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2020年04月07日16:59

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詩的現代28号〈詩集・詩書時評(26)〉1/2

           詩論と詩人論をウロボロスの蛇に擬して
 詩のクリティカル・リーディングにアプローチを試みるさい、大別すれば詩論系と詩人論系に分割できる。詩論とは厳密にいえば現代に至るまで《詩とは何か》の直截的な論理展開によって原理的に定立すべく言語成立の諸要素から捕捉しようとする営為だった。それは遠く古代ギリシヤの、西洋最大の哲学者の一人であるアリストテレスにまで遡ることができるだろう。その「万学の祖」である彼の文学観によれば創作の基本的原理は言語を使用してのミメーシス(模倣・再現)であり、また文学作品受容の目的はカタルシス(精神の浄化)であるという。使用されている単語や語彙、調子、旋律の様態、対象となるひとや物の特徴、悲・喜劇の課題、語りの間接会話か語らない直接会話、再現の手法などによってジャンル分けできるという。抒情詩や叙事詩よりも上位に位置づける悲劇(劇詩)の要素をプロット、キャラクター、テーマ、メロディ、スペクタクルとともに語法、さらに加えて急転(どんでん返し)、認知・発見、錯誤をあげて、いま読み返しても網羅的であり書き手側と読み手側の本質にまで肉迫しており、紀元前三〇〇年以上前の哲学者の言説としては実に文学のさまざまな要素を巧みに掬っているとおもう。詩論は、時代のパラダイムに抗いながらも影響を浴びてメタファとフォルムを変化させながら、言語そのものにアプローチを試みたことは、近代詩人である中原中也の「名辞以前の世界」という言表や萩原朔太郎『詩の原理』を読むだけでも納得のいくことだろうし、言語芸術の一潮流もここから派生したのだとおもう。一方の詩人論とは、書き手の私史から抽出・濾過したものという捉え方の傾向があり、『あとがき』や文脈上のショッキングな出来事から推量して、書き手のコアにある事柄を中心にクリティカル・リーディングを試みる。つまり書かれた詩句の誇張やフィクショナリティを想定した後の残渣から派生したであろう情動を汲み取って読むのだ。もちろん厳密に分割することが不可能なほど錯綜した部位を目の当たりにすることもある。具体的に書かれた詩の傾向に即して言及するならば、詩のエクリチュールそのものをテーマとして書かれる詩がある。詩と詩論とは車の両輪だから、詩に影響された詩論、詩論に影響された詩というのもいつの時代でも避けようがなく存在する。同音異語の《死》もまた《詩》に近接している趣がある。詩と死とではまったく違う、当然のことだ。詩は神や悪魔や地球から遠く離れた宇宙の最果てみたいに主体にとっては代替が効かない見ることができないものだ。死には、多様性と共通性の両方があって、書き手と対象である死者との情動の濃度にも大差が生じる。血族や肉親であるならなおさら非日常的になる。社会的事象や史実や体験を対象化して本質に肉薄し言語によってフィクショナルに血肉化したリデフォルメしたものもあろう。叙景を心象風景的に捉えた抒情詩もあるが、やはりインパクトを与え印象を深めるのも、詩の理知性よりも死の情動性であるだろう。詩句の未・成熟にかかわらず思わず知らず書いてしまう詩の卵もそこにあって、日本語の豊饒な土壌と太く繋留され伏流している通路があるに違いない。平穏な平時の流通・消費言語や規範的語法に緊縛された言語を使用するならば、詩とは呼べない散文化された代物に堕す恐れがあるが、非日常的な情動や固着した理念に疑義をもって近接するとともに、原理主義的に言語スタイルや文体、語法、語用法を尖鋭化させメタファ化するなど、修辞的技法に書き手の神経熱量は費やされる。このようにクリティカル・リーディングは唯一のアプローチで事足りるものではないことがわかる。詩という結実をクリティカル・リーディングすることは、クリティカル・シンキングから退避することはできないだろう。筆者はときに詩そのものの構成要素である言語規範や語用ルールやスタイルを進化論的に語ってしまうこともあるが、多くは詩人論を思わず語ってしまう。本欄が《時評》という社会事象での大衆の一人としての詩人を扱う意識で書き継いでいることに理由の一端があるが、そのことより生得的に詩が生成されるマトリツクスを最重要な要素として注視しているからに他ならない。男女や家族や対人関係などの意識・心理・情動などは、社会的事象や史実からは遠い地点にあるかもしれないが往々にして詩はそこに立脚していることが多い。パラダイムや社会制度、政治・経済、思想、宗教、イデオロギー、流行などの社会思潮や潮流に対して詩は、受動的であっても能動的になり難いことで社会的に無価値というわけではなく、情動や感性といったひとの行動を暗黙裡に左右する、精神の底部にダイレクトに訴えかける場合がある程度に有効性や有用性は認められるだろう。
 さて先日、服部真理子歌集『遠くの敵や硝子を』所収の短歌三首に触れる機会があった。清新で明度のある鮮やかな作風にも魅かれたが、採りあげていたコラムの書き手である匿名Mの文体やロジックに興味をひかれた。Mがだれなのかすぐにわかったからである。知人で同世代の井上瑞貴だ。詩集『星々の冷却』でH氏賞候補になり、詩界に若干その名を知られたかもしれないが、ずっと九州を拠点に話題性に乏しく、孤立することに頓着しない性格のため、ほぼ無名のまま埋もれていた。山本哲也や柴田基典は同候補として名はあがったが受賞者は一丸章一人だった九州在住の受賞者がある時期、本多寿、鍋島幹夫、龍秀美、杉谷昭人と立て続けに輩出したことがあった。ちょうどそのころ、杉谷と詩の考え方で意見を異にする井上瑞貴との対立が、地方紙の文化欄で交互に掲載されてちょっとした文学論争が起こった。主流VS反主流でも、中央VS地方でもなく詩の本質論に、掲載した新聞の文化部では興味をそそられその名を刻印されていたのかもしれない。井上は愛知県生まれで、九州大学卒業後九州電力入社、いく年在籍していたのかは知らないが退社した後システムプログラマーとして忙しく飛び回っていた。この孤高の論客でもある詩人は北川透+山本哲也《九》の創刊同人にはなっても二人とは相容れないものを有しており、異彩を放っていた。繊細な抒情精神の持ち主でありながら譲ることを知らない頑固一徹な面があり、独特のロジックで相手を煙に巻くのを得意気にする片意地なところが、書き手としては特異な文体を生成する原動力にもなっていた。そんな井上瑞貴の文体が筆者に分からないはずがないのだ。本コラムでもそのロジックの力感は唸らせるに十分なものがあった。まず、冒頭に触れた短歌一首に触れて、《缶詰の桃にちいさな窪みあり人がまなざし休めるための》の《まなざし》に「立ち止まって」次のように語る。
  〈まなざし〉というのは私たちが自身の内部にどうし
  ても閉じ込めておくことができない情動の、精神の矢
  である。それは終わりない流出だが、その流出だけが
  私たちを結ぶ可能性でもある。そして、ふつう私たち
  は目を休めることはできてもまなざしを休めることは
  できない。ここでは「まなざされたもの」としての桃
  の窪みがもたらすやさしい休息が物語られている。/
  まなざしを委ねる受動性のなんという美しさだろうと
  私たちは思う。モノを見ることはあらかじめ自分がそ
  こに置いたモノを見ることではないし、モノ自身に化
  身することでもない。モノとの刹那的な繋留によって
  時間を停めることだった。
 と。つまりここでの〈まなざし〉を短絡的に書き記すならば、「情動の、精神の矢」であると言う。これを通常の単語的意味で言うなら、物を見る側の表情や姿勢を表わすニュアンスとして使われている。Mが特異なのは、そこに留まらずに、〈まなざし〉を「情動の、精神の矢」の「終わりない流出」であり、それこそが書き手と読み手である「私たちを結ぶ可能性」であると、さらにクリティカル・リーディングの刃を差し入れるところに特徴がある。刃先は進む。「ふつう私たちは目を休めることはできてもまなざしを休めることはできない」は恣意的な感受性で普遍性はないとおもうのだが、その恣意性を断定に置換するこの力業にもMの特徴と依怙地さが露頭していて、麻薬的であり魔的なのである。「まなざされたもの」という対象物に視座アングルをパンさせて「桃の窪み」にピントをあわせ、「やさしい休息」に「物語」を収斂させこのように締めるのだ。「モノとの刹那的な繋留によって時間を停めることだった」と。「まなざし」のなんと美しい「繋留」だろう。次に採りあげるのは《雪の音につつまれるローソンでスプーンのことを二回訊かれる》だ。Mはこの歌をこう語る。
  もしもこの歌を始まりと終わりがある出来事として読
  むと笑える歌である。始まりと終わりを見るのはただ
  の見物人だから。でももしもこの歌を停止した時間の
  中でとらえるとどうだろう。すこし悲しい安らぎの永
  遠が見えてくる。見つめない幸福、聞き入らない幸福、
  意見をもたない幸福という私たちの最後の休息が見え
  てくる。
 つまりMは、《ローソン》内の出来事を三つの視座でクリティカル・リーディングしている。《訊かれる》当事者の視座、「見物人」の視座、《ローソン》の建物の外側=作品の読み手の視座の三つだ。当事者の視座では分からないが、「見物人」の視座からは「笑える歌」、「停止した時間の中でとらえる」という読み手の視座だと「すこし悲しい安らぎの永遠が見えてくる」と読む。同時にそれを「幸福」の基準を捉えてみると「見つめない幸福」、「聞き入らない幸福」、「意見をもたない幸福」の別になって、《雪の音につつまれるローソン》という「私たちの最後の休息が見えてくる」ことになる。クリティカル・リーディングとはこのように、読みの刃先がそれ以上に届かない箇所にまで届かせなければならないだろう。この短歌を詩人論的に私史から読み解こうとするならば多くのことは不明のままだ。Mのこの評言は「まなざし」から始まり「繋留」を経て「最後の休息」で着地している。ここで「まなざし」は言語サイドからクリティカル・シンキングされているが、日常的な社会生活が透けて見えている。歌集一冊分の短歌でもっと多くの日常が散見できて、書き手の私史の一端に連なるかもしれない。つまりこう推量することはできまいか、詩論は詩人の尾を咥え、詩人論は詩論の尾を咥えている。ウロボロスの蛇的関係にあるのではないかと。コラムという形式上の規定から省かれているが三番目の短歌も引いておこう。《おびただしい黒いビーズを刺繍する死よその歌を半音上げよ》。《おびただしい黒いビーズ》を《刺繍する》が《死》のイメージを召喚して、《歌》という死が免除された形式のものと対比効果を生んでいる。そのうえでこの二つの関係性を、《半音上げよ》と表出する、この感覚の鋭敏さに読み手は先進的でラディカル、瑞々しい感受性すら帯びるこの歌に、情動を揺さぶられるのではないだろうか。
          *
浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』(弦書房)は、極論すれば【女性詩】のカテゴリー(そう仮定して)に分類することができる。特徴をいえば、感受性を基調にして受動態的感性を主要素とし、【男性詩】のようには能動態にならず対極に位置する。歌無子というペンネーム自体、歌わないという意味ではなく詩を書くことに反定立して受動態的感性の世界が、ともすると自傷行為とも酷似した詩的世界を形成している。本書でいうならば、【女性詩】のエモーショナルな特徴をよく言表する《物語》のコンシェルジュ役として「ギギ」と名乗る「子」の誕生を待って書記行為は開始される。『水で満たされたクーラーボックスから/ほんの少し顔をだして/「ギギ」だと名乗った/重い扉を開けるときに響くこの音を気に入っていると言った/いつも冷たいからだをしているこの子が/どうやら唯一の相棒らしい/(略)/それは/「さみしい」/と言いつづけることにあきあきした少女が/世界中を吸いこもうとしている音だった』。(第一夜 ギギの出現)。「ギギ」は主人公でも語り手である主体でもなく「相棒」であって、「ギギ」という設定された「相棒」の誕生からはじまる物語に現実のアクチュアリティを映し出している。「ギギ」という「重い扉」を開いて、母子の誕生と書く主体と詩作品との誕生を合わせ鏡にしている。この「ギギ」と作品の誕生とを指さして筆者は、【女性詩】だと指摘したのだ。この部分の引用で気になる詩句は『世界中を吸いこもうとしている』という箇所だ。空っぽのケースの役目である受動の器に見知らぬ世界を『吸いこもう』と能動的になる。この能動態も受動態と表裏一体であり、比重は圧倒的に受動的であるから、こんな詩句が書きつけられたりもする。『最初から気持ちいいくらい世界はこなごなだったから今/わたしは新月のようにうらがえしにされサミシヌマに沈/(略)/鍋から砂があふれてきて/足さきから埋め尽くされてゆく』(第二夜 ミズカキクダサイ)。第三夜になると『殺し方は簡単です』をキーワードにして固有名詞が裁断された詩句が現出してくる。『ビゼーのメヌ…ット』『フォ…レのシシ…エ ヌ』『バッ…の平…律ク ヴィ ア曲 第…巻 一…』といった具合に「…」や「 」に語句が置換されて殺され方が明示される。『砂でできたわたし』であり『わたしは殺された』(第四夜 ハルナミノナミ)わけなので、日本語の慣用的語用が錯乱する。『波こわれますました/誰にも気づかられないときらで/きづかれるれないうつなに』(同)と語法的にも混乱を召喚して誤法すら許諾してしまう。そんな錯乱が、ついには自傷行為も引き寄せる。これらの危うい詩は、物語的であり、劇詩でもあって、現代社会を風刺し、われわれの危機意識を痛く刺激する。【女性詩】だといったのは差別的ではなく差異を顕わにして、女性性の特徴である柔構造のしたたかな強さを指摘したかったのだ。
新保啓『岬の向こうに』(詩的現代叢書33)は、安定した詩法で貫かれている。『岬の向こう』の世界とは未知で未見な詩の世界のことを示唆している。新保にとっての詩作とは、見えない場所にある未知なるものを素手で探り当てる行為なのではないだろうか。素手が言葉であり詩句である。表題作がそのことを表出している。《岬の向こうに/小さな町がある/町は今 深々と/雨に濡れているだろう//今年の夏は/たくさんの線香をたいた/見送った夜汽車の/数も多かった/いくつもの旅/いくつもの物語/潮の匂いのする橋を/何度も往復した/深く川と海が交じりあっている/橋の下/小石を拾って投げた/水面を小石が通り抜け/三度 水を切って/消えた//岬の向こうに/小さな町がある/いつもそう思っていた/五十年経っても/町は 深々と/雨に濡れているだろう//あゝ 衝撃的な/潮の匂いよ/私は小石を拾って投げた/岬は雨にけぶり/風を流し/夥しい潮を吸った/夥しい魚を吐いた/あの岬の向こうに/果てしなく 小さな町がある》。切ない光景が幻のように現出している。『岬の向こう』にある、《五十年経っても》《雨に濡れている》《小さな町》とは実在する《町》ではなく、《雨》という歳月に打たれつづけ、《いくつもの旅/いくつもの物語》を重ね、《夥しい潮を吸った/夥しい魚を吐いた》、メタファに置換された日常の日々の経験知の総和からイメージし輪郭を与えた実在する《橋》と実在・非在相半ばする場所に位置する『岬』の『向こう』にあって、しかも《果てしな》く手の届かない《小さな町》なのであり、同時に新保の思念に実在する理想郷的な磁場としての詩の代替風景である。もう一つ実感的な手ざわりのある思念として次のようなものもある。《大人も子供も/ききとして見えます/私達の喜びの大部分は/春を待つ心が占めています/のこりは/何が起こるか分からない/不安です》(『海と空のはじまり』から)、《その場所に/生まれたばかりの/白い雲が/いた/(略)/「時」はそこから始まった》(『その場所に』から)の両詩篇でさへ、視線の射程は遠くまで伸びていた。
堤美代『草の耳』(詩的現代叢書32)は、前作と同様に一行詩として編まれており、やはり戸惑いの気分が沸いて慣れることがない。この形式に疑問を抱いているせいだ。詩には本来形式がない。個別のスタイルこそあっても七五調やソネットの形姿やリズム感すら失って、あまりの自由さに不自由を感じるという逆転現象すらおこる場合もある。そんな状況を踏まえて定型論や連詩が出現したりした。一行詩も定型に分類できるだろうし、筆者も否定的にとらえているわけではない。ただ短詩系文学には俳句、短歌、川柳があり、無季や自由律の形式にとらわれない流派もあって、俳句なら主に叙景、短歌なら情感、川柳ならユーモアと得意とする領域がある。では一行詩のバックボーンはなんだろう。やはり詩の真髄である見えないものの示唆や越境時の愉楽、真情へのまなざしや思念の矢などであろうか。本書を通読すると狙いはそうだろう。再度通読すると面白いものも見えてくる。見落としがあるかもしれない。あくまでも直観でチェックしたものだけを拾ってみる。
 ・風草の眼の穴より蝶生まれる
 ・近代とは何ぞ。婆が荒畑鋤くことか
 ・夕焼けが橋を焼いてしまった戻れない
 ・巻爪の土塊掘れば父の地下足袋
 ・弟ははや候鳥なりしか桜北上
 ・かたつぶり誰もが君のそとがわにいる
 ・いねんかい いねえよ さっき白亜紀に行った
 こうして引用してみると、書き手の語彙によって嗜好がわかる、というより読み手の嗜好が露見されるリトマス紙におもえてくる。じっくりこの引用した詩篇を味わってみるとじつに美味なこともわかってくる。《近代》《荒畑鋤くこと》、《かたつぶり》《君のそとがわ》、《いねんかい》《白亜紀に行った》の意表性、《風草の眼》《穴より蝶》、《夕焼け》《橋》《焼いて》《戻れない》《巻爪》《土塊》《父の地下足袋》、《弟》《候鳥》《桜北上》の展開力と跳躍力は、やはり詩の言葉の力業というほかないだろう。

美津島チタル『そば尼僧』(詩遊社)は、「転じて《側にそう》」で、「詩は私の側に根気強くいてくれた」と美津島は信じて詩を書き続けている。また、地面のガラス片を宝石だと信じたなら「綺麗だったら」同じじゃないかと感じる感性の持ち主でもある。そういう彼女だから、日常生活に密着した現実と、幻想・妄想といったものとが混在し散在してしまう特徴をもつ。《洗ったばかりの赤いトマト/今晩のおかずになるのに/まな板から逃げ落ちた/一緒にサラダになるはずの/キュウリも枝のような手足を/ピョコンと生やして飛び出す//包丁ふりかざして追いかける/逃げたって/いいんですがねぇ/あんたたちは/おかずになるのが妥当なんです/と言ってやったら/真っ赤な顔して/トマトは怒る怒る/熟すのがまして美味しそう//むんずとつかんで/かぶりつく/美味しいわ/やめられないわ/恐怖でイボの立った/キュウリも/食べごろ/パリポリ平らげた//良い加減のしょっぱさ/新鮮な涙の味ね/知らなかったわ/あんたたち生きていたのね》(『野菜たちの反抗』全行)。トマトやキュウリが逃げだす。怒りだす。《新鮮な涙の味》を感じて、《知らなかったわ/あんたたち生きていたのね》と認識を新たにする。一行ごとの詩句には跳躍力が乏しく散文的であるのは、成長過程において関西文化に触れたことによる饒舌的語りに染まっているせいだろう。冷酷さを感じさせないのは先に触れたガラス片のエピソードに直結する感性のせいだろうし、冨上芳秀が帯文に書く「深層の現実」であるからなのだろう。そんな美津島という詩の書き手は、大多数の現代人が最必需品とするスマートフォンを、単なる《黒い鏡》にして《私を映す》だけの商品に見立ててしまう。そのことは、思考を一歩踏み出してみれば、孤立を恐れない強い心の持ち主への《旅立ち》の一歩目のことなのだ。この内容が、詩的フィクションでないとするならば、頼もしくも期待のもてる書き手の一人であるのは間違いない。

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