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2019年04月26日04:00

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Umweltromantismus

ドイツ人と話していたら今日もCO2削減の話になった。ここに掲載するのは2006年に書いた論考ですが本質は変わっていません。
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ドイツ社会に見る「環境ロマン主義」

ドイツの商店街を歩くと、日本よりも頻繁に「環境」や「エコロジー」という言葉が目につく。コンピューター専門店には、電力消費量が比較的少ないという「エコ・コンピューター」が並んでおり、食料品店を覗けば、化学肥料を使わずに作った「エコ・パン」が売られている。郵便局に行けば、風力など再生可能エネルギーだけを使って発電された「エコ電力」の購入申込書が置かれている。大手デパート「ヘルティー」では、「環境にやさしい洗剤コーナー」を設け、環境への悪影響が少ないと判断された製品だけを置いていたことがある。同社は、環境汚染の原因となる製品を売り場から締め出したことについて、「短期的に売り上げは下がったが、消費者の環境保護への強い願望を考えると、重要なサービスだ」と説明していた。動物保護にも執着し、日本人の捕鯨については、徹底的に糾弾し、「にわとりが身動きできないような狭い養鶏場は、非人間的で残酷だ」と訴訟を起こした市民もいる。
この環境への執着はどこから来るのか。元々ドイツ人は、衛生観念が高く、整理、整頓、清潔を好む国民である。彼らのオフィスや自宅は、日本では考えられないくらい整然としていることが多い。安宿に泊まっても、トイレや浴室は清潔である。イタリアやポルトガルなど南欧の国に行くと、田園に廃車や古い工作機械が山のように捨てられ、朽ち果てている光景をよく見るが、ドイツでは考えられない(住民はすぐ警察に通報するだろう)。この国では野山や海岸、それどころか観光地を歩いても、ゴミ一つ落ちていない。こうした国民性に加えて、戦後は化学工場の火災によるライン川の汚染、酸性雨による森林破壊、チェルノブイリ原子力発電所の事故による、土壌や食物の汚染など、深刻な環境汚染を経験してきたという事実がある。これらの出来事も、ドイツ人の環境意識を鋭くしてきた。
私は、ドイツ人の環境保護への執念を、「環境ロマン主義」と呼んでいる。ドイツ民族の特徴の一つは、直情径行型の精神構造である。それは、60年前に、国民の大多数がナチスの欧州征服と第三帝国建設の野望に魅せられて、第二次世界大戦を始めたり、戦後は逆に平和主義者になってナチスを絶対悪として糾弾し、最近では米国のイラク侵攻に猛反対したりしたことに表われている。物事を白と黒にわけて厳格に判断することを好み、中途半端なグレーゾーンがきらいなのである。戦後はこの「シュトルム・ウント・ドラング」(疾風怒濤)の精神が、環境保護に向けられているように、思われる。
この環境ロマン主義が、極端な形で噴出したのが、1995年に英国シェル社が、老朽化した海上石油タンクを海に沈めて処理しようとした時の、ドイツの消費者の反応である。彼らは「北海の汚染を許すな」という環境団体グリーンピースの呼びかけに応じて、シェルのガソリンをボイコットし始めた。同社は、実際にドイツのガソリンスタンドからの売り上げが急激に減り出したことに衝撃を受け、企業イメージに修復不可能な傷がつくのを恐れて、石油タンクの海中投棄をあきらめた。同社は科学者から「環境への悪影響は少ない」という鑑定を受け、英国政府や漁業組合にも計画を説明していたが、反対意見は出なかった。しかし、ドイツ人の環境意識が敏感であることを考慮に入れず、十分な広報活動を行わなかったために、ボイコット旋風に巻き込まれたのである。ドイツでは、指定されている以外の場所に家庭のゴミを捨てるだけで、罰せられる。従って、大企業が巨大な石油タンクを海に捨てることを許されるというのは、人々には理解できないのである。マスコミも片棒を担いだ一大環境キャンペーンに、大衆が雪崩を打って参加する光景は、ドイツ民族の直情径行ぶりを、象徴していた。経営者団体・ドイツ産業連盟(BDI)のある幹部が、「いまや環境問題は、労働力と資本に並び、企業の経済活動を左右する第三の要素となった」と言ったことがあるが、この国では環境問題を無視してビジネスを行うことはできない。
日本では想像もできない、環境政党の政権入りが、1998年に実現した背景にも、高い環境意識がある。結成から18年で連立政権の一翼を担うことになった緑の党は、念願の環境大臣の椅子に筋金入りの党員を座らせ、環境政策、エネルギー政策を一変させた。特に主要工業国としては初めて、原子力発電の廃止に踏み切ったことは、緑の党の悲願が実現したことを意味する。電力業界との合意によると、運転開始から32年を経過した原子炉は停止させられることになっており、2003年には、北部のシュターデという町で、稼働中の原子炉が、実際にスイッチを切られた。
また、電力やガス、ガソリンの消費に環境税をかけ始めたことも、環境への負荷を減らすために、エネルギー価格を高くするという緑の党の哲学の具体化である。連邦環境省のR・カイザー課長(緑の党)は、「ドイツでは自動車など交通機関が放出するCO2の量が、1990年以来年々増加し、1999年には1億8100万トンに達していた。しかし、環境税が導入されて以降は、放出量が年々減って、今では1億7260万トンになっている」と鼻高々である。環境税の導入以来、ガソリン販売量も年々下がっている。
さらに環境省は、風力など再生可能エネルギーが発電量に占める比率を、2020年には20%、2050年には50%に引き上げるという構想を持っている。再生可能エネルギーを振興するための費用は、税金として電力料金に上乗せされており、われわれ消費者にとって電気代は高くなる一方である。
だがドイツ市民からは「ガソリンや電力が高すぎるから、環境税や再生可能エネルギー促進税を廃止するべきだ」という声は高まっていない。強い不満を述べているのは、産業界だけだ。環境省によると、国民の70%が脱原子力と、再生可能エネルギーに賛成している。彼らの心の中には、チェルノブイリ事故の恐怖が、深く刻み込まれている。従って人々は、環境を守るためには、電力料金が高くなるのもやむを得ないと考えているのだ。
シュレーダー政権は、景気の悪化や、失業率の上昇、社会保障の削減について、国民から強い批判を浴びていた。今年9月18日に1年前倒しして連邦議会選挙が行われたが、社会民主党(SPD)は得票率を大幅に減らし、シュレーダー政権は敗退した。しかし、野党CDU・CSU(キリスト教民主・社会同盟)も低迷し、自由民主党(FDP)と連立しても、過半数に届かないという異例の事態になった。緑の党はSPDほど大きく票を減らしていない。この原稿を書いている時点では、SPDとCDUが大連立政権を作るのか、それともCDU・CSUとFDPが、緑の党と組むのか、判明していない。このため、新政権に緑の党が残留する可能性は残っている。
ただし緑の党が野に下っても、新しい政府は、環境重視の政策を続けるに違いない。たとえば保守勢力も、選挙前から、脱原子力政策の全面的な変更には慎重な姿勢を示していた。CDUでエネルギー政策を担当するJ・プファイファー議員は、「政権交代が実現したら、再生可能エネルギーが経済的に自立するまでの橋渡しとして、原子力の稼動年数を延長する」とする一方で、「原子力に対する市民の反対意見が強いので、新しい原子炉の建設は無理だろう」と述べていた。確かに、緑の党が加わっていない政権が脱原子力政策を廃止しても、次の選挙で緑の党が政権に返り咲いて、再び脱原子力を打ち出す恐れがあるので、ドイツで新しい原子炉に金を注ぎ込もうとする投資家は少ないだろう。もはや保守政党といえども、国民の高い環境意識を無視することはできないのだ。
つまり脱原子力を実行した環境主義者たちは、この国の歴史に大きな足跡を残した。市民の環境ロマン主義は、日常生活だけでなく、政治や経済の流れにも、強く影響を与えているのである。
 さて日本でも近年中国からの酸性雨や、原子力発電所での事故が問題になっているが、ドイツの環境ロマン主義が、日本など他の国に広がっていく可能性はあるのだろうか。日本や米国に、環境政党がないことを考えても、私はこうした風潮が世界に広がることは、まずないと思う。特に経済のグローバル化がますます進んでいる中、日本や米国では国際競争力の強化や雇用の確保が優先されるため、環境問題が政治や経済の中で占める比重は、ドイツに比べてはるかに低い。世界的には、エネルギー需要の増大が予想されるため、新興国を中心として、原子炉が増設される傾向にある。その意味でドイツの脱原子力政策は、世界の流れに逆行している。環境保護の旗を掲げながら、独自の道を歩む姿は、孤高の画家カスパー・ダヴィッド・フリードリヒの、寓意とロマン性に満ちた風景画を思わせる。
 だがドイツの経済成長率は、EUの中でも最低の部類に属し、失業者の数は450万人と500万人の間を揺れ動いている。環境保護という大義名分のために、高いコストを払っているドイツ人たちは、グローバルな経済競争がますます激しくなる時代に、いつまで環境ロマン主義を維持することができるのだろうか。(在独ジャーナリスト)

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