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2019年10月16日23:51

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宝塚雪組公演「壬生義士伝」を見て来ました

【感想】許すまじこの脚本・演出!

浅田次郎原作の「壬生義士伝」の舞台化です。見ながらとても泣いてしまって…でも、出演者も泣いていましたので!(←いいのか?)

 舞台は、鹿鳴館でダンスの稽古をしている女性たちのシーンから始まります。そこへ、西欧列強におもねる日本の在り方に反発を感じている男たちが乱入し、彼らを止めに入った警察官が実は新撰組の生き残りの齋藤一だった、というところから、けが人の手当にやって来た医師と看護師の夫婦が「新撰組の吉村貫一郎という人物を知らないか」と齋藤に尋ねます(看護師は、吉村の娘だと名乗ります)。人を斬ることに何の抵抗も感じていない様子の齋藤は、吉村の名前を聞いて表情を変え、新撰組での彼のことを語り始めます。
 吉村は盛岡の下級武士であり、幼なじみの美しい娘しづと結婚し貧しいながらも幸せな日々を故郷で過ごしていました。しかし東北の深刻な飢饉により、3人目の子どもが出来た時に、ついに食糧難から母を失います。母は口減らしのために自発的に餓死したのだと妻に聞かされた吉村は、脱藩して新撰組に入り、家族のために金を稼ぐことを決意します。今は藩の要職に就いている幼なじみの次郎右衛門にだけは脱藩のことを伝え、家族に送金を固く約束して彼は出て行きます。
そこから場面は移り、新撰組での吉村の姿が描かれます。家族や故郷の話を相手構わず持ちかける、腰の低い吉村に反感を持った齋藤は、「斬ってやる」と向かって行きますが、予想外の吉村の強さの前に愕然とします。「家族のために、死ぬ訳にはいかねえ」と背筋を伸ばして語る吉村に、いつ死んでもいいと嘯いていた齋藤は虚を突かれます。
 その後も、組内の粛正や立入の際には、吉村は腕を見込まれて度々呼ばれるようになります。どのような場であっても、家族への送金のために厭わずに見事仕留める吉村の姿に、いつしか新撰組の人間たちはある種の尊敬の念を抱くようになりますが、尊皇攘夷の機運が高まり、世情は次第にきな臭さを増して行きます。人を斬ってはその報奨金を故郷に送金している吉村に、裕福な町人の娘みよは心を惹かれ、「このままの暮らしをしていたら、いつか吉村様は殺されてしまう」と危機感に駆られます。武士を辞めて自分と所帯を持ってほしいと持ちかけますが、吉村は家族を棄てられないと彼女の申し出を退けます。
 故郷を出て6年目に大政奉還がなされ、新撰組は鳥羽伏見の戦いに臨むことになります。齋藤や沖田総司は、「ここが死に場所」とばかりに大阪城へ向かおうとし、吉村には逃げるよう説得しますが、「武士たるもの、ここで義を通さねば」と、吉村は戦いに身を投じます。そして、満身創痍の状態で、どうにか南部藩の蔵屋敷に辿り着き、今は差配役となっている次郎右衛門に再会し帰参を願い出ます。次郎右衛門は「逃亡者を匿えば罪を問われる。ここで切腹せい」と申し渡し、自分の刀を貸そうとしますが、吉村はボロボロになった自分の刀で、一人切腹を果たします。「こんな刀では、さぞ辛かったであろう」と吉村の亡骸に眼をやった次郎右衛門は、わずかな現金を「家族へ渡してほしい」と書き残した吉村の遺書を見つけるのでした。
 その後、吉村の長男は戊辰戦争で戦死し、残された妻も亡くなり、娘は看護師に、吉村が顔を見ることが無かった末子は札幌農学校へ行っていることが語られます。「吉村は、新撰組の英雄ではない。良心だった」と語る齋藤の言葉で幕になります。


あらすじをまとめているだけでも涙が出てきました。もう本当に、可哀想な話で、このごろの宝塚には珍しく!!よく出来ている話でした!!
でも、この「よく出来ている」というのは誉め言葉ではありません。むしろ、憤りに近い感情が湧きあがってくるタイプの、「食えない」お話だと思います。その理由を、以下長々と書きます。

 主人公は登場シーンで故郷の自然の素晴らしさを語り、「こんなに美しい所で暮らせるのだから、貧しいなんて文句を言ったら罰が当たる」と語っています。ここですでに彼の悲劇は集約されていると思いました。
 彼が愛している家族と故郷、そしてそこに生きるためには守らねばならない身分制度が、全て彼を苦しめています。主人公が誠実で努力家な事ははっきり示されているので、この人が暮らしていけないようなら、その世界の方が狂っていると言うべきなのです。
 士農工商という身分・職業固定の江戸時代に、この真面目な主人公が脱藩して家族とも別れて暮らすことを選ぶというのは、非常事態としか言いようがないのに、彼は社会への怒りを持つでもなく、ただ家族のために都を目指します。
 京都でもひたすらに「守銭奴と言われてもいい、家族へ送金したい」と言って、淡々と人殺しを続けます。このお芝居では、遠く都へやってきてもずっと故郷の家族の事を思っている吉村と、齋藤を初めとする、帰属する場所を持たないために新撰組に流れ着いた他の組員との違いが鮮明に描かれます。齋藤は、初対面から吉村の家族や故郷の話が不快でたまりません。齋藤の強さは失うものを持たない人間の強さとして描かれているために、どこか不健康で、自身が破滅することを願っているようにも見えます。対する吉村にとっては、殺人ですら「家族のため」「生きるため」という目的によって正統化されており、そこに暗さは感じられません。内部抗争や資金着服など組内の乱れによる粛正が横行し、志を見失う人間が増えていく新撰組の中で、斬り合いに立ち会いながらいつも陰のない殺人者として吉村は存在しています。

 ですが、ここまで見ていて、だから吉村がハッピーに生き残れると思えないのも事実で、これだけ殺人を犯した人間が(作劇的にも)無傷で終わる訳はありません。加えて「家族のため」と言っていれば本当に罪悪感なく殺人ができるのか、という疑問が残ります。だからその後、新選組の面々から「お前は逃げろ」と言われても「義を通す」と言って大阪城へ向かう展開には説得力がありました。彼をそれまで支えていた家族への愛、故郷への愛が、「侍としての義」という自滅スイッチとして機能して結局は彼を殺してしまうのだなあ、と。彼は、脱藩した後の職業として「侍としての仕事」だから新選組を選んでいたのだということをここで痛感しました。家族や故郷を完全に捨てた訳ではないと彼が感じるためには、「侍」であることが必要だった。でも、その「侍」という仕事の実態は人殺しであり、組内の都合で次々命じられる粛清である訳です。彼が正気でそれを実行できるのは「家族のため」という、これまた大儀名分があるからです。

彼の家族への愛が欺瞞だとかいう事ではなくて、「愛」をそのように使ってはいけないと思うのです。実際、この「家族のため(なら殺してもいい)」って、全然、全くよくないです。この人は「家族のため」と言ったときに善悪の判断を放棄しています。家族に餓死者を出すような修羅場を潜ったことで、そのような狂気を身に着けたのかもしれませんが、この物語ではそれを狂気として描くことはせず、家族のために粉骨砕身頑張る男性の美談にしています。危険です。

この人の中で、家族と故郷と侍(階級社会)というものが、全く分離されておらず、恐らくそれらを分けて考えろと言われたら理解不能なのだろうなというくらい、ある意味一途で純粋。物語は彼の純粋さを強調して、とにかくぎゅっと彼に同情するように進んでいきます。でも、階級社会がなければ(捨てれば)彼ら一家がのびのびと生きることができたかもしれません。それなのに、彼にとってはそれらが全て一体で、家族、故郷、侍という完全な円環の中に、むしろ彼は留まっていようとしています。社会が変わろうとしているのは崩壊する新選組を見て分かっている筈なのに、そこに全く無関心な彼は、やはりこの古い円環の美しさを愛しているのですね。その弱さ、愚かさが悲しくもあり、またその純粋さが哀れでもあるのです。

 鳥羽伏見の戦いの後、蔵屋敷へ逃れて来る主人公が切腹を果たすまでは、涙なしでは見られません。彼をここまで追い詰めた「江戸時代」という社会の縮図である蔵屋敷を、彼は故郷に繋がる場所として最後に頼ってくるのです。彼が帰るのは、この場所しかありません。
 私は涙腺がものすごく緩いので、ぼろぼろ泣きつづけていた訳ですが、もう、力いっぱい心の中では叫んでいましたよ、主人公、間違ってる!この、どうかするとそのまま江戸時代礼賛、家父長制万歳、新選組最高!みたいな主人公を、こんなに美化して「いい話」にするの、間違ってる!って。

彼はどのような犠牲を払っても侍の社会から離脱するべきだったと思います。自分が愛したものをその手で否定し、打ち壊して、どのような痛みを引き受けてでも、自分を本当に生かす愛と社会を見つけるべきだったと思います。そのための死であれば、私ももっと純粋に悲しめたのに!

さて(ここから本題です)、原作小説を読みますと、なんと、この部分が全く宝塚版とは違いましたっ。
主人公は、身分制度の矛盾(才のある人間が評価されず食い詰める)をはっきり自覚した上で、精一杯の批判として脱藩し、新選組に入っています。自分が属する社会の愚かさを認め、自分は息子たち次世代の捨て石、新しい時代への犠牲になるために新選組の人間として死んでいくのです。
つまり、宝塚の今回の脚本・演出は、原作の主人公の人格をバッサリ半分にしてしまったような状態なのです。な、なぜこんな改悪を?脚本上の効果としても、倫理的・論理的にも間違っていますよ?あの厚みのある人格を、ペラペラした、とにかく可哀そうな男性にしてしまったせいで、例の、新選組での幾多の殺人を正統化するのが難しくなっていると思います(原作では、これについても主人公の自責の念が語られる箇所がありました)。
今回の宝塚版の主人公は「ベルサイユのばら」で言えば、ブイエ将軍側の人になっているんですよ、原作だとオスカル・アンドレ側の人なのに。おかしいだろうこの脚本は。

それでも、最後に家族に会うこともできず、残された長男も「武士として」と言って戦死してしまうので、なんて救いがないのだろうと思っていましたが、娘は看護師に、そして次男は農学校へ行っているという後日談で、辛うじて二人だけは士農工商から離れた新しい社会に生きていくことができたのだなあ、と慰められました。

 こんな風に色々問題がある舞台だと思うのですが(!!)、主人公役の役者さんがとても上手です…!もう、本当に、出て来た時から「いい人!」って分かるという、一体どんな役作りをするとこんなことが?って思います。主人公は、ずっと「〜でがんす」という盛岡弁をしゃべっていますが、その朴訥さがだんだんカッコよく見えてくるという、非常にリアルな演技でした。きれいな衣装の場面もないのに、新選組の組員の一人になったように、吉村ってなんかいいな!って思ってしまいます(おのれ!)。
この人の演技力で、吉村の愚かさが嫌味なく、哀れさとして表現されていたのが救いです。ほんと、吉村は「犠牲者」であって、「偉人」ではありませんからねッ!

お芝居が、吉村と斎藤を対比させる形で進んでいるのもとても効果的だったと思います。旧体制を守りたい!と思っている(無自覚ですが)主人公の強さと、守りたいものが全くない、という齋藤の強さの優劣は、舞台上では主人公の方が強いように描かれているのですが、実際に生き残るのは斎藤です。これは時代の流れを考えるととても自然な展開でした。逆に、幼馴染の次郎右衛門の存在感が結構薄かったんですが…(役者さん、すごく泣いてたし)…もう、それはいいや!というくらい、お芝居の見ごたえはありました。

 吉村の妻しづと、町人の娘みよを、同じ役者さんが一人二役で演じているのも、すごく良かったです。彼の人生の岐路を示すのは、妻と同じ顔をした女性なんだなあと。個人的には、脱藩するときに妻子も連れて行けばよかったのに!って強く思うんですけれど(原作ではここも説明があり、「誰もが新選組がきちんとした集団とは思っていなかったので、危険を避けるために妻子を遠ざけていた」ということになっています)。

 皆様も、機会がありましたら是非。宝塚ってキラキラしてるものでしょ、と思っている方も、認識が少し変わるかと思います。原作も併せて読むことをおススメします!
 

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