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2020年11月20日15:29

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ロシア

2002年8月に書いた文章です。

駅頭の老女たち (または、サンクトペテルブルグの憂鬱)

日本からサンクトペテルブルグに来る旅行者のほとんどは、エルミタージュ美術館の壮麗な建物や古今東西の美術品を愛で、マリンスキー劇場でバレーを鑑賞して、北方の古都の美しい思い出を胸に、帰国するのではないだろうか。確かに、ピョートル一世が帝政ロシアの首都として築いたこの街の歴史的建築物は壮大で、西ヨーロッパにはないスケールと華麗さに圧倒される。ただし、そうした美しい面だけを見ても今日のロシアが置かれた複雑な状況は理解できない。私たちは、ホテルではなく、ロシアに長期滞在しているドイツ人のアパートに住み、商店でロシア人に混じって食料品を買って、自炊生活をしていた。観光バスやタクシーではなく、すしづめのオンボロ市電やトロリーバスに乗って、街のあちこちに出かけたので、人々の生活の一端を垣間見ることができた。
初めてロシアの商店で物を買おうとした時、西側にはあまりない独特の仕組みにとまどった。商品を選んだ客は、店員に直接金を払うのではなく、商品の名前を書いた紙片をもらって、店の中のボックス・シートのようなレジに座っている別の店員の所へ行き、お金を払ってレシートをもらい、レシートとひきかえに商品を受け取る。ある商店では、機械ではなく算盤のような道具を使っているのが、面白かった。社会主義時代から続いているこの仕組みはロシアで広く行われており、冷戦の時代に、亡命したロシア人たちが多く住んでいる米国の街でも、一種のホームシックにかかったのか、わざわざこのややこしい支払システムを導入した店があったという。
一九九五年当時には、社会主義時代とはうってかわって、商店は物であふれていた。食料品市場でも、肉や野菜がふんだんに並んでいる。網の袋に入ったジャガイモは泥まみれで、まるで土の塊がうずたかく積んであるかのようである。こうした物の豊富さとは対照的に、市民の暮らしは決して楽ではない。九五年当時この街で働いていたドイツ人の知り合いによると、サンクトペテルブルグ市民の平均月収は二0万ルーブル前後(当時の交換レートで約四000円)、これに対しチーズ一キロが一万八000ルーブルもしていた。このため、年金だけで生活しなければならない、お年寄りたちの暮らしは特に苦しい。社会主義時代には無料だった水道や暖房の料金も払わなくてはならない。
サンクトペテルブルグで、忘れられない光景がある。地下鉄や鉄道の駅から外に出ると、五0才から六0才のロシア人女性たちが、歩道の脇にずらりと並んで、米国産のタバコを通りすがりの人に売っているのだ。ある週末に、食料品市場に近い地下鉄の駅から地上に出たところ、タバコだけでなく、古びたアイロンからしなびたネギ、鳥かごに入ったインコや子猫まで持って、人々が歩道にずらりと並んでいる。にわか行商人の人波で、まっすぐに歩けないほどである。人々は少しでも小銭を稼いで、生活の足しにしようと必死なのである。だが彼らが手に持っている「商品」は、とても売れそうな価値があるとは思えないものばかりだ。なにも売る物がないお年寄りは、地下通路に立って物乞いをしている。私たちの知人であるドイツ人の女性が、そうした老女に小銭を与えると、老女は「神の祝福を」と言って、彼女に十字を切った。
こうして駅前に立っているお年寄りの中には、ナチス・ドイツ軍との戦争を体験した人もいるだろう。ソ連は当時のレニングラードを包囲したドイツ軍をみごとに撃退し、第二次世界大戦では戦勝国となった。それから半世紀後、社会主義国家ソ連は内部崩壊し、ロシアは冷戦で敗者の側に立った。その結果、西側の市場経済とは似ても似つかぬ「擬似資本主義」がロシアに流れ込み、貧富の差は急速に広がったのである。ドイツとの戦争には勝ったが資本主義との競争に負けた国の老女たちが、路上でアメリカのタバコを売る。そのすぐそばには、ベンツのオープンカーが停まっており、若いロシア人が携帯電話で話をしている。現代のロシアが抱えた矛盾を示す、縮図である。こうした光景を見ると、なぜ西側諸国がロシアに対する経済援助を必死で行い、この国で過激な勢力が権力を持つのを防ごうとしているのかが、よく理解できる。駅頭に立つ老女たち以上に、かつての超大国ロシアが味わっている屈辱を、はっきりと象徴するものはないからである。


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