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2020年11月24日02:22

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フクロウ

2009年に書いた記事です。

フクロウが鳴いた

 ドイツ南部のX市に、ウンターガング(仮名)という会社があった。100年以上前に創設された老舗である。ウンターガング社は町の中心部からやや離れた、閑静な住宅街にある。ドイツの住宅街が日本の住宅街と大きく異なる点は、緑地帯が非常に多いことである。ウンターガング社の周りも、まるで自然公園のような深い森林に囲まれていた。
 この樹木のために、空がどんよりとした雲に覆われている日には、本社の中は真昼でもなんとなく薄暗いのであった。
1993年の夏。X市では8月だというのに、気温が20度を超えず雨が多い日が続いていた。その日も朝から激しい雨が道路の石畳をたたき、人々はうかぬ顔つきでコンピューターの画面に向かっていた。
午前10時ごろ、社員たちは「キイキイ」という鳥の鳴き声に気づいた。窓から顔を出すと、その声は本社のすぐ脇の草むらから聞こえてくる。ふつう鳥はいっとき枝にとまって鳴いても、しばらくすると別の場所へ行ってしまうものだ。だがこの鳥は、同じ草むらの中から、何10分も鳴き続けている。薄気味悪い声が、暗い森に響いた。
ドイツ人は騒音に敏感である。「いったいなんだろう」。古参社員の一人であるペーター(仮名)も耳ざわりな鳴き声に、窓を開けて外を眺めた。「キイキイ」という鳴き声は続いているが、深い草むらのために鳥の姿は見えない。すると同僚の一人が「おい、あれを見ろよ」と言って、上の方を指さした。
本社の屋根よりも高い木の枝に、白っぽい色のフクロウがとまっている。野鳥が多いドイツでも、フクロウを見ることはめったにない。草むらの中で「キイキイ」と鳴いていたのは、フクロウの子どもだった。子どもは何らかの理由でけがをして地上に落ちたために、親鳥に助けを求めていたのである。フクロウの親がとまっていたのは、甲高い鳴き声がする草むらのすぐ真上だった。
たたきつけるような雨の中、フクロウの親は子どもが落ちた草むらの近くの木にとまって心配そうに下のほうを眺めているが、どうすることもできない。
親鳥は、ウンターガング社の従業員たちが窓から顔を出しているのに気づいたのだろう。ペーターたちの方をじっと見つめて、首をぐるんぐるんと回し始めた。顔の真ん中にある目だけは動かさず、首だけが回っている。人間が子どもに危害を加えると思って、威嚇(いかく)しようとしているのか。ペーターがそれまで一度も見たことのない光景だった。
うわさを聞きつけた広報課の課員がペーターの部屋にやってきて、望遠レンズでフクロウの写真を撮影する。彼女は1ヵ月後にこの写真を社員向けの月報に掲載した。
しばらくすると、M市の動物園の職員たちが車で乗りつけた。ウンターガング社の庶務部の社員が、動物園に連絡して鳥を保護するように依頼したのである。動物園の係員たちは網と籠を持って草むらに入り、「キイキイ」と鳴き続けていたフクロウの子どもを保護し、帰っていった。ペーターが高い木のこずえを見ると、いつの間にか親鳥は飛び去っていた。
社員たちの間では、この珍事がひとしきり話題になった。「野生のフクロウなんて見たのは、初めてだわ」。「確かに珍しいね」。ドイツでは自然や動物が好きな人が多く、ペーターの同僚たちも珍しい野鳥に関心があるのだ。
独特の顔つきをしたフクロウには、「賢者」のイメージがあり、ギリシャ神話では知恵の女神アテーナイの鳥ということになっている。ドイツ語のことわざには、「フクロウをアテネに連れて行く」という言葉がある。「もともと賢く、知恵の女神の鳥であるフクロウを、古代ヨーロッパで学術・文化の中心だったギリシャのアテネに連れて行くのは、むだだ」という意味である。日本語ならば「釈迦に説法」、もしくは「屋上屋を架す」とか「余計なことをする」と訳すことができる。
しかしペーターの課で働いていたヨルダン人、アハーメド(仮名)だけはまるで幽霊でも見たような固い表情を崩さなかった。
ペーターの課で働いていたヨルダン人アハーメド(仮名)は、会社の庭に落ちたフクロウの子が「キイキイ」と鳴き続け、親鳥がこずえから社員たちをにらみつけていたことを、気味悪く思っているようだった。「私の国では、フクロウは不吉なことの前触れと考えられているのだ」。
アラブ諸国だけではない。ヨーロッパの一部の地域でも、魔女や悪魔の使いと見られていた。フクロウは昼間にはめったに見られない鳥である。このため、昼間にフクロウを見たり鳴き声を聞いたりすると、疫病が蔓延したり、火災が起きたりすると信じる人々がいた。新郎新婦が挙式のために教会に行く途中に、フクロウが飛んでくるのを見ると不幸が起こるという迷信もある。
シェークスピアの戯曲「ユリウス・シーザー」の中に、「フクロウが昼間から市場に姿を現わして鳴いていた」という台詞があるが、これはフクロウが死を告げる前触れと見られていたことを示している。またシェークスピアは「マクベス」でもマクベス夫人に「あれをお聞きなさい!不吉な見張り役・フクロウが鳴いているわ。気味悪い声で夜の挨拶をしているではありませんか」と語らせ、王殺しの伏線として使っている。
興味深いのは、フクロウにはこうした悪いイメージだけでなく、前向きのイメージもあったことである。たとえば古代ギリシャでは、フクロウは知恵の女神アテーナイに付き添う鳥であると考えられたために、賢さの象徴でもあった。フクロウの姿は、古代ギリシャの貨幣に刻み込まれているほか、ギリシャで発行されている1ユーロ貨幣の裏にも使われている。
これは大きな頭と目を持つフクロウの風貌が、他の鳥よりも人間に似ていることと関連があるだろう。この「賢い鳥」というイメージが、「すぐれた知能によって不吉なことを察知できる鳥」という迷信に変わっていったのだろう。「賢い鳥」と「不吉な鳥」というフクロウの2つの顔は一見矛盾するようだが、迷信が地域や時代によって微妙に変化することを考えると、必ずしも不自然ではない。
1993年、ウンターガング社(仮名)の社員たちが、会社の庭にフクロウの子が落ちて「キイキイ」と気味の悪い声で鳴き、その近くの木に親鳥がとまっているのを見てから数週間がすぎた。
ウンターガング社の経営陣は、突然大規模なリストラを発表。ペーターの部を含めて多くの部署が廃止された。ウンターガング社は、この日を境に坂道を転げ落ちていく。ペーターの同僚アハーメドが「フクロウなんて縁起が悪い」と言った予感が的中したかのようである。
労働組合にとってこのリストラは寝耳に水だったので、労組が十分な対策を取る暇もなく多数の平社員が解雇された。様々な法律によって、従業員が恣意的な解雇から守られているドイツとしては、極めて異例の事態である。突然くびになった社員の中には、深夜に投石をして会社の入り口のガラスを割る者も現われた。ある課長は夏休みが終わって会社に戻ったら、自分が解雇されていたことを通告された。課長から平社員に降格された管理職も数人いた。その内の一人は、経営側から退職を要求されても辞めなかったので、コンピューターや電話を取り上げられて一人部屋に座らされるというモビング(いじめ)を受けた。
その後ウンターガング社は外国企業に売られて、独立を失う。多くの社員たちが解雇されたり、他の企業に移って行ったりした。少しでも現金を作るために、役員室の壁にかかっていた油絵や、高価な食器、ワインなどが次々に売られていく。同社はもう一度別の外国企業に売られて、ウンターガングという名前を失った。100年以上の歴史を持つ老舗が、地上から消えたのである。
ペーターはウンターガング社での解雇を免れたが、会社があまりにも不安定なので、消滅する前に自ら別の企業に移った。彼はふつう迷信を信じない人間である。それでも16年前にウンターガング社の庭に現われたフクロウの鳴き声は、会社が破滅する前兆だったのではないか、とふと思うことがある。科学技術が高度に発達した今日でも、理屈では説明できない現象があるのだろうか。彼の脳裏には、首をぐるんぐるんと回して人間を威嚇するフクロウの姿が、今もこびりついている。
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