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2021年05月05日15:22

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ディートリッヒの帰郷(上)

2009年に書いた記事です。


ベルリン西部のフリーデナウ地区。2008年5月に私はある墓地を訪れた。ヨーロッパの墓地の例に漏れず、樹木が生い茂り小鳥がさえずっている。

その一角に、色とりどりのバラ、ユリ、カーネーションで飾られた茶色い墓標がある。第二次世界大戦前に、一世を風靡したドイツの女優マルレーネ・ディートリッヒの墓である。

 ディートリッヒは1901年にベルリンの警察官の二女として生まれた。当初音楽学校でバイオリンの演奏を学んだが、やがてある劇場監督に見出されて女優としての道を歩み始める。

当時のベルリンはバーベルスベルクという撮影所を持つ映画界のメッカであった。ディートリッヒは10本を超える無声映画に出演した後、ヨーゼフ・フォン・シュテルンベルクのトーキー映画「嘆きの天使」で主役を射止めた。

1930年に封切られたこの映画で、教授を籠絡する酒場の歌姫ローラを演じたディートリッヒは、世界的に有名な女優となった。彼女が映画の中で歌う「私はすっかりあなたに首ったけ」のメロディーは、往年の映画ファンには忘れられない響きだ。

ディートリッヒはシュテルンベルク監督とともに渡米し、活躍の舞台をハリウッドに移した。「モロッコ」、「上海特急」などの名作に出演し、ヒッチコックやワイルダーなど監督にも恵まれたが、初期の「嘆きの天使」に匹敵するヒット作は生まれなかった。外国人のスターにはやはり限界があるのだろうか。

一方、彼女の祖国ドイツも急速に暗雲におおわれる。1933年にナチスが政権を握り、ユダヤ人や政敵の迫害を始めたのだ。ナチスの宣伝大臣ゲッベルスは、高額のギャラをちらつかせてディートリッヒをドイツの映画界に呼び戻そうとしたが、彼女は拒否してハリウッドにとどまった。ディートリッヒが1939年に米国の市民権を取得した背景にも、ナチスに対する反感があったに違いない。

当時ドイツの映画界では、レニ・リーフェンシュタールというやはりベルリン生まれの女性が映画監督として脚光を浴びていた。彼女はナチス幹部に見出されて潤沢な予算を提供され、独裁政権のために宣伝映画を作った。

特に1936年のベルリン・オリンピックを題材にした「民族の祭典」は有名である。ディートリッヒは、リーフェンシュタールとは対照的に独裁政権と対決する道を選んだのである。(続く)
(文・絵 熊谷 徹 ミュンヘン在住)
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