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2018年11月14日03:19

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11月14日

濱口雄幸首相が東京駅で右翼青年に狙撃され重傷。「男子の本懐」が流行語に。翌年8月に死亡:昭和5のこの日。濱口雄幸(明治3年4月1日〜昭和6年8月26日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。号は空谷。大蔵大臣(第29・30代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)、立憲民政党総裁などを歴任した。1930年(昭和5年)11月14日、濱口は現在の岡山県浅口市で行われる陸軍の演習の視察と、昭和天皇の行幸への付き添い及び自身の国帰りも兼ねて、午前9時発の神戸行き特急「燕」に乗車するため東京駅を訪れる。午前8時58分、「燕」の1号車に向かって第4ホームを移動中、愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から銃撃された。駅長室に運び込まれた濱口首相はかけつけた東京帝国大学外科学主任教授の塩田広重の手によって輸血が施され、様態の安定に伴い、東京帝国大学医学部附属病院に搬送され、同病院にて腸の30%を摘出する大きな手術を受けて一命を取り留めた。犯人である佐郷屋は「濱口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」と供述したが、「統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかったという。入院中は幣原外相が臨時首相代理を務め、濱口首相は翌1931年(昭和6年)1月21日に退院した。しかし、野党・政友会に所属する鳩山一郎らの執拗な登壇要求に押され、同年3月10日、無理をして衆議院に姿を見せ、翌11日には貴族院に出席している。それでも政友会からの議場登壇要求は止まず、18日には登壇するも声はかすれ、傍目にも容態は思わしくなかった。4月4日に再入院した首相は翌5日に手術を受け、これ以上の総理職続行は不可能と判断。4月13日に首相を辞任した。民政党総裁も辞任し、退院後は療養に努めたものの、治療の甲斐なく8月26日午後3時5分にアクチノミコーゼ(放線菌症)のため死去した。(出典:今日は何の日、Wikipedia)画像は、礼装である大礼服に勲一等旭日大綬章と勲一等瑞宝章を着用した濱口。
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