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2019年01月17日00:07

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2019年1月17日

僕が望んだのは弱いものの力になること
僕自身が弱く、いつも黙って馬鹿を見るから
僕が口を開くことによってひとつ救われるならそれらの力になりたいと思う
常に追いやられ
弱いものとは何かいつも共通認識があり
僕の中での底の底
その、自分はまだまだ底じゃねえと思い、自分が望む地位や名誉に戻る限りはそこじゃなくて落ちれると思えるうちはそこじゃない
這い上がろうという気持ちすらなくなったり弱いには共通する何か居心地のよさ共通認識がある。
コミュニケーションという物が評価されることは一種の極端。
言葉以外のいわぬが花
いうことはその綺麗さを損なうのではないか?
そもそも黙っていれば僕とあの人のその感覚は同じであるものを
余計なものを引き寄せてその言葉を陳腐にしている

表現できない気持ち
その何か
を硬くしてしまうとそれは違う
やわらかくあいまいで柔軟
柔軟ってそれって言葉にならない何かでその言葉になる前のその世界は広く広がる存在、それを僕が感じている言葉にならないが答えなのに
それに良いだとか悪いだとか言葉をつけるのは野暮ってもんだろう
弱いものとは何なのか?
戻れたり未来に希望を持つことこの世に絶望しそのレールから外れないうちはまだ絶望じゃない
なんだろう。心かな
何かを認めたくない
自分の内側にあるものを否定したいから否定したがるというか
レールの上はいつも迷う
僕にとっての弱いは何なのか?
嫌いな目の前の人さえ弱いの定義になる
何が違うのか?
その認めずに否定して人と戦い争い底に絶望をしなく社会を恨まず?
なんだろうそれで怒りを増幅させること?
いいことじゃないな
悪いことでもないな
でも、なんか違うものを自分の曲がっている自分の問題を認めない?
心と自分自身の乖離嘘をつくこと
執着自分の弱さに目をそらすこと
何かに執着すること自分はこうだとか?
世の中ってそうできている
自分の問題は自分で解決するもの自分で見つめていつも孤独それが前提で人というものが隣に立つ。
出なければどろどろする
なぜいつもその執着とか欲望がいやか
それはつらいから
だから、根本的な苦しみの原因は期待や
そういった何かそうあってほしいと思うこと波ができるから落ちる
なら、別にお坊さんになれじゃなくて苦しみをなくしたいならってこと
話を戻して、社会はその弱さをいつも抱えてそれに対処するなら
それはあの人もこの人も弱く救われるべき人ってことだと思う
みな家族みたいな
僕の望む救うべき人は嫌な人がいてこそあった概念だから常に一定であったはずだし
それが、心理療法の本質だとしたら
あの人はあの人が嫌いだから自分はそれを貫いたらそうしたら誰かが救われるってことだろう
と思うと変わっていることなんて普通の人からみりゃ迷惑なカウンセラー先生に過ぎないんだろう
救いたいって何だろう
だから僕がもし思うように貫いたとして
じゃあ誰が救われるのか?
あの動画でいっているように
目の前の人が自分の問題に気づかずそれに眼を背けている限りあなたは幸せだねとしかいえない
文句つけるのは僕のエゴってことになる
この世の人がいつも病理を抱えているものが見える
あの人病気あの人病気と、すべての人がよええと思うとそれの病気とか弱いって何だよってなる
たつこと歩むことを諦めた事。歩むことは意固地になってお金がほしいとかで生きるなら、自分の人生に絶望すること?
人生は苦しいもので自分の人生を客観的に見れること?というとちょっとずれる
でも、確かにその共通認識がある中で
自分自身のプライドだとかエゴだとかそういうものが俺はつええと言いたい訳なら底は其処じゃなくて
いつもだから何か共通にあきらめてそういうのを捨てた先にあって
拾うと遠ざかる
当たり前な話、病院に行く人は病気だと思う人であるならば
目の前が間違ってねえといってしまうなら、ハイそうですかといわねえのはただの意固地な爺さんみたいなものなのかもしれない
でも僕は相手が何かがほしいと稼動でも良い世の中の中で苦しんでいるそう思うんだよ
だから困るん
今までかかわった人はそれを理解して努力したり病気になることでそれらの認識が似たところがあってそうじゃなかったんだけど
世の中ってそうじゃないんだよ
気づかないで自分はと抗う人が腐るほどいらっしゃって
それにいちいち意見する僕は固いんだ
だから思うんだ
もういいやと
あの人にはあの人の人生がありあの人にはあの人の生きかたがあるのなら人の意見をいちいち思おうとするのをやめようと
はっきりと僕はあれは間違いと思うしたぶんそれを願っているけど
でもそれでもその人の今進んでいる願いは間違いじゃないと思うしかないんだよ
僕の答えと違っても
社会ってなんかだからずれている
でもにくいってだけじゃなくなったのは
あの人はああいう人であの意見とあの意見正しさのハザマに困っていると思うと
なんか、あの人もよええあの人もよええ
要するに救うべき人が山ほどいてそれらに執着によって俺はこうと言い出すと腹が立つ
他人がともに正しさから目をそらし俺は違う不幸じゃねえというようなことを言い合って認めないんだから
じゃあどうしろって思う。
だから、僕はもう一度弱いものの定義を明確にして救いたい人を明確にしねえと
中途半端で何かに執着して俺は間違ってねえという人ってそんなんばっかだと思う
自分がどうかは置いといて
だから一般社会みながやんでいるってことになってよくわからねえんだけど
それでも、地獄を見て今苦しんでいる人のほうがそれを自覚しているしまだなんだかわかるというかここちいいというか
目を背けることよりはその居心地の良さやそれにつながるものの方がいいんじゃないかというか
なんか、あっちじゃなくてこっちじゃない。
明るいと暗いというその極端にどっちも閉じている
進むべき理想はだから暗いまま明るいというか落ち着いて共有するというか
なんかあっちじゃなくてこっちじゃない
だからこの世の道に迷うとしたら
もう捨てよう
世の中の数多くそれらを捨て去った人たちの面倒まで見切れるかと
もし僕自身が神だとしたらだけど
すべてを好きになって拾うのは迷うだけでいくらいっても理解もしないし気づきもしないならきりがないから
それがどっちが正しいなんて不毛だし、もういいやと思う
僕の意見と相手の意見とは何僕というものは何か
と思うと僕は僕の経験したものを共有しかできない
僕の苦労しかわからないから
相手の苦労は僕の苦労から照らしあわさないとわからないから
だから僕は僕の経験したことしかわからない
相手がどの位置にいるかもわからない
僕は僕が感じたことを伝え相手のみになる?
後で相手が理解してくれることを信じて
と思うと、それが今の状況を招いているってことになり矛盾している
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