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2019年08月18日00:25

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漫画頼りの映像分野

2019年03月21日のツイート

漫画とアニメで同じに見えるときは演出が上手くやっている。アニメなりの演出をしないといけない。つまり漫画とアニメは演出が違う。ならば、漫画の材料をそのまま使えるのは何か。それがキャラとプロット。アニメ(に限らず実写でもドラマ・映画でも)が漫画に頼るものがそれだ。キャラと、プロット。

アニメ実写ドラマ映画が、その業界だけではオリジナル作品を作れず漫画作品に頼る。これは作品形態によるものと人材によるものがあると思う。例えば小説なんかはダラダラ書くことが容易である。脚本も小説の弟みたいなもので、ダラダラ終わりまで書くとかできる。つまり小説もアニメやドラマの仲間。

これが漫画となると、ダラダラ描くということはまずない、まずできない。漫画の利点として一人で作れるというのがあって、自ずと漫画は一人で描くことが圧倒的に多い。複数人で描くとしてもあくまでもアシスタントで、一人で描けるが効率のためにアシスタント集団が一人の作家を手伝うということだ。


漫画を描くというのは大変な作業で、取り返しのつかないことになるのは避ける。だから最初から原稿用紙にペンで描くということはしない。普通、プロットから考えてネームにして原稿に下描きして、ペンを入れる。ネームをダラダラ描くというのはあるが最初から最後までダラダラ描くというのはまずない。

まずない、というのは、完走するのが難しいから。何も考えずにネームを描き始めて、ずっとダラダラ長〜く描いていって、そのままうまくオチをつけて終える、ということが簡単にできる人というのは、まあまあの天才の部類になる。あるいは怖いもの知らずでエネルギーに旺盛な若い子ならなんとかやれる。

それが漫画を描くことに熟達してくるほど、無駄のない作り方ができるようになる。ネームをダラダラ描くより、まずはプロットをちゃんと作るように、作れるようになる。漫画は、ちょっとの話を表現するのに大量のページ数が必要で。話のオチまで、終わりまでちゃんと描くとなると、無計画には描けない。

オチまで考えて計画的に描く、これがプロットを考えるのと同義。そこからさらに完成までをすべてコントロールできる。それが漫画家。大変な仕事量だが、バランスを考えてギリギリ一人でできる。これをアニメするのはもっと大変で、漫画のようにアニメ作品を監督できるのは宮崎駿とかそのレベルになる。

これが下手なアニメ実写ドラマ映画になると、まるで小説家が行き当たりばったりでダラダラ書いたものをなんとなく映像にしたようなものができる。誰が何をコントロールしてこういう結果になったのか分からない。だからもうわけも分からず「人気が保証された漫画作品を映像化しよう」という企画になる。

面白くて人気も得た、安定度の高い完成された漫画作品というのは、すべてがコントロールされた結果だ。編集がプロデュースして漫画家がプロットから完成までコントロールして、間違いなく面白い作品となる最低基準をクリアして、さらに時の運とかでヒットしたものだ。


そもそも漫画というのは、手塚治虫の段階で「映画を紙の上で表現する」という形態が確立されて、その延長で今がある。言ってみれば漫画とは「絵コンテから不要な指示を省いてセリフをフキダシにしてコマの大きさや位置を工夫し楽しく読めるようにしたもの」つまりある種の形態で完成された絵コンテだ。

これをアニメ化するときには、漫画はある部分においては必要な決定事項が網羅された指示書にもなるのだ。要するに、余計なことをするつもりがなければ、あとはアニメにするのに足りないものを考えるだけでいいのだ。キャラをアニメ用にちょっと描き直したり、次元の違う演出を上手くつけてやればいい。

アニメにするのに足りないものを考えるのもそれは大変な作業量ではある。が、元になる漫画があるというのは、すでにガッチリと完成された骨格がそこにあるということだ。そこにアニメの肉をつけてやる。完成されたゴールのイメージもより確かだ。完成された漫画はペラペラな企画書とはわけが違うのだ。

アニメ実写ドラマ映画が漫画に頼りたくもなるのも至極当然の話だ。これと戦うには、面白くてヒットしている漫画に匹敵する企画・プロット・キャラ・イメージボード、なんかを0から考えないといけない。そんなことが一般的なアニメ実写ドラマ映画のプロデューサー監督脚本スタッフにできるのだろうか。


漫画のアシスタントやアニメのスタッフの仕事については、指示通りにちゃんと仕事をすればいい話なのであまり関係ない。もちろんクオリティが高いに越したことはないし、制作費はここにかかる。だが作品の面白さが制作費の問題ではないのは、低予算でも面白い作品があるという事実が物語っている。

このことは漫画ひとつにしても、アシスタントいっぱい使って描いたから面白いというわけではない、というのと同じことだ。一人で描いても、絵がちょっと下手でも、面白い漫画は面白い。そういうのを豪華な映画作品にしても、その面白さを映画としてもちゃんと表現するなら、やはり面白いわけだ。


ちょっといきなり結論。アニメ実写ドラマ映画が漫画に頼るのは、漫画家がプロットとネームを書く達人だからだ。企画は編集が持ってくることが多いと思う。気楽なプロデューサーだ。漫画家は、漫画を描くためにはプロットとネームを書かざるを得ない以上、自ずとその道の達人になってしまう。

この場合のネームは必要条件。ネームは、小説家も脚本家も達人だ。ただネームをダラダラ書いてもなかなか面白くならないが、しかしネームをダラダラ書く能力は作家の必要条件なのだ。漫画のネームはコマ割り含めてコンテ形式だから(漫画としての)カット割り能力も込みになるが、これは脚本に似てる。


そして逆説を言う。小説や脚本がつまらなくなるのは、小説を書いた時点、脚本を書いた時点で、仕事は終わりだから。ダラダラ書いて、推敲したりリテイクされたりはあるだろうが、書き上がったらそれで仕事は一段落、脚本ならここまでが仕事、小説ならこれが完成、あとはなんとでもしてくれ、だ。

漫画はネームをダラダラ書いても完成にはならない。途中の工程でしかない。これは脚本もそうだが、脚本家は普通作品作りの主体ではない。監督脚本兼任というのはまだ信用度が高い。漫画は、作品を作る主体は漫画家であり、最後までコントロールしないといけない以上、間違いのない必要なネームを書く。

作品にとって間違いのないネームを書くには、適当には書けない。ちゃんと考えるのであれば、プロットから考える。プロットは、適当には考えられない。意味のないプロットなら考える意味がない。テーマが盛り込まれるし、構造や仕掛けも盛り込まれるし、そういうものありきでプロットは考えるしかない。


仕掛けの中でもオチというのは作品にとって最も大掛かりな仕掛けだ。オチというのは、ダラダラ書いて最後にいきなり考えることは難しい。オチというのは、最初からそういうオチになる前提で書いたときに最も効果的なものになる。

後付けのオチは効果が薄く、そういうオチにするなら最初からそういうことにしておかないというのはもったいない話になってしまう。小説だとダラダラ書いて推敲でなんとかするというのはあるが、ちぐはぐになってしまうことはあると思う。結局最初から書き直すことになるのは珍しくないのではないか。

小説というのは、ちゃんと書くのであれば、完成するまではその文章の塊というのは粘土みたいなもので、まずは文字をダラダラと排出し粘土の塊を作り、推敲で完成に近づけていく、というイメージがある。書いたものは書いたもの、という投げっぱなしもあるだろう。それが面白くなければしょうがないが。

ここまで書いて、今さらだが私は小説も脚本も書いたことがない。偉そうなことを書いているようで申し訳ない。ずっと私が書いているのは推察である。アニメ実写ドラマ映画で、どう考えてもプロットができてない、できているならこんな作品にはならない、そういう作品があるのを見て論を積み重ねている。


話を戻して、小説(や脚本)ならそういう書き方ができる。書いた文章がそのまま完成になる世界だから。漫画はそれができない。作っている途中で漫画のストーリーを文章の形で書くことはある。しかしそれはそのまま完成品にはなることのない、制作途中段階の形態物でしかない。

なので、漫画制作においてストーリーそのものをダイレクトに追求しようとするとき、それをざっと文字で書く、プロットという形になるのだ。これはもうメモの塊のようで、推敲されるのは当然の形で、どんどん途中が書き加えられたり塊ごと没にしたりと、これが「プロットを練る」という作業になる。

これをやらなかったらストーリーの出来というのはまるっきり違うものになる。プロットが練られていると、文字どおり「練られている」という印象になる。しかしできていなければ、それこそ「行き当たりばったり」「投げっぱなし」「やおい(山なしオチなし意味なし)」ということが明白に認識される。


小説や脚本というのは、たとえ行き当たりばったりだろうが投げっぱなしだろうがやおいだろうが、文章の形になっていれば完成品に見えてしまう。それが本当に完成された作品であるかどうかは、そんなことは言ってみれば素人には分からないのだ。

特定の人に何か引っかかるものがあれば「面白いかどうかはともかく好き」とか評価だって得られるし、脚本の場合などは、誰がちゃんと読むのか、これでいけるかどうかの判断を誰が責任を持ってするのか、というのは、そんなことはケースバイケースであろうし、いつも謎だ。

作品の面白さなんて脚本の段階で半分以上確定してしまうというのに。その脚本が前提にある限り、どれだけスタッフが頑張っても、どれだけ部分的に直しても、全体をコントロールするプロットの完成度がなっていなければ、徒労に終わるしかないのだ。

未完成の脚本を元に作業を進めていきながら全体を直していくなんて、そんな面白さの約束されない作業で、わけの分からないいかんとも評価のしがたい超越した作品を作ってしまう、そんなことをやってのけるのは宮崎駿レベルの神業だ。

それは確かにすごいことだと思うが、そうじゃなくてもっとちゃんと面白い作品が見たい、という思いの方が強いし、そもそもそういうレベルにはない作家はその知見不足をなんとかする方が先だ。手抜きするつもりもないとは思うし、忙しいのかなとも思う。見返りの少ない仕事というのもあるだろう。


アニメ実写ドラマ映画が漫画に頼るのはキャラとプロット。これをまた勘違いして「漫画はキャラだけ」という認識だとまたコケる。演出はそれなりでいいが凝りたければ凝ればいいし。アニメになって演出がどうなるかは見せどころだろうから。ただそれでプロットがないがしろにされればやはりコケるのだ。

プロットが練られてない作品はダメ。これが分かってないと邦画だろうがハリウッドだろうが面白い作品は作れない。このことを誰も分かっていないし、分からせる術もない。そのように人類の知能はDNAで決まっている。ダメな作品はこれからも生み出されていくことだろう。分かる人だけがプロットを練る。
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