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2021年06月16日13:00

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秘密警察の監獄にて

2006年7月に書いた記事です。


 ベルリン市の北東部に、ホーエンシェーンハウゼンという地区がある。ここは、1990年までは、社会主義国家・東ドイツの一部だった。統一前の東ベルリンの地図を見ると、この地区の、ゲンズラー通りという道から北の部分は、空白になっていた。

ここに、国家保安省(シュタージ)が容疑者を拘留して取り調べる特別監獄があったからである。ベルリンの中心部から電車や市電を乗り継いで、およそ1時間。ゲンズラー通りを北に向かって歩くと、高い塀と、四方に銃眼を備えたいかめしい監視塔が見えてくる。

第二次世界大戦直後、ベルリンの東半分を占領したソ連は、1945年にこの地区に特別収容所を設置し、共産主義に批判的な勢力やナチス関係者を、逮捕して尋問した。ソ連軍の統治下でこの監獄に拘留された市民の数は、2万6000人にのぼる。

その時に使われた留置場が今も残っている。レンガ造りの建物に入り、階段を降りて行く。地下の留置場には窓がなく、一晩中電気が灯されていた。通気孔は小さいので、ここに何人もの市民が詰め込まれたら、息苦しくなることは間違いない。水道もなく、トイレとしてはバケツが置かれていただけ。

当時拘留された人々は、日光が全く射すことのない、この劣悪な環境の留置場を「潜水艦(Uボート)」と呼んだ。当時は、尋問の際に殴るなどの拷問が行われたという証言もある。

1951年には、東ドイツの秘密警察シュタージが、この監獄を引き継ぐ。フルシチョフの演説をきっかけにソ連でスターリン批判が始まると、留置場の環境が若干改善される。

別の建物に残っている独房には、窓があり簡単な洗面施設もある。戦後の東ドイツでは、約9万人のシュタージ職員が、国内の隅々に監視の目を光らせており、政府に批判的な発言をする者、西側の本や雑誌を読んでいる者などを捜査の対象とした。

だが「容疑者」の中で最も多かったのは、東ドイツに絶望して西ドイツに逃亡を試みて逮捕されたり、逃亡の手助けをしたりした市民で、一時はホーエンシェーンハウゼンに拘留されていた市民の80%が、西側へ移住したいという理由だけで、ここに押し込まれていた。

この監獄は現在一種の博物館になっており一般公開されているが、シュタージによる取調べは、たいてい夜10時ごろから徹夜で行われた。拘留者は、昼間はベッドに横になることを禁止され、座っていなくてはならないので、常に睡眠不足に苦しめられていた。

不眠の苦痛によって、自供や証言を引き出そうという戦術である。シュタージによってこの監獄に留置された市民の数は、延べ2万2000人にのぼる。この監獄跡には、全体主義国家の非人間性について知ろうと、多くの市民が訪れている。地方自治体が資金援助を行い、こうした「学習施設」を公開しているのは、有意義なことに思われる。

(ミュンヘン在住 熊谷 徹)

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