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2021年01月18日13:58

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万国博覧会と渡辺省亭

「悪の華」の大詩人、ボードレール(1821〜1867)に、「私は良いジャポヌリー(日本の美術品)を持っていて、友人に分け与えています」という1861年の手紙が残っています。(ジャポヌリーは、浮世絵だと言われている)

19世紀中頃のフランスアートシーンはジャポニスム(日本趣味)の影響が顕著に見られます。1850年代にフランスの版画家ブラックモンが有田焼の詰め物に使われていた北斎漫画を発見した時から始まったという逸話が残っています。

ジャポニスムの隆盛は、万国博覧会の歴史と共にあります。
大政奉還(1867年11月)直前に開かれた、パリ万博(1867年4月〜10月)には、幕府の他に薩摩藩、佐賀藩が参加し、陶磁器などの工芸品や浮世絵が評判を呼びました。

次いで、 1873年のウィーン万博は、 明治新政府が威信をかけてこれに臨みました。
会場に神社と日本庭園が造営され評判となりました。

出品された浮世絵、琳派、工芸品などの作品が、クリムト率いるウィーン分離派に大きな影響を与えたようです。

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神社と日本庭園

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日本館の様子


1878年のパリ万博は、36ヶ国が参加し、来場者は1600万人以上となり、大盛況の博覧会となりました。

この博覧会に、渡辺省亭(26歳)の「群鳩浴水盤ノ図」が出品されました。


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群鳩浴水盤ノ図 (浅草寺の鳩) フリーア美術館


この絵は、マネの弟子ニッティスが購入し、現在はアメリカのフリーア美術館が所蔵しています。

渡辺省亭は、当時、起立工商会社(美術品輸出の国策会社)で、濤川惣助の図案家として勤務しており、社内の籤引きでパリ万博への派遣が決まったそうです。

省亭の絵は、印象派の画家達の間で評判となり、間もなくドガやマネの知遇を得る事になりました。

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参考作品

ある時は、ドガの目の前で、書き直しができない日本画を流麗に描き、ドガはその出来映えに驚嘆したそうです。
ドガはその場で、鳥の画に「ドガ君 省亭」と為書きさせ終生愛蔵した。
こうした交流から省亭は、色彩や光の描法など西洋画の技法を学びとることになりました。

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「雪中の鴨図」

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「四季花鳥図 夏」1891年 クラクフ国立美術館


渡辺省亭は、西洋の芸術家と交流(1878年)した初めての日本人芸術家となりました。


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「Roosters,Chicks,MorningGlories」1890〜1900 ウォルターズ美術館

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「牡丹に蝶図」1893年 個人蔵

1884年に洋画家の黒田清輝がフランスに留学しました。
師匠はアカデミー系統のラファエル・コランで、印象派の影響を受けた折衷的画風から外光派と呼ばれて(揶揄)いました。
皮肉にも、ドガやマネの知遇を得たのは日本画の渡辺省亭だった。


更に、明治以降の芸術界(思想)をリードする岡倉天心がフェノロサと欧州を視察するのは1886年になります。
岡倉天心は、ジャポニスムとアールヌーボー、アーツアンドクラフツの隆盛を目の当たりにして、これからの日本に必要なのは、西洋画ではなくむしろ、狩野派を中心とする伝統的絵画を核とした「日本画」の創出であると決意を固めたのでした。(帰国後、橋本雅邦を教授トップに据えて東京美術学校を開設1887年)

その後、京都画壇の俊英、竹内栖鳳か欧州に遊学するのは1900年で、ターナーやコローの影響を受けました。


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「雪中群鶏図」1893年 東京国立博物館


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「十二ヶ月花鳥図之内十二月」1897〜1906年

渡辺省亭と万国博覧会について書きました。


次に続く



















































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