グローバリゼイションの負の側面であるコロナパンデミック。
名画の移動も制限されざるを得ない。
2021年の美術展は、ロンドンナショナルギャラリー展のような、海外美術館の大規模展覧会は有りません。
その中で、私が最も注目するのが、
「渡辺省亭 欧米を魅了した花鳥画」です。
彼こそは、アートにおけるグローバリゼイションを初めて経験した日本人です。
渡辺省亭の作品で、最も有名なのは、迎賓館赤坂離宮、「花鳥の間」濤川惣助製作「七宝花鳥図三十額」の下絵でしょう。
花鳥の間
七宝花鳥図三十額
迎賓館赤坂離宮は、明治天皇の石造りの西洋風宮殿建設という御意により、1909年(明治42年)竣工しました。
東宮御所(皇太子の住居)として建設されましたが、当初より海外の賓客をもてなす迎賓館としてのコンセプトもあったようです。
設計は、工部大学校教授ジョサイア・コンドルの弟子、片山東熊(かたやまとうくま)。同期には、東京駅を設計した辰野金吾がいます。
コンドルは、英国人で明治政府のお雇い外国人。鹿鳴館やニコライ堂、三菱一号館などを設計しています。
日本文化に傾倒しており、日本画の河鍋暁斎の弟子としても有名です。
片山東熊(1854〜1917)は、山口萩の生まれで、同郷の
元勲、山県有朋が終生の後ろ楯だったようです。
宮内省に出仕した東熊は、東宮御所建設のため欧州、アメリカを長期間視察しています。
東宮御所は明治の建築としては画期的な、鉄骨(アメリカ製)補強の煉瓦造りで、表面に花崗岩を石張りした建物になりました。
鉄骨補強による耐震設計で、関東大震災(1923年)にびくともしなかった名建築です。
東宮御所の内部装飾は、東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科教授に就任したばかりの黒田清輝(くろだせいき)が指揮しました。
黒田は、薩摩藩の出身で、印象派全盛期のフランスに留学し西洋画を学びました。
長州藩出身の片山東熊との薩長連合ですね。
「花鳥の間」の七宝画は、京都で活躍する有線七宝の並河靖之(なみかわやすゆき) と、東京美術学校日本画教授の荒木寛畝(あらきかんぽ)チームと、東京で活躍する無線七宝の創始者、濤川惣助(なみかわそうすけ)と 渡辺省亭チームのコンペになっていました。
並河靖之と濤川惣助は「二人のナミカワ」と呼ばれる七宝工芸の第一人者で、両者が1896年に帝室技芸員に選出されています。
一方、下絵を担当する荒木寛畝と渡辺省亭では当時のランクは雲泥の差があったようです。
片や、東京美術学校教授で帝室技芸員、対して省亭は未だ市井の一画家に過ぎませんでした。
しかし、実は、省亭は日本人の画家で最初にフランスに渡り(1878年)、ドガやマネの目の前で日本画を描いき、驚嘆させ、彼らと交流した人物でなのです。後述。
省亭の下絵
寛畝の下絵
どうでしょう
寛畝の伝統的花鳥画に比べて、省亭の花鳥画は明るく柔らかで生き生きとしています。
それは、線をひかない描写、構図、色彩、遠近などに西洋的要素があるからでしょうか。
「花鳥の間」の板壁を飾る七宝画として、濤川、省亭チームを選択した黒田清輝の忖度のない決定が素晴らしい。
花鳥の間 天井画
フランス人画家の作品らしいが、省亭の作品に比べると甚だ凡庸な印象です。
迎賓館赤坂離宮の壁を飾った、渡辺省亭ですが、その後、長らく忘れられた画家となりました。
渡辺省亭とジャポニズム、アールヌーボー。
日本美術院と京都画壇。
そして、
芳一、若冲、省亭。
省亭を巡って、当時の日本、世界のアート状況を見てみたいと思います。
余談ですが、
完成した東宮御所は、明治天皇から「贅沢すぎる!」と片山東熊が叱責され、そのせいか、東宮(大正天皇)がお住まいになることはありませんでした。
また、高温多湿の日本の夏に石造りの宮殿は快適ではなかったようです。
(写真は全てネット借用です。)
ログインしてコメントを確認・投稿する