんでいた//その日からは/ほんとうは/非日常の日だったというのに/(略)/非日常が/日常と/入れ換わる》(一・二連と最終連)。この詩には《めるとだうん》という語句もあり、この詩の性質を示唆している。《長方形に掘り返され/むき出しにされた土くれたちが/古い土地のなかで/ただひとつの新しさを主張しながら/白茶けて見るまに過去に置きかわる/夏は そんなふうに過ぎた》(『あの日』一連目)。この詩の静謐が《あの日》に収斂されてゆく。《明日》への身構えは、ここから始まったのだ。

橋場仁奈『半球形』(荊冠舎)。橋場の詩にながれる空疎な気怠さや、ゆったりとした視線移動の書記法の、受動的負荷の原因因子がようやく評者に明白になった気がした。これは本来からいうならば、原因因子から派生した結果としての臨床であり、言語生成だったのだ。この詩集にもまた、日本人が世代や性別を超えて共通に受傷した感性の悲痛が、個々の私性と同一海面で混ざり合うように混在して小暗く揺蕩うている情景なのだともいえるのかもしれない。そこには個的垣根が外的要因によって薙ぎ倒され取り払われてポスト自然災害の内在性をロックオンしている。慰霊の祭事の足もとの暗闇のなかでいつまでも蹲っているので、日々の本来の再生など可能だろうか。《私たちは空へかえるものと地にかえるものとに別れる/きらきらと別れ別れになって夕べにはまたかえってくる/きらきらきらときっとかえってくるそうしてときどき入れ代わる/地にかえるものと空へかえるものとに別れて別れ別れになって》(『落ちながら覚めながら』より)の、自身の肉片との《別れ》であるかの悲愁感。《赤んぼうが泣く、赤んぼうが泣く、/私が流した赤んぼう/橋の上から捨てた赤んぼう/この手に抱けなかった赤んぼう/空の彼方で雪の朝に生まれる》(『fall』より)の、未生でありかつて母胎で生きていた赤んぼうへの愛惜による自虐的空漠感。生/死の端境を頼りなくゆれた心情が底流している。書記法を指摘すれば『洗う』の九行目から最終行までの行分けから投げ遣りになったかのように句読点もなく《ひひひのよどみ》《あちちっちいさなからだ》など、意味になれない詩句で書き手の錯乱状態を言語表出している。『血と皿』や『渦巻き』、その他にも同様の書記法が散見できる。《血》と《皿》の字形は似ている。《どす黒い舌、緑色の舌、舌、しししししたした、した、た、た、たたた》の《舌》《し》《た》の音韻の活用などはまだイントロダクションでしかないが、ひらがな表記がシンタックスを逸脱して心理のゆれを適宜に描写することに適した表記法なのだということがわかる。カタカナとひらがな使用が平準化した語句を置換する思いつきが意表をついた表記法とは思えないほどに、本書の字面にある言語表記は荒寥感に満たされている。

山崎純治『アンダンテ、休止符連れて』(書肆侃侃房)。「アンダンテ」とは、イタリア語の「歩く(アンダーレ)」に由来し、音楽用語の「ゆっくり」を意味する。身体的特徴として動物は弱年ほど行動的であり、老化するほど動作は緩慢になってやがて停止を迎える。その停止少し手前が「アンダンテ」であり、「休止符」を伴うものだろう。そのことを基調として読むならばよりよく理解できる詩群だ。『鈍行列車』『バスに乗って』の同傾向の、現実味の希薄な体感と光景が濃霧に映したスクリーンのように画素数が乏しく、実感にも確固としたものに欠ける。現実味に背を向けるほど詩的濃密度はいや増すかのようだ。《幽かな声で話してきた/電話の友人を見舞うため/鈍行列車で/九州山地の奥へ向かう》姿は《分け入っても分け入っても青い山》(山頭火)とダブる。当初の目的がぼやけて、現在地に理解が届かなくなって呆然と立ち尽くす。《暮れゆく単線の一両編成/帰路の乗客で座席は占められ/ざわざわ話しているが/友人の電話のように/ほとんど聞き取れない/(略)/立つ人までいる/香典を忘れていた/(略)/もう何時間乗っているのだろう/終点は過ぎたはずなのに/山奥へ分け入ってゆく/明日は打ち合わせがあった》。《立つ人までいる》《暮れゆく単線の一両編成》も考えづらいし、《ざわざわ》と騒つく声も《聞き取れない》茫漠としているのは、光景なのか整理のつかない脳内なのかわからなくなる。この詩が見事な完結をしているのは、夢魔を振り払うかの毅然とした最後の行のためだが、何時なんどき夢魔にとりこまれてしまうかわからない危機感に、山崎詩の立脚する脆い足場があり、この脆さこそが詩なのである。

米村敏人『暮色の葉脈』(澪標)。平易・平明という読み手の評言を使っても、軽視とはまったく別次元の整った詩群がここにはある。一般的に熟成度不足とは真逆の、熟成された後に残る豊潤な味わい深い完成された平易・平明さなのだ。帯文の言葉を使うならば、地上に言葉が乱雑にあふれかえっているとすれば、地下にあるのは秘蔵された沈黙である。米村の詩は、《一本の荒縄》なのかもしれないが、その縄の内部には細いピアノ線に似た強靭なものが隠されている。クリティカル・リーディング時の、詩句の屹然とした強靭な個性の理由がそこにある。詩篇『蝉』での、《孫たち兄弟》との蝉取りの場面にしても思惟の深度と想像力がある。詩篇『影とチョーク』だと《ほぼ七十光年前の記憶/滑り台といくらかの遊具がある/小さな公園で/私は木馬に乗るのが好きだった》の、《七十光年前》は七十年や七十歳の換喩だが、いささかの違和感もない。詩篇『空の辞書』の舞台は中国の成都で、そのときの記憶を再構成して成立した詩なのだが、記憶の浅深に関わりなく米村の書く詩には刀剣のような鍛えられた技巧を超えた臨場感がある。さらにいうならば、《暮色》と《葉脈》というまったく異質な語句を結合された詩集タイトルの書き手の力業を、瞬時に理解する際に放たれる火花の美しい光彩があった。

村川京子『いつむなゝや』(本多企画)。生成以前の詩の卵は、フィールドワークである日常空間や社会的生活から蒙った受動的マトリックス空間に脈絡もなく散った断片状態で潜んでいる。それは往々にして衝撃的映像のインパクトある閃光であり、逃避的・非日常空間のイメージであったりしつつ、再現性のバイアスに往々に毒されて安易さの陥穽を免れない場合もまた多い。ラディカルでクリティークではない、コードのシンタックスや流通する平準化に依拠してしまう心性とは毅然として峻別する強靭さが足りない作品では、臨床現場から生成へ通ずるルートに適合することも叶わないのだとおもう。卵には多くのサンプルがあり、そこからいかに逸脱するかが鍵である。フレッシュでフレキシブルな卵は定型を持たず刹那的で、瞬時の衝撃現象を多面で捉える能力を有する。書き手でさえその陰影や深刻度を正確に計測することは不可能だともいえ、詩につき纏う不可解さや未到達の隔靴掻痒である不充実感は直截言語で安易に表出されてはならない。そういった意味から村川の詩は日常雑記的であるが表層に留まりつづけることはない。詩の素材に触感が足りないのも村川が言語の非物質領域にシフト完了しているせいだ。《おばあちゃん/ボクだよ/おばあちゃんがいなければ/生まれていたはずの/ボクだよ/この中はとてもいいよ》(『縄』より)では、《ボク》に生が与えられることがなかったことを示唆し、《この中》とは死者の領域を直接指呼してはいないものの方向性は示唆している。《もう痛くない/じぃんとする首をもたげると/河の童が/浅瀬に打ち上げられ/魂を抜かれたように/こちらを見ている》(『抜く』より)も、《河童》が、《魂を抜かれたように》だから、非生の側で、生者をじっと《見ている》というのだ。以上二篇は、生/死が正対した詩作品だが、《壁(のように見える)/床(かどうか わからない)/そのあいだの/幅が 伸びたり 縮んだり/するのは/いちにちを計る/物差し(に なるためだ)/ひかりが わたしを数えている》(『静謐』より)だと、非生の側に取り込まれかけており《数え》られていると感じている。書き手の意識が、生/死のあわいにあるために不明瞭・不鮮明の、臨床心理の場で言葉が編まれ、詩が生成されている。

新延拳『虫を飼い慣らす男の告白』(思潮社)は、村川の詩と比すればその立場の相違が明瞭だ。そのことがわかるのはこんな詩句だ。《死期が近づくとその人の名が鏡面にはっきりと現れるという/この国では人は死ぬ前に自らの鏡を徹底的に壊さなくてはならない/そうしないと鏡の中に魂が取り残されてあの世に行けないから/鏡はどこにいても男を映すだけではなく/男のすべてを観察し記録してきたのだ》(『鏡の裏の曠野』より)や、《私は立っている/いや並んでいるといったほうが正確なのだろう/何の列だろう/なぜ並んでいるのだろう/並んでいる人たちに秋の日が当たっていて/番号札のような模様が背中に浮かんでいる/私も順番の後にくる何かを待っていることは確かなのだが》(『集められて』一連目)。新延の立場の主たるものは、書き手自身のことが対象になっている。そのため生/死のゆらぎが顕在されない。フレキシビリティ不足になってしまうのだ。だが、そうでない詩句もある。《街角に/過ぎた時間が立っていた/そこに確かに立っていた/樟脳のかすかに匂う亡父の服の形をして》(『過ぎた時間』より)の《樟脳の(略)匂》いの形象化は実に鮮烈なメタファーだ。《カタカナのビルの片陰を/ひらがなの蝶が低く飛んでいる/カタカナのコンニチワ/ひらがなのこんにちわ/蝶が羽ばたくごとに/日ざしがゆらゆらとする》(『冬の日差しの匂いがした』一連目)の、非在の光景の言語化、さらに詩篇『ダイヤ通りということ』、『過去に帰る列車』、『空の渚に』が佳品だった。事実関係や真偽は傍らに置いて、旧国鉄に《四十年》間勤めあげ、《そろそろ定年》を迎えるに当たり、前二篇では《ダイヤ通り》という日本鉄道の良識である時刻に正確であることを軸として、《遠くを見ることは過去を見ることでもあるから/僕は過ぎ去った過去に帰れる列車を/そっとさがすことにしよう》と《遠くを見る》目で回顧する懐旧の情念と、後者では《自死した》職場の同僚S氏のことを愛情をもって描いているところ、それらの詩の言語表出が一定の距離を置いて描かれていることなどを好もしく感じた。

田中武『半結晶質群』(ぽうろの会)。一九七五年から二〇〇九年の三十四年間に四冊詩集を刊行している。本書の目次を開く。《一九九九年三月》から《二〇一〇年八月》の間の四三篇の詩が歳月を冠にして並び、三篇の補遺を連ねて屹立している。詳述せねばならない。《一九九九年三月(車にはねられた身が宙に浮いたまんま)》と、こういった形式で、年月の後に事柄の主題が付いている。既刊詩集から零れ落ちた詩篇なのだろう、最後の『二〇一〇年八月(ふるさとという名の風景に)』を除いて。凡そ半世紀書き続けて、詩集として活字に残せなかった忸怩たる思いが拾遺形式を召喚したのだ。だから本書の特徴は、各詩篇がバラバラな拾遺的であることに負っている。そうしてようやく活字化された、捨てるに忍びなかった詩群は、詩法の特徴を見事に露頭させていた。日々の思いを捉えて言語化するリリックである。《午後 ショルダーバッグの外れ易い肩で/時間の幅いっぱいに歩き/老い萎んだ姉を見舞い 葛粉とホッチキスを買う/生きていくための仕事と/生きていることの仕事を/双方こなすのはとても難しい/忘れものの探索に心の三割を赴かせ/残りを別の空の下に置いて 忘れる》(『一九九九年四月(風の日のチューリップのように)より』)、《とても鋭い寒気を空気層に挟んで/裂け目を 裂け目と感じることなく/避けたまま成長する春の裸身は/いたるところを捻れた紐で括られてぼんやり煙っている》(『二〇〇三年三月(柔らかめの飴を断つような音がして)』より)など、生活者の群衆の中にあって、言語化しづらい暗黙知を語り、実感の重みを伝えてくる詩群であった。

加藤思何理『川を遡るすべての鮭に』(土曜美術社出版販売)。本書がどんな意図でこの複層的構造を有した散文的文脈の擬物語を書かれたのか評者には理解できない。その第一は文体との齟齬である。思弁的想像力である擬物語を一冊分書けてしまう加藤の圧倒的筆力がありながら、どうして散文ではなくその多くが行分で書かれなければならなかったのか。知識でも使用語彙でも並の内蔵量ではない。しかも繊細な造作をもつ細部さえある。小説に転化・転生するのもそう難しくはないだろう。その第二は濃厚な男性誌的官能描写である。パラダイムのバイアスによってジェンダーが抑制的には書かれているが、詳細な女性器の描写等には鼻白んでしまった。詩に、散文的文脈からのアプローチが肯定的に受けとめられている風潮もあるが、評者はそれに関しては傍観者的で、積極的に肯定したい気持ちは薄い。決して主流になる書記法とは考えていないせいでもある。と、ここまでは割と批判的言辞を書き連ねてきたが、この複層的で架空性をもつ擬物語を称賛したい気持ちも同時に持っていた。集中、図らずも本書の書記構造を言い当てた詩句があるのを見たためである。《――ホテルは八階建て、一見して細長く薄っぺらい建物だけど、なかに入ってみれば迷路のごとき廊下がうねうねと続いているから、実際はどんな形状なのか解らない。外壁一面に鼠の下腹部色の大理石が貼り付けてある。まるで巨大な墓石だね。》(『31 賢者、不在であるゆえの』より)がそれで三つの面を描写している。《細長く薄っぺらい》外見、見た目に反して《迷路のごとき廊下がうねうねと続いている》の内部構造の描写、それともう一つ《外壁》の《墓石だね》の書き手の感想なのだが、《実際はどんな形状なのか解らない》という語句が《細長く薄っぺらい》外観という前言を否定してしまっている。この捩れは次のような詩句に接続している。《脳は心臓より重い。/豊かな生は死に近い。/不老は死者の特権である。/角の生えた獣はしばしば自らを傷つける。/すべての若者は泥棒であり、すべての老人は詐欺師である。/光は常に過去からのみ届く。/鳥は不在であるゆえに鳥である。/闇の過剰が光を産みだす。/自己と他者はたがいに浸透可能である。帽子を脱ぐところで靴を脱げ。/道に迷ったときは道自体を迷わせよ。/創造は不可能である。/きみ自身を発明せよ。》(『 同 』より)の格言めいた詩句と、《その猫というのは、真青な瞳のなかに時計の文字盤があるという、非常に珍しい突然変異のそれなんです。/(略)/指先でその猫の瞼をそっと押し開く。その瞬間、瞳のなかの文字盤から秒針が飛びだして、ぼくの右眼にぷすりと突き刺さってしまう》(『40 戯れのインタヴュウ』より)の、夢の描写に加藤の今後の可能性を感じたのだが、書き手には不本意だろうか。
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締切が間近になって、佐藤美樹『階』(砂子屋書房)、樋口武二『覇旅記』(詩的現代叢書37)、愛敬浩一自選詩集『真昼に』(詩的現代叢書35)、高橋英司『詩のぐるり2』(山形詩人出版部)が寄贈されてきた。残念だが次号に回さざるをえない。お許し願いたい。

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