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2020年04月07日17:10
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詩的現代29号〈詩集・詩書時評(27)〉1/2
ハングル創製とひらがな創製
二〇一九年五月一日『平成』の時代が幕を閉じ、『令和』の時代が始まった。この元号の出典は、日本最古の和歌集『万葉集』の『梅花の歌三十二首』序文、《初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す》から採られた。万葉集巻五『梅花の歌』とは、唐の長安にならい政庁を北辺にして南北に朱雀大路を走らせた条坊制を敷いた古代都市平安京・平城京に次ぐ九州・西日本の中心地大宰府政庁長官に当たる大宰帥・大伴旅人の邸宅で国司や高官を招いて梅花の宴を催した時に詠まれたもので、序文は諸説あるが主人の旅人だというのが最有力である。その際に作られた旅人の歌《わか苑に梅の花散る久方の天より雪の流れくるかも》や、三十二首の代表歌として挙げられる筑前目田氏眞人作の《春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る》など、現代にも通じる麗しく感性が瑞々しい自然詠の佳品である。太宰府市内には二十七基の万葉歌碑があるが、帰化人ともいわれる山上憶良、柿本人麻呂とともに大伴旅人らの歌は半数以上にのぼる。新元号の発表後、大宰府政庁跡や敷地内の展示館、近隣だったといわれる旅人の旧邸宅最有力の坂本八幡宮に訪れるひとが発表以来多数あって賑わっている。福岡観光の一番手である太宰府天満宮は学問の神様と崇敬される菅原道真で有名だが、道真は万葉時代より後代の人物で、文献的には大宰権帥(長官補佐役)として右大臣の要職から藤原時平の讒言によって左遷され当地で病亡している。地元譚を捕捉すると、蟄居状態で暮らしていた道真を「お気の毒に」と、近隣の老婆が手作り餅を梅の枝に結わえて差しあげたことから名物になった梅ヶ枝餅の名の由来はここにある。天満宮の一直線にのびた参道の突き当りにある道真直系の宮司の住まいでもある延寿王院(安楽寺)境内には「五卿遺跡」の石碑があって、幕末に長州藩とともに幕府転覆を画策して追放された三条実美らの公家が約三年間匿われていた間には西郷隆盛・坂本竜馬・高杉晋作らが度々訪れたという案内板が山門脇に立てられている。道真の官職は大宰権帥だが、大臣経験者の左遷ポストともいわれ大宰院外帥とも呼ばれていたらしい。私事になるが、大宰府政庁の背後に控える四王寺山(大野山)の北側麓には筆者の陋屋が建つ住宅団地があって、遺構が点在する当該山を爬行して展望台から眼下を眺望すると、白村江敗北後の防御線である水城跡や有明海側の防御拠点としての基肄城がある基山などが政庁を取り囲むように配置されていることがわかる。福岡城内にあった平和台球場の下から発見された鴻臚館(迎賓館)と大宰府政庁間は約二〇�舛如∪�庁を中心にした街区の一画にあった客館とは一直線で国道に相当する大路が走っていたらしい。また、中国などにあった城郭都市に似た羅城の一郭も最近発見されて話題になった。この《だざいふ》の漢字表記には《太》《大》の二種あって、奈良時代以前と以後の文献で《大宰府》《太宰府》と変化していたらしいのだが、昭和三十年代末九州大学鏡山教授が地名や天満宮以外は《大宰府》と表記したのをきっかけに、律令時代の役所や遺跡に関しては《大宰府》、中世以降の地名や天満宮については《太宰府》と表記するようになり、現在では《大宰府政庁跡》《太宰府市》というように使い分けられている。《宰府》という地名や一般表記もあるが、概して略称が定着したもののようである。再び話題を万葉集に戻す。歌碑は漢字かな交じりで表記されている。日本語には漢字・ひらがな・カタカナ三種とローマ字表記があって、そもそも日本に文字はなく五世紀末の遺物に初めて確認される。時代区分でいうならば古墳時代に相当する。漢字の草書体から変化したといわれるひらがな創製時にどんなドラマがあったのか、それはまたいつどこでだれが考案して全国に流布していったのか調べてもまったくわからなかった。表音漢字の草書体がひらがなに変化していったという記述を見つけただけだ。いまとなってはわからないのか、関心がまったくないのか。舶来品を模倣し改良して独自のものにする文化が日常茶飯事であるため、ひらがな創製といってもなんら特別な事象ではなかったということだろう。〇から一の創造には脳内においてコペルニクス的大転換が必要だが、一から二への変化はそのことにはるかに及ばないということだろう。漢字は紀元前奏代に始皇帝が古文(甲骨文・金石文)を基礎として篆書を制定し公式文書としたとされている。漢字はそもそも六書といって、形を模して図形化した[象形]、位置や数量を直接表している[指事]、二つ以上の漢字を組み合わせて意味を合成し独立させた[会意]、音声を表す要素と意味を表す要素を組み合わせた[形声]の四つと、原義に類似したものを他に転用した[転注]、同音の漢字を意味に関係なく転用する[仮借]の二つを合わせた六種類によって出来ている。発祥地である中国だと五千年前まで遡ることが可能であるらしい。大陸と地続きの朝鮮・韓国もそうだが、日本でも当初漢字が採用された。さらにその後、欧州の視点からは極東でしかない島国日本では、ひらがな文字が独自に発生した。これは、万葉仮名(漢字の音を借用して用いられた文字)の字音表記の草書体が変化して平安時代には万葉仮名からひらがなになったといわれている。漢字それ自体は表意文字で、ひらがなは表音文字ということになるが、漢字かな交じり文の表意と表音とを同時に使う言語は世界でも唯一日本語だけの特色で、漢字を音読みと訓読みに使い分ける慣習やルールの成立もひらがな創製の過程で生まれたのではないだろうか。それらのことはなにも文字表記に限ったことではなく歴史の諸事象が証明している。原材料が乏しい島国ゆえに創意工夫し改良を重ねて、日本独自の物品を完成させていった。これが日本人の伝統であり文化の基礎となる向上心を抱えた資質であり精神性なのだろう。源氏物語や枕草子はひらがな表記であり、当時ひらがなは女性文字、漢字は男性文字とされていた。たしかにひらがなは、武骨でダイナミックな漢字よりもはるかにしなやかで優美な女性的容姿や性質に対応していると思える。ここまでひらがなについて訥々と書いてきたのは、先日韓国王朝ドラマ『根の深い木』を観たからだ。このドラマは、朝鮮王朝最高の天才君主・世宗大王によって創製されたハングル文字の誕生にまつわる壮絶なドラマを映像化したものである。だが、こんなふうに単純に纏めて史実を年表の一頁に加えるだけならば、それぞれの時代に生きた人の身体感覚や体温や血流を奪取してしまうことになるだろう。各国々の言語は文化や伝統や歴史によって織りなされた民族性そのものである。朝鮮では十五世紀半ば(室町時代)まで漢字を用いていた。漢字の習得には膨大な歳月を費やさねばならない。両班などの特権階級で育った者でなければ学習の機会は極度に少なかっただろうし、生きることに精一杯の庶民の大部分が文盲だったのは想像に難くない。ハングル文字は、文盲の庶民が容易く文字を覚えて自らの思うところを書き記すことが可能な二八文字だけでいいという画期的な表音文字だった。そのため世宗は膨大な時を費やして創製に取り組んだ。死体の咽喉にメスを入れて発声のメカニズムを追究することすら試みた。この時代、外科手術などあるはずもなく、死者にメスを入れる行為は神仏をも恐れない悪鬼的所業以外の何物でもない狂人的思考であり行動だったと思われただろう。そうやって極秘裏に文字を完成させた後、流布する手段として創製に携わった女官らを巷間に放ち、子どもらに童歌として歌わせたりして普及に努めた。一方、当然ながらハングルの公布と流布に反対する根強い勢力があった。朝廷重臣のほとんどがそうであり、重臣のなかに潜む《宰相総裁制》を大義に掲げた密本(秘密結社)という組織もその一つだった。国家統合の基本思想である儒学に基づいてハングルは夷狄(野蛮人・未開人)文字であり、民が文字を読み書きできるようになれば国の根幹が崩壊してしまうと訴えたのである。漢字の学習にとてつもない労力を費やし科挙に合格してようやく官吏になれたことを思えば、科挙の試問と回答がハングル文字に換えられることは、官吏を目指す若者たちにとっても生きる目標を失うに等しい価値観を放擲しなければならない一大事件だった。憤り、自らの命をもって阻止しようと画策する者が次々に現れるのも当然だっただろう。現職の官吏や高官たちにとっては既得権益の喪失に相当するものでもあった。反対勢力は、いや文盲ではない知識人のほぼ全てが死を賭してハングル文字の公布・流布を阻止しようとした。そのために、民のための文字制作に共感しハングル創製に携わった王の側近や臣下や女官の多くが命を落とした。ドラマ後の史実を語れば、燕山君はハングル使用者を弾圧。世宗が設置した公的機関「正音庁」は中宗によって閉鎖された。このように簡単に短期間に、民に広まることがなかったハングル文字だったが密かに引き継がれて、一四九〇年に軍官の羅臣傑が妻に送ったハングル書簡が現存する最古のハングル書簡になって残った。世宗はハングルを文字ではなく記号と呼んだ。この記号二八文字(世宗による創製時)は、ある者は半日もあれば覚えられるといい、頭の悪い者でも三日もあれば覚えるというものだ。中国へ行けば店の看板の漢字で何屋さんかわかるが、韓国だとハングルがまったく読めず店内を覗かなければどういう店かわからない。その国の文字は、文化であり民族性そのものなのだ。翻って現代日本の詩歌におけるひらがな表記を想起するならば、池井昌樹の詩が真っ先に頭に浮かぶ。唐突だが、詩集『月下の一群』から『こもれび』の冒頭をひいてみよう。《てあしからませむすこらと／ふざけていればおもいだす／あの樹上のころ／ねてもさめてもからだはどこか／きまっておたがいふれあっていた／あのむくもりを／あれはどういう日日だったのか／どういう生の日日だったのか／(以下、略)》、これも任意でひくが『遠足』という詩をみてみよう。《あなたはやはりさきにきていて／まっかなほおでたっていました／かわいいリュックサックのなかには／あさはやくからよういした／かわいいおべんとうがにこ／まばゆいそらややまなみや／ならんではしをつかっている／ぼくらもつまっていましたが／リュックせおったあなたをおいて／ぼくはよごれたのれんをくぐり／さんざんよいつぶれたあげく／どこをどうあるいてきたのか／きがつけばみしらぬわがやで／みしらぬわがこもふたりいて／あなたはやはりさきにきていて／かわいいリュックサックの／かわいいおべんとうのしわ／まばゆいそらややまなみのしわ／ぼくのしわまで／だまってのばしているのです／だまって／あかるいほおをして》。思わず全行をひいてしまった。です・ます調の優しい口調も効果的なのかもしれないが、行末の《にこ》はひらがな表記が連続しているために、意表を突くことに成功している。ほぼ全行をひらがなにすることによってカタカナ文字の《リュックサック》や漢字表記の《日日》との差異がくっきりと明確になっている印象も加味することができていると指摘することもできるだろう。それより何よりひらがな文字にすることによって、母性にも似た温かみある情感がどこからともなく湧き出てくる気がするのも、女文字といわれていた潜在性を隠し持っているせいなのではないだろうか。谷川俊太郎だと『ことばあそびうた』『わらべうた』『みみをすます』など、大人が読んでも面白い幼少向けにわかりやすく書かれた全行ひらがな文字の詩にも深い奥行きがあるし、まどみちおの童謡の歌詞でも同様のことが指摘できるだろう。オノマトペの、意味ではなく音韻による有効性と自由度の優位性を指摘して評価したのは北川透だったし、宮沢賢治の『風の又三郎』の冒頭部である《どっどど どどうど どどうど どどう》のひらがな表記は、オノマトペ効果の実証としてあまりにも有名だ。【音喩】という言葉が頭に浮かんで調べた結果その言葉はすでにあって、漫画の効果音として使用されていた。「ドドーン」「ガシャーン」、「ドクッドクッ」「しとしとしと」等々、線描の情景に重ね塗りする効果音としてあったと理解できた。自身漫画家であり漫画批評家でもある夏目房之介の造語であるらしい。もちろん他の詩人でも、いや書き手のだれしもが、一旦漢字で表記した語彙をひらがなに書き換える場合がある。その時の心理を忖度するならば、読み手である他者との関係性を近接させたい無意識の心理によるのかもしれないし、心性の奥襞にまで浸透してくるひらがな表記の特性や優位性を、心のどこかで理解しているからなのではないだろうか。かつての女性文字VS男性文字の対立こそ時代を経るにつれて霧消したもののひらがな表記は、漢詩など男性的な野太い雰囲気とは一線を画すジェンダーの境域を無効化する感性であることを感得する。先日、天才哲学者として話題になっているマルクス・ガブリエルが、アンドロイド研究の第一人者である石黒浩とおこなった対談を読んだが、「感性(カンセイ)という言葉は英語になっている」と語った言葉にひっかかった。適当な語彙がないらしい。ということは対応する概念がないということだ。「感性」とは日本独自のものなのだろうか。そうとも思えないが例えば韓国の、文字ではなく「記号」であると語った世宗王の想定したハングルとは異質の、日本人が創製したひらがな文字とこの「感性」とが、日本人の潜在性の暗くて深い胸奥で伏流水のように通いあっている事象なのだと思う。
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十年以上前の刊行物なので書評欄でとりあげるべきではないのだが、アーサー・ビナード詩集『左右の安全』の『英語で「バケツを蹴る」というが』という作品が面白かったのでとりあげてみたい。世界各国の同類言語の併記によってイメージやニュアンスの差異を感じてもらいたい主旨の作品であった。詩句に手を加えるのはタブーだが、ただの引用だとわかりづらいのであえて恣意的に、筆者の責任の下にわかりやすく列記してみる。
ポーランド語 → カレンダーを蹴る
アルゼンチンのスペイン語→足をのばす
セルビア語 → 豚の足をのばす
イタリア語 → 皮をひきのばす
ブラジル語 → 木のスーツを着込む
南アフリカ → 幸福の猟場へ出向く
スペイン語 → 違う縄張りへ出向く
ウェールズ語 → 山頂にたどり着く
ネパール語 → レンズ豆をまきに行く
ザンビア → 仕事を終わりにする
フィリピン → 上のほうでどんちゃんやる
ハンガリー語 → 下から菫の匂いを嗅ぐ
チェコ語 → 土中で屁をこく
トルコ語 → 蹄鉄を休ませる
インド → 無限と合体
オランダ → 烏の音楽を吹く
この各国の言い替え語というか類似語・同義語とでもいう語句と同じ意味の一般的な日本語が何かといえば「息を引き取る」なのだ。この語自体《死》を言い換えた慣用語なのだが、各国のお国柄でもある《死》に対する捉え方、概念やニュアンスの差異の面白さに書き手は詩的なものを感じたので、筆者は詩作品だとは感じられなかったが、それは読み手それぞれの感受性だろう。
谷川俊太郎『幸せについて』(ナナロク社)。「本書は書き下ろしです」と記しているが、冒頭作『芝生』は、詩集『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』からの再掲である。七行だけのこんな詩だ。《そして私はいつか／どこかから来て／不意にこの芝生の上に立っていた／なすべきことはすべて／私の細胞が記憶していた／だから私は人間の形をし／幸せについて語りさえしたのだ》。たった一人裸で何ひとつ所持することなく生まれてくる《人間》の頼りなさの自覚というものは、谷川が十七歳から書きためていた処女作『二十億光年の孤独』刊行時から明確であった。この孤独の自覚は「過去が気にならない、未来も気にならない」「いま・ここ」に在る現実受容の自覚であり、それこそが「幸せの基本形」なのだ。本書には扉のような効果をもたせた手書きのアフォリズム的語句があって、やはり谷川的精神に貫かれている。《幸せを忘れている幸せ》《りんご一個…／見てるだけで幸せ》《幸せなんてコトバほんとは要らない》《ひとりの幸せ／ひとりじゃない幸せ》《大きな幸せより深い幸せ！》《幸せは時に行儀が悪い》などだ。《幸せ》という言葉は、だれもがあまりにも手軽に使うのですっかり手垢がついて十円玉ほどの重みしかないが、西洋にはラッセル、アラン、ヒルティなど、真剣に論じた『幸福論』を書いた哲学者もいた。谷川もまた、だれもが手軽に使う《幸せ》の概念と真剣に格闘した。その思考や直観を書き記したのが本書である。一番魅かれた詩篇をひいておこう。《幸という漢字は手にはめる手枷の形からきていて、たまたま手枷を外されるという思いがけない幸運つまり「僥倖」がもともとの意味だったらしい。天皇が出かけることを行幸と言うのも、それもふだんはないことだったからだろう。幸せが滅多にない珍しいことだったとすると、気軽に〈幸せはささやかがいい〉などと言っているのは、昔と違って今は「幸」がインフレーションを起こしているからかもしれない》。さすがに押さえどころを十二分に心得ている谷川らしい詩だった。
夏野雨『明け方の狙撃手』(思潮社)。このあっけらかんとした「光度と強度」はどこからくるのだろうか。あの列島を圧倒的に席巻していった自然災害を心身に大量に浴びたぼくらから、どうしてこうまで一種空疎な希望に似た無垢的明度を所有する詩群が生まれたのか当初は戸惑いを感じた。しかし視座を、ここではないどこかに仮置きできると仮定するならば何ら非難に当たらないことがわかる。夏野は同世代と同期して日本的土壌とは一定の距離を置いているのだろうと思った。本書は読み手を表層に誘う。児童書的内在性の無垢さがブレンドされているせいだ。そうして無邪気さを装い親和感をもって誘われるままに、ポスト災害後のＬＥＤ照明下のテーブルにつくように勧められる。そうするとやっと作り笑いの下の凄味がみえてくる。タイトルの不穏当さがそれである。未明の窓を少しだけ開いてファインダースコープをのぞくスナイパーの眼を所有したもう一人の彼女がいるのだ。素材の語句である時代の記憶とともに未来にむかう彼女の同世代の代弁者たる矜持をも感じた。こういう詩句がある。《記憶だけが頼りだ。重さを与え続ける時間のなかで、質量をもたないものだけが中身なのだから。あなたは言った。たとえば光だとして。中身がすべて光だとして、わたしたちそれを閉じ込めておける？ うすい箱に手をかけながら、どんなもので封をしたら、ぜったい開かない暗号になるんだろう。暗号は影なのだから、影踏みをしていけばあかるい部分にたどりつくんじゃないか。そんなことを答えながら、ほんとうは、閉じ込めてなどおきたくないとおもっていた。》(『記憶カメラと時の箱』より)。この《記憶》と《中身》、《光》と《箱》との関係性の言葉による存在感や、《三十分未来の人から／むこうからみたらわたしは／三十分過去の人で／(略)／ピストルはもう鳴っていたはずなのに／憶えていない／そもそもピストルを持っているのはわたしたちで／銃口は空を撃ち落とすためだったんじゃないか？／ってことになる／(略)／キリトリ線のない空間を／たとえば空、とするなら／そこでおしゃべりをはじめるわたしたちは／もはや鳥、と呼べなくもなく》(『イッツファイントゥディ』より)の、《キリトリ線のない空間》には《鳥》になる自由や越境する無国籍さがあった。《電話機の横／壁に留められた小さな紙を／剥ぎ取っていく／福岡／東京／茨城／サンディエゴ／ロンドン／アデレード／ベルン／台北／日本人学校の／土曜日／(略)／事象の地平面／電話機の穴にも誰何されない／ブラックホール間際では／物質は停止して見える／書かれた住所は筆跡でしかない》(『ホール』より)の連最終行の、《住所》《筆跡》架空の、どこかの住所地との無関係さは、夏野に特異な特徴であり象徴的で、もう評者らの時代の感性ではないのだと痛感させられるところのものでもあった。
二〇一九年五月一日『平成』の時代が幕を閉じ、『令和』の時代が始まった。この元号の出典は、日本最古の和歌集『万葉集』の『梅花の歌三十二首』序文、《初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す》から採られた。万葉集巻五『梅花の歌』とは、唐の長安にならい政庁を北辺にして南北に朱雀大路を走らせた条坊制を敷いた古代都市平安京・平城京に次ぐ九州・西日本の中心地大宰府政庁長官に当たる大宰帥・大伴旅人の邸宅で国司や高官を招いて梅花の宴を催した時に詠まれたもので、序文は諸説あるが主人の旅人だというのが最有力である。その際に作られた旅人の歌《わか苑に梅の花散る久方の天より雪の流れくるかも》や、三十二首の代表歌として挙げられる筑前目田氏眞人作の《春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る》など、現代にも通じる麗しく感性が瑞々しい自然詠の佳品である。太宰府市内には二十七基の万葉歌碑があるが、帰化人ともいわれる山上憶良、柿本人麻呂とともに大伴旅人らの歌は半数以上にのぼる。新元号の発表後、大宰府政庁跡や敷地内の展示館、近隣だったといわれる旅人の旧邸宅最有力の坂本八幡宮に訪れるひとが発表以来多数あって賑わっている。福岡観光の一番手である太宰府天満宮は学問の神様と崇敬される菅原道真で有名だが、道真は万葉時代より後代の人物で、文献的には大宰権帥(長官補佐役)として右大臣の要職から藤原時平の讒言によって左遷され当地で病亡している。地元譚を捕捉すると、蟄居状態で暮らしていた道真を「お気の毒に」と、近隣の老婆が手作り餅を梅の枝に結わえて差しあげたことから名物になった梅ヶ枝餅の名の由来はここにある。天満宮の一直線にのびた参道の突き当りにある道真直系の宮司の住まいでもある延寿王院(安楽寺)境内には「五卿遺跡」の石碑があって、幕末に長州藩とともに幕府転覆を画策して追放された三条実美らの公家が約三年間匿われていた間には西郷隆盛・坂本竜馬・高杉晋作らが度々訪れたという案内板が山門脇に立てられている。道真の官職は大宰権帥だが、大臣経験者の左遷ポストともいわれ大宰院外帥とも呼ばれていたらしい。私事になるが、大宰府政庁の背後に控える四王寺山(大野山)の北側麓には筆者の陋屋が建つ住宅団地があって、遺構が点在する当該山を爬行して展望台から眼下を眺望すると、白村江敗北後の防御線である水城跡や有明海側の防御拠点としての基肄城がある基山などが政庁を取り囲むように配置されていることがわかる。福岡城内にあった平和台球場の下から発見された鴻臚館(迎賓館)と大宰府政庁間は約二〇�舛如∪�庁を中心にした街区の一画にあった客館とは一直線で国道に相当する大路が走っていたらしい。また、中国などにあった城郭都市に似た羅城の一郭も最近発見されて話題になった。この《だざいふ》の漢字表記には《太》《大》の二種あって、奈良時代以前と以後の文献で《大宰府》《太宰府》と変化していたらしいのだが、昭和三十年代末九州大学鏡山教授が地名や天満宮以外は《大宰府》と表記したのをきっかけに、律令時代の役所や遺跡に関しては《大宰府》、中世以降の地名や天満宮については《太宰府》と表記するようになり、現在では《大宰府政庁跡》《太宰府市》というように使い分けられている。《宰府》という地名や一般表記もあるが、概して略称が定着したもののようである。再び話題を万葉集に戻す。歌碑は漢字かな交じりで表記されている。日本語には漢字・ひらがな・カタカナ三種とローマ字表記があって、そもそも日本に文字はなく五世紀末の遺物に初めて確認される。時代区分でいうならば古墳時代に相当する。漢字の草書体から変化したといわれるひらがな創製時にどんなドラマがあったのか、それはまたいつどこでだれが考案して全国に流布していったのか調べてもまったくわからなかった。表音漢字の草書体がひらがなに変化していったという記述を見つけただけだ。いまとなってはわからないのか、関心がまったくないのか。舶来品を模倣し改良して独自のものにする文化が日常茶飯事であるため、ひらがな創製といってもなんら特別な事象ではなかったということだろう。〇から一の創造には脳内においてコペルニクス的大転換が必要だが、一から二への変化はそのことにはるかに及ばないということだろう。漢字は紀元前奏代に始皇帝が古文(甲骨文・金石文)を基礎として篆書を制定し公式文書としたとされている。漢字はそもそも六書といって、形を模して図形化した[象形]、位置や数量を直接表している[指事]、二つ以上の漢字を組み合わせて意味を合成し独立させた[会意]、音声を表す要素と意味を表す要素を組み合わせた[形声]の四つと、原義に類似したものを他に転用した[転注]、同音の漢字を意味に関係なく転用する[仮借]の二つを合わせた六種類によって出来ている。発祥地である中国だと五千年前まで遡ることが可能であるらしい。大陸と地続きの朝鮮・韓国もそうだが、日本でも当初漢字が採用された。さらにその後、欧州の視点からは極東でしかない島国日本では、ひらがな文字が独自に発生した。これは、万葉仮名(漢字の音を借用して用いられた文字)の字音表記の草書体が変化して平安時代には万葉仮名からひらがなになったといわれている。漢字それ自体は表意文字で、ひらがなは表音文字ということになるが、漢字かな交じり文の表意と表音とを同時に使う言語は世界でも唯一日本語だけの特色で、漢字を音読みと訓読みに使い分ける慣習やルールの成立もひらがな創製の過程で生まれたのではないだろうか。それらのことはなにも文字表記に限ったことではなく歴史の諸事象が証明している。原材料が乏しい島国ゆえに創意工夫し改良を重ねて、日本独自の物品を完成させていった。これが日本人の伝統であり文化の基礎となる向上心を抱えた資質であり精神性なのだろう。源氏物語や枕草子はひらがな表記であり、当時ひらがなは女性文字、漢字は男性文字とされていた。たしかにひらがなは、武骨でダイナミックな漢字よりもはるかにしなやかで優美な女性的容姿や性質に対応していると思える。ここまでひらがなについて訥々と書いてきたのは、先日韓国王朝ドラマ『根の深い木』を観たからだ。このドラマは、朝鮮王朝最高の天才君主・世宗大王によって創製されたハングル文字の誕生にまつわる壮絶なドラマを映像化したものである。だが、こんなふうに単純に纏めて史実を年表の一頁に加えるだけならば、それぞれの時代に生きた人の身体感覚や体温や血流を奪取してしまうことになるだろう。各国々の言語は文化や伝統や歴史によって織りなされた民族性そのものである。朝鮮では十五世紀半ば(室町時代)まで漢字を用いていた。漢字の習得には膨大な歳月を費やさねばならない。両班などの特権階級で育った者でなければ学習の機会は極度に少なかっただろうし、生きることに精一杯の庶民の大部分が文盲だったのは想像に難くない。ハングル文字は、文盲の庶民が容易く文字を覚えて自らの思うところを書き記すことが可能な二八文字だけでいいという画期的な表音文字だった。そのため世宗は膨大な時を費やして創製に取り組んだ。死体の咽喉にメスを入れて発声のメカニズムを追究することすら試みた。この時代、外科手術などあるはずもなく、死者にメスを入れる行為は神仏をも恐れない悪鬼的所業以外の何物でもない狂人的思考であり行動だったと思われただろう。そうやって極秘裏に文字を完成させた後、流布する手段として創製に携わった女官らを巷間に放ち、子どもらに童歌として歌わせたりして普及に努めた。一方、当然ながらハングルの公布と流布に反対する根強い勢力があった。朝廷重臣のほとんどがそうであり、重臣のなかに潜む《宰相総裁制》を大義に掲げた密本(秘密結社)という組織もその一つだった。国家統合の基本思想である儒学に基づいてハングルは夷狄(野蛮人・未開人)文字であり、民が文字を読み書きできるようになれば国の根幹が崩壊してしまうと訴えたのである。漢字の学習にとてつもない労力を費やし科挙に合格してようやく官吏になれたことを思えば、科挙の試問と回答がハングル文字に換えられることは、官吏を目指す若者たちにとっても生きる目標を失うに等しい価値観を放擲しなければならない一大事件だった。憤り、自らの命をもって阻止しようと画策する者が次々に現れるのも当然だっただろう。現職の官吏や高官たちにとっては既得権益の喪失に相当するものでもあった。反対勢力は、いや文盲ではない知識人のほぼ全てが死を賭してハングル文字の公布・流布を阻止しようとした。そのために、民のための文字制作に共感しハングル創製に携わった王の側近や臣下や女官の多くが命を落とした。ドラマ後の史実を語れば、燕山君はハングル使用者を弾圧。世宗が設置した公的機関「正音庁」は中宗によって閉鎖された。このように簡単に短期間に、民に広まることがなかったハングル文字だったが密かに引き継がれて、一四九〇年に軍官の羅臣傑が妻に送ったハングル書簡が現存する最古のハングル書簡になって残った。世宗はハングルを文字ではなく記号と呼んだ。この記号二八文字(世宗による創製時)は、ある者は半日もあれば覚えられるといい、頭の悪い者でも三日もあれば覚えるというものだ。中国へ行けば店の看板の漢字で何屋さんかわかるが、韓国だとハングルがまったく読めず店内を覗かなければどういう店かわからない。その国の文字は、文化であり民族性そのものなのだ。翻って現代日本の詩歌におけるひらがな表記を想起するならば、池井昌樹の詩が真っ先に頭に浮かぶ。唐突だが、詩集『月下の一群』から『こもれび』の冒頭をひいてみよう。《てあしからませむすこらと／ふざけていればおもいだす／あの樹上のころ／ねてもさめてもからだはどこか／きまっておたがいふれあっていた／あのむくもりを／あれはどういう日日だったのか／どういう生の日日だったのか／(以下、略)》、これも任意でひくが『遠足』という詩をみてみよう。《あなたはやはりさきにきていて／まっかなほおでたっていました／かわいいリュックサックのなかには／あさはやくからよういした／かわいいおべんとうがにこ／まばゆいそらややまなみや／ならんではしをつかっている／ぼくらもつまっていましたが／リュックせおったあなたをおいて／ぼくはよごれたのれんをくぐり／さんざんよいつぶれたあげく／どこをどうあるいてきたのか／きがつけばみしらぬわがやで／みしらぬわがこもふたりいて／あなたはやはりさきにきていて／かわいいリュックサックの／かわいいおべんとうのしわ／まばゆいそらややまなみのしわ／ぼくのしわまで／だまってのばしているのです／だまって／あかるいほおをして》。思わず全行をひいてしまった。です・ます調の優しい口調も効果的なのかもしれないが、行末の《にこ》はひらがな表記が連続しているために、意表を突くことに成功している。ほぼ全行をひらがなにすることによってカタカナ文字の《リュックサック》や漢字表記の《日日》との差異がくっきりと明確になっている印象も加味することができていると指摘することもできるだろう。それより何よりひらがな文字にすることによって、母性にも似た温かみある情感がどこからともなく湧き出てくる気がするのも、女文字といわれていた潜在性を隠し持っているせいなのではないだろうか。谷川俊太郎だと『ことばあそびうた』『わらべうた』『みみをすます』など、大人が読んでも面白い幼少向けにわかりやすく書かれた全行ひらがな文字の詩にも深い奥行きがあるし、まどみちおの童謡の歌詞でも同様のことが指摘できるだろう。オノマトペの、意味ではなく音韻による有効性と自由度の優位性を指摘して評価したのは北川透だったし、宮沢賢治の『風の又三郎』の冒頭部である《どっどど どどうど どどうど どどう》のひらがな表記は、オノマトペ効果の実証としてあまりにも有名だ。【音喩】という言葉が頭に浮かんで調べた結果その言葉はすでにあって、漫画の効果音として使用されていた。「ドドーン」「ガシャーン」、「ドクッドクッ」「しとしとしと」等々、線描の情景に重ね塗りする効果音としてあったと理解できた。自身漫画家であり漫画批評家でもある夏目房之介の造語であるらしい。もちろん他の詩人でも、いや書き手のだれしもが、一旦漢字で表記した語彙をひらがなに書き換える場合がある。その時の心理を忖度するならば、読み手である他者との関係性を近接させたい無意識の心理によるのかもしれないし、心性の奥襞にまで浸透してくるひらがな表記の特性や優位性を、心のどこかで理解しているからなのではないだろうか。かつての女性文字VS男性文字の対立こそ時代を経るにつれて霧消したもののひらがな表記は、漢詩など男性的な野太い雰囲気とは一線を画すジェンダーの境域を無効化する感性であることを感得する。先日、天才哲学者として話題になっているマルクス・ガブリエルが、アンドロイド研究の第一人者である石黒浩とおこなった対談を読んだが、「感性(カンセイ)という言葉は英語になっている」と語った言葉にひっかかった。適当な語彙がないらしい。ということは対応する概念がないということだ。「感性」とは日本独自のものなのだろうか。そうとも思えないが例えば韓国の、文字ではなく「記号」であると語った世宗王の想定したハングルとは異質の、日本人が創製したひらがな文字とこの「感性」とが、日本人の潜在性の暗くて深い胸奥で伏流水のように通いあっている事象なのだと思う。
＊
十年以上前の刊行物なので書評欄でとりあげるべきではないのだが、アーサー・ビナード詩集『左右の安全』の『英語で「バケツを蹴る」というが』という作品が面白かったのでとりあげてみたい。世界各国の同類言語の併記によってイメージやニュアンスの差異を感じてもらいたい主旨の作品であった。詩句に手を加えるのはタブーだが、ただの引用だとわかりづらいのであえて恣意的に、筆者の責任の下にわかりやすく列記してみる。
ポーランド語 → カレンダーを蹴る
アルゼンチンのスペイン語→足をのばす
セルビア語 → 豚の足をのばす
イタリア語 → 皮をひきのばす
ブラジル語 → 木のスーツを着込む
南アフリカ → 幸福の猟場へ出向く
スペイン語 → 違う縄張りへ出向く
ウェールズ語 → 山頂にたどり着く
ネパール語 → レンズ豆をまきに行く
ザンビア → 仕事を終わりにする
フィリピン → 上のほうでどんちゃんやる
ハンガリー語 → 下から菫の匂いを嗅ぐ
チェコ語 → 土中で屁をこく
トルコ語 → 蹄鉄を休ませる
インド → 無限と合体
オランダ → 烏の音楽を吹く
この各国の言い替え語というか類似語・同義語とでもいう語句と同じ意味の一般的な日本語が何かといえば「息を引き取る」なのだ。この語自体《死》を言い換えた慣用語なのだが、各国のお国柄でもある《死》に対する捉え方、概念やニュアンスの差異の面白さに書き手は詩的なものを感じたので、筆者は詩作品だとは感じられなかったが、それは読み手それぞれの感受性だろう。
谷川俊太郎『幸せについて』(ナナロク社)。「本書は書き下ろしです」と記しているが、冒頭作『芝生』は、詩集『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』からの再掲である。七行だけのこんな詩だ。《そして私はいつか／どこかから来て／不意にこの芝生の上に立っていた／なすべきことはすべて／私の細胞が記憶していた／だから私は人間の形をし／幸せについて語りさえしたのだ》。たった一人裸で何ひとつ所持することなく生まれてくる《人間》の頼りなさの自覚というものは、谷川が十七歳から書きためていた処女作『二十億光年の孤独』刊行時から明確であった。この孤独の自覚は「過去が気にならない、未来も気にならない」「いま・ここ」に在る現実受容の自覚であり、それこそが「幸せの基本形」なのだ。本書には扉のような効果をもたせた手書きのアフォリズム的語句があって、やはり谷川的精神に貫かれている。《幸せを忘れている幸せ》《りんご一個…／見てるだけで幸せ》《幸せなんてコトバほんとは要らない》《ひとりの幸せ／ひとりじゃない幸せ》《大きな幸せより深い幸せ！》《幸せは時に行儀が悪い》などだ。《幸せ》という言葉は、だれもがあまりにも手軽に使うのですっかり手垢がついて十円玉ほどの重みしかないが、西洋にはラッセル、アラン、ヒルティなど、真剣に論じた『幸福論』を書いた哲学者もいた。谷川もまた、だれもが手軽に使う《幸せ》の概念と真剣に格闘した。その思考や直観を書き記したのが本書である。一番魅かれた詩篇をひいておこう。《幸という漢字は手にはめる手枷の形からきていて、たまたま手枷を外されるという思いがけない幸運つまり「僥倖」がもともとの意味だったらしい。天皇が出かけることを行幸と言うのも、それもふだんはないことだったからだろう。幸せが滅多にない珍しいことだったとすると、気軽に〈幸せはささやかがいい〉などと言っているのは、昔と違って今は「幸」がインフレーションを起こしているからかもしれない》。さすがに押さえどころを十二分に心得ている谷川らしい詩だった。
夏野雨『明け方の狙撃手』(思潮社)。このあっけらかんとした「光度と強度」はどこからくるのだろうか。あの列島を圧倒的に席巻していった自然災害を心身に大量に浴びたぼくらから、どうしてこうまで一種空疎な希望に似た無垢的明度を所有する詩群が生まれたのか当初は戸惑いを感じた。しかし視座を、ここではないどこかに仮置きできると仮定するならば何ら非難に当たらないことがわかる。夏野は同世代と同期して日本的土壌とは一定の距離を置いているのだろうと思った。本書は読み手を表層に誘う。児童書的内在性の無垢さがブレンドされているせいだ。そうして無邪気さを装い親和感をもって誘われるままに、ポスト災害後のＬＥＤ照明下のテーブルにつくように勧められる。そうするとやっと作り笑いの下の凄味がみえてくる。タイトルの不穏当さがそれである。未明の窓を少しだけ開いてファインダースコープをのぞくスナイパーの眼を所有したもう一人の彼女がいるのだ。素材の語句である時代の記憶とともに未来にむかう彼女の同世代の代弁者たる矜持をも感じた。こういう詩句がある。《記憶だけが頼りだ。重さを与え続ける時間のなかで、質量をもたないものだけが中身なのだから。あなたは言った。たとえば光だとして。中身がすべて光だとして、わたしたちそれを閉じ込めておける？ うすい箱に手をかけながら、どんなもので封をしたら、ぜったい開かない暗号になるんだろう。暗号は影なのだから、影踏みをしていけばあかるい部分にたどりつくんじゃないか。そんなことを答えながら、ほんとうは、閉じ込めてなどおきたくないとおもっていた。》(『記憶カメラと時の箱』より)。この《記憶》と《中身》、《光》と《箱》との関係性の言葉による存在感や、《三十分未来の人から／むこうからみたらわたしは／三十分過去の人で／(略)／ピストルはもう鳴っていたはずなのに／憶えていない／そもそもピストルを持っているのはわたしたちで／銃口は空を撃ち落とすためだったんじゃないか？／ってことになる／(略)／キリトリ線のない空間を／たとえば空、とするなら／そこでおしゃべりをはじめるわたしたちは／もはや鳥、と呼べなくもなく》(『イッツファイントゥディ』より)の、《キリトリ線のない空間》には《鳥》になる自由や越境する無国籍さがあった。《電話機の横／壁に留められた小さな紙を／剥ぎ取っていく／福岡／東京／茨城／サンディエゴ／ロンドン／アデレード／ベルン／台北／日本人学校の／土曜日／(略)／事象の地平面／電話機の穴にも誰何されない／ブラックホール間際では／物質は停止して見える／書かれた住所は筆跡でしかない》(『ホール』より)の連最終行の、《住所》《筆跡》架空の、どこかの住所地との無関係さは、夏野に特異な特徴であり象徴的で、もう評者らの時代の感性ではないのだと痛感させられるところのものでもあった。
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