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2021年05月06日12:46

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ディートリッヒの帰郷(下)

2009年に書いた記事です。

ドイツの女優マルレーネ・ディートリッヒは1930年代に世界的な大スターとなり米国に移住してハリウッドで映画に出演するようになったが、独裁者ヒトラーに支配されたドイツに背を向けて米国の市民権を取った。

彼女はファシズムと戦うことを宣言し、ナチスの魔手から米国に逃れようとする市民たちを、資金的に援助した。第二次世界大戦が勃発すると、ディートリッヒはヨーロッパの最前線を訪れ、異国で戦う米軍の兵士を励ました。

ドイツ出身の彼女は、米国人たちから認められるためにも、人一倍ナチスドイツへの敵愾心を露わにしたのであろう。ドイツの降伏後、彼女は米軍とともに瓦礫の山と化した故郷ベルリンに入り、母親と再会することができた。

戦後ディートリッヒは歌手として活躍するようになり、1960年に公演旅行のために西ドイツを訪れた。だがドイツ市民の中には彼女を「米国のために働いた裏切り者」と批判する者も少なくなかった。

デュッセルドルフではディートリッヒに唾を吐きかけたり、卵を投げつけたりする観客もいた。一部の保守系マスコミも彼女を冷たく扱った。当時のドイツでは、現在ほどナチス時代を批判する態度が社会の中に深く浸透していなかったのである。

ディートリッヒは気丈に振る舞っていたものの、ドイツ市民からの非難に傷ついたのであろう。その後二度と祖国ドイツの土を踏むことはなかった。

1979年の映画出演を最後に、ディートリッヒは芸能界から完全に姿を消す。

彼女はパリのアパートに閉じこもり、家政婦や家族、親しい友人以外は会わないようになった。晩年には、酒と睡眠薬にひたっていたと言われる。一世を風靡した銀幕の女王は、マスコミや大衆に老いた姿を見られたくなかったのであろう。

1992年に91歳で没した彼女は、ベルリン・フリーデナウ地区の墓地に葬られた。ドイツに背を向けた大女優は、亡骸として再び祖国に戻ったのである。2001年にはベルリン市がディートリッヒ生誕100周年を祝う行事をもよおした。

その際に当時連邦大統領だったヨハネス・ラウ氏とベルリン市長は、一部の市民からディートリッヒに向けられた非難について謝罪した。市当局は翌年ディートリッヒに対しベルリン名誉市民の称号を与えている。ポツダム広場の劇場近くの広場には、彼女の名前が付けられた。

今日のドイツでは、ナチス時代の過去と批判的に対決することが国是となっており、大半の市民によって実践されている。そうした時代になって初めて、ナチスに反抗した大女優は本当の意味で帰郷を果たすことができたのである。

ディートリッヒは質素な墓石の下で、安らかな眠りについているに違いない。(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)







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