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2021年01月18日23:16

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忘れられた画家 渡辺省亭

渡辺省亭は、1852年江戸神田佐久間町に吉川家の次男として生まれます。ペリー来航の前年ですね。

吉川家は秋田藩の札差(御用米の仲介)で、次男だった省亭は質屋へ修行に出されますが、サボって絵ばかり描いていたため、実家に戻され、仕方なく漆工家・絵師 柴田是真(1807〜1891)のもとに預けられます。

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柴田是真 「四季花鳥図屏風」東京国立博物館

是真は、持参した省亭の絵を見ると、自分より絵師 菊池容斎(1781〜1878)が合っていると容斎への弟子入りを取り計らう。省亭は16歳で菊池容斎の門人となりました。容斎の指導は、「書画一同也」で、楷書は王羲之、かなは藤原俊成を手本に書道を稽古したようです。また、散歩に連れ出し、町で見かけた人物の着物の柄やひだの様子を尋ね、見たものを目に焼き付ける写生力の訓練を行ったそうです。

対象を目の前に置いてデッサンする西洋画と映像を目に焼き付けて再現する日本画の違いですね。

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菊池容斎 「前賢故実」より

省亭は生涯、是真に恩義を持ち、画題も容斎の歴史・人物画ではなく花鳥図や図案の道を歩む。



パリ万博に派遣される前後の省亭の画は、既に名人の水準であったそうです。

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「雨中群鵜図」1881年 ライデン国立民族学博物館

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「梅屋敷」 1876年

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「桜下美人図」

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「塩治高貞妻」1892年 「太平記」のエピソードですね
省亭は、花鳥画だけでなく美人画の名人でもあります。



省亭はパリから帰国後も国内外の展覧会に積極的に出品していたが、1887年に東京美術学校が開校し、岡倉天心の指導のもと橋本雅邦などの狩野派中心となり、その後も美校を退任した天心が組織する日本美術院の展覧会(院展)で美校出身者が受賞を占めるようになることを嫌い、自ら画壇から遠ざかる。

省亭を私淑する美人画の名手・富岡永洗から日本美術院に参加するよう要請されたが「雅邦の下につくのぢゃいやだ」と断ってしまった。俳人の息子から「惜しいことをしましたね」と言われると「薬味になるのはいやだよ」と笑ったという。

さらに、文部省美術展覧会(文展)が始まると省亭の嫌う派閥と情実審査がのさばる世界に変貌した。省亭は「私は展覧会共進会類に最初出品して居りましたが、其後卑劣な手段で賞牌を競ッたりするものが実際ありましたので私は急に出品といふことが嫌になり、パッたり廃めて居ました」と語っている。

1893年のシカゴ万博に「雪中群鶏図」を出品し、東宮御所の七宝額下絵「花鳥画帖」(1897〜1906)、以降は富裕層からの注文に応じて肉筆の掛け軸を主として描いた。

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花鳥画帖より


こうして、渡辺省亭は日本美術界の表舞台から消えていった。



忘れた頃に登場して辛辣な評論をしていたようです。

『1913年(大正2年)第7回文展に出品された竹内栖鳳、横山大観、川合玉堂らの作品を、技法・技術面から画家の不勉強と指摘している。

栖鳳の「絵になる最初」(京都市美術館蔵)を、「先ず評判の栖鳳を見ましたね、いけない、あれは駄目だ、此前の「あれ夕立に」か、あれもそんなに佳いとは思わなかったが、今のよりはずっとよかった、あの時丈が一寸足りないと思ったが、今のは又ひどい、第一着物がいけませんよ、どうも塗り損なひぢゃないかと思う、それでなければ衣文の線がもっと見えなけりゃならない、一体あの紺と云う色は日本絵の具にはないのだからね、きっとありゃ塗り損ひだよ、うまく行かないから濃い墨で塗りつぶす、其上に藍をかけると丁度あんな紺に見えます、私もよくやった覚があるが……ハッハッ、それにあの手が骨ばって、女の手は肉で包んでなけりゃね」と語ったそうです。』




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竹内栖鳳 「絵になる最初」1913年

栖鳳の画の良し悪しは分かりませんが、省亭を私淑していた鏑木清方の美人画と比べると省亭の指摘が分かりますね。

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鏑木清方 「築地明石町」
色彩、背景の描き方など、省亭の影響がよくわかりますね。




なぜ、省亭は忘れられたのかでした。


次へ続く

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