12月10日(月)
狭山市のホテルをチェックアウトした。
待ち合わせは午後からだから時間がある。
もう一度、死体発見現場などを散策してから西武新宿線に乗る。
東村山で降りて朝マックをする。
志村けんの「東村山音頭」で訪れたいと思っていた。
もちろんなんの特徴もない普通の街だった。
西武国分寺線に乗り恋ヶ窪駅で降りる。
国分寺の街を散歩する。
まだ時間があるので独りで観光する。
国分寺駅南口近くに「国分寺書店」の跡地があった。
椎名誠のエッセイデビュー作「さらば国分寺書店のオババ」の古本屋だ。
ここも来たくてたまらなかった。
現在は閉店してブティックになっている。
そこから坂道を降りていく。
村上春樹が作家になる前に開いていたジャズ喫茶の跡地がある。
ビルの地下にあり「ピーター・キャット」という名前だった。
ほかにも国分寺には古刹や庭園などがあるらしいが、あまり興味がないのでやめた。
13時になった。
待ち合わせの時間だ。
JRの改札口に行く。
若い女性がやってきた。
「まかみしさんですか?」
かなりの美人だ。
こんなにきれいな人だとは想像を遥かに超えていた。
背が少し高くてスレンダーで、ストレートな黒髪と高く形の良い鼻が知的な雰囲気を醸し出している。
肩を並べて歩くだけで心臓が高鳴ってきた。
彼女とは今日が初対面だ。
お互いに森田童子のファンだということで、ネットで知り合った。
森田童子は1970年代から80年代にかけて活躍したシンガーソングライターだ。
独特の内省的な暗い雰囲気の歌を歌っていた。
「たとえばぼくが死んだら」「海が死んでもいいよと鳴いている」「ぼくたちの失敗」など。
1983年、突然に活動を停止して引退した。
それからすべての音信が途絶えた。
本名、経歴、実生活などはすべて非公開。
いつもサングラスをかけていて素顔も謎だった。
2018年4月、新聞に森田童子死去の記事が載った。
65歳だったそうだ。
わたしはどうしても森田童子の正体が知りたくて調べた。
ネットを探し周り、少しずつ情報を追っていった。
ようやく本名、住所、正確な死亡年月日などがわかった。
森田童子の本名は前田美乃生さん。
住所は国分寺市。
旧姓は中西で、なかにし礼の姪になる。
わたしが調査しているころ、やはり同じ森田童子の正体を知りたい女性と知り合った。
それが国分寺駅で待ち合わせをした美人だ。
東京に不案内なわたしを森田童子の自宅へ連れて行ってくれることになった。
まずは夫の前田亜土がよく来店していたカフェへ行く。
「カフェroof」という名前の小さくて雰囲気の良いところだ。
しかし前日はオタクのような男ばかり7人で殺人現場を歩いていて、今日は美女と二人きりでえらい違いだ。
二人でランチを食べる。
あらためてお互いの自己紹介をする。
マスターにも話しかけて森田童子情報を少しだけ教えてもらった。
そこから歩いて森田童子が住んでいた家へ行く。
住宅街の一画にある小さな2階建てのモルタル木造家屋だ。
今は空き家になっているが親族が定期的に手入れをしているようだ。
グーグルストリートビューで見たときは家の壁にツタが生い茂り悲惨な状態になっていたのに、最近すべて剪定されたようだ。
もちろん家には鍵がかかっているが窓越しにダンボール箱や洗剤の容器などが確認できて、まだ生活感がただよっている。
これがあの森田童子が生活していた住居かと思うと感激して足が震えてきた。
いつまでも家の前に立って眺めていたかった。
美人の彼女も同じ気持ちだろう。
つぶらな眼差しで壁を見つめている。
しかしまあ、いつまでもここにいるわけにもいかない。
国分寺駅に戻っていく。
日が沈みそうな時刻だ。
でもまだ別れがたいので「ほんやら洞」へ行った。
中山ラビさんがオーナーをしている店だ。
ここのオススメであるカレーライスを注文する。
かなりスパイシーで汗がたくさん出てきた。
午後8時になったら中山ラビさんが店に来た。
隣りに座っていた美人の彼女がスマホのイヤホンを一つ渡してくれた。
YouTubeで中山ラビの歌を一緒に聴いた。
本人を前にして曲を聞くのも不思議な感じだった。
新幹線の最終に乗って名古屋に帰らなければならないので店を出た。
国分寺駅で彼女とお別れした。
しかし今日は若くて美人な女性と散歩したけど、気分がシャキッとして身体に良いことだと思った。
こういうことをときどき行なえば健康寿命も延びて長生きできるのではないか。
太極拳だの黒酢ニンニクだのよりずっと効果があるような気がする。
高齢な女性の方はイケメンの若い男と散歩すれば良い。
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