市川崑監督の「ぼんち」(1960年)をDVDで観ました。山崎豊子(「白い巨塔」「沈まぬ太陽」「華麗なる一族」「大地の子」など)の新聞連載小説「ぼんち」(1959年)を原作にしています。
「ぼんち」とは、『どんなに放蕩しても、ピシリと帳尻を合わせ、どこか根性を失わない風格を持っている男で、大店のぼんぼんの理想が「ぼんち」に成ること』大阪商人特有の価値観らしい。
映画を観た山崎は、『「私の「ぼんち」はあんな、(しみったれて、うすぎたない)男じゃない」』と市川崑監督にクレームをつけたそうです。
船場の老舗問屋に生まれた山崎豊子は、大阪商人の理想の「ぼんち」を書いたのに、映画は 「ぼんち」になれなかった男の悲喜劇になっている事が許せなかったのだろう。
船場の古地図 堀に囲まれた街 新町郭も見える
船場の大店イメージ 旧小西家住宅(現在)
船場が舞台の作品と言えば、谷崎潤一郎の「細雪」だろう。「細雪」が船場(大阪)文化が崩壊する過程を描いているのに対して、「ぼんち」は時代の変化に対するしたたかさと鷹揚さを賞揚している。
同じ船場言葉を操っても、東京日本橋出身の谷崎と船場で育った山崎の違いが興味深い。
「ぼんち」のあらすじは、昭和初期、船場で四代180年続く足袋問屋「河内屋」のぼんぼん喜久治(22歳)が主人公。初代から三代一人娘が続き、番頭から婿を選んで暖簾を継いできた。喜久治の父親喜兵衛も番頭の出で、母の勢以、祖母のきのに頭が上がらない。喜久治は河内屋初めてのぼんぼんである。きのと勢以の段取りで、喜久治に嫁(弘子)をもらう。弘子に対する、勢以ときののいびりに堪えて男子を出産するが、勢以ときいにより離縁させられる。喜兵衛が亡くなり、喜久治が五代目となる。船場の旦那の甲斐性で、芸者、仲居、ホステスを次々に妾として養っていく。
妾を持つことは、旦那の甲斐性で商売の余裕を表す事に繋がる。
例えば、近松門左衛門の名作「心中天網島」に、遊女小春の身請けを諦めた紙屋治兵衛が、商売敵が小春を引き、身請けする甲斐性もなしと揶揄される屈辱に泣いている。それを見た女房のおさんは、商いの信用に関わると、蓄えた金、全ての着物を投げ出し、小春の身請けを勧める名場面がある。放蕩の始末も出来ないようでは商売も危なっかしいと見られる。
映画「ぼんち」は、市川雷蔵(喜久治)に、
中村玉緒(嫁・弘子)、
若尾文子(芸者・ぽん太)、
山田五十鈴(母・勢以)毛利菊枝(祖母・きの)
草笛光子(お茶屋・幾子)、
越路吹雪(ホステス・比佐子)、
京マチ子(仲居・お福)
船越英二(父・喜兵衛)の全員が主役級の豪華メンバー。
原作者がクレームを付けた映画は、それでも、白犬のおいど(尾も白い)だった。
ただ、小説を読んで気付きましたが、確かに物語の描き方が軽いんですね。
ぽん太 本宅伺いの帰り
ぽん太も乗った 十日戎 宝恵駕籠(現在)
先に映像で観ると、小説の臨場感は高まりますが、情報が固定化される事がデメリットかな。
映画には登場しない、火事場のエピソードは、「ぼんち」喜久治の見せ所です。
お福と旅館にしけこんだ喜久治、情事の気だるさを破る火事の気配に、すぐさま店に電話する、大得意先の近くらしい。番頭に「よっしゃ、すぐ火事見舞や、装束はできてるか、すぐ駆けつけるんや、他店(よそ)に負けたらあかんぞ!わいの火事装束を持って来るのや」と檄をとばす。「揃いの法被と股引に固め、提燈を振りかざして見舞うのが、商家のしきたりであった。そして、河内屋は最初見舞(はなみまい)を勝ち取った。」
映画で夜明けの行灯(薄ぼんやり)のように描かれている喜久治にこのシーンは必要なかったのでしょう。
商人の街船場の風俗と心意気が分かる小説。
そして、原作と映画の違いがよくわかる作品です。
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