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2019年03月19日05:32

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Auschwitz

2015年1月27日は、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所をソ連軍が解放してから、ちょうど70年目にあたった。ベルリンでは、この前日に、ナチスによる犠牲者の追悼式典が行われた。
 ナチスがポーランドに建設したアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所では、ユダヤ人やポーランド人、シンティ・ロマ(いわゆるジプシー)、ソ連兵捕虜、同性愛者など約110万人が殺害された。女性や子供など肉体労働ができないと判断された者は、シャワー室に見せかけたガス室で殺された。遺体は焼却炉で焼かれ、遺骨と灰は川に投げ捨てられた。
 式典では、2人の元収容者たちが証言した。その内の1人は、ハンガリー在住のエヴァ・ファヒーディ女史(89才)。1944年5月当時19才だったファヒーディ氏は、家族とともにアウシュビッツに移送された。収容所のプラットホームには、ナチス親衛隊の軍医で「死の天使」として恐れられたヨーゼフ・メンゲレがいた。彼は、指を左右に動かすことによって、ユダヤ人をガス室に送るか、労働させるかを決めていた。ファヒーディ氏は、労働者のバラックに送られたが、母親と当時11才だった妹は直ちにガス室で殺された。
 「アウシュビッツでは、常に遺体を焼く匂いがたちこめ、いつ自分が殺されるかわからないという恐怖と隣り合わせでした」。「真夏のバラックで、私たちは飢えと乾きに苦しみました。糞尿を入れた大きな桶を運ばされる時に、中身がこぼれて手や足が汚れても、体を洗う水はありませんでした」。
 アウシュビッツの生存者の多くは、深い心の傷を負ったために、長い間自分の体験を他者に語ることができなかった。ファヒーディ氏も45年間にわたり沈黙し続けたが、79才になった時にアウシュビッツ収容所跡を初めて訪れ、自分の経験を本として発表し、語り部としての活動を始めた。
 白髪のファヒーディ氏は、苦しそうな表情で語った。「なぜ私だけが生き残ったのでしょう。母と妹には、墓標すらありません。2人と同じくアウシュビッツで殺された人々に代わって、当時の状況を語り伝えることが、私に与えられた役割だと思います」。聴衆は、ファヒーディ氏が語り終わると、立ち上がって長い間拍手を送った。
 この後、メルケル首相が演壇に立った。メルケルは会場の最前列に座ったファヒーディ氏をじっと見つめながら、「あなたは渾身の力を振り絞って、収容所でのつらい体験を語ってくれました。そのことに心から感謝したいと思います。なぜならば、私たちドイツ人は、過去を忘れてはならないからです。私たちは、数100万人の犠牲者のために、過去を記憶していく責任があります」と語った。
 さらにメルケルは、反ユダヤ主義を厳しく糾弾した。「今日ドイツに住む10万人のユダヤ人の中には、侮辱されたり暴力を振るわれたりした経験を持つ人が増えている。これはドイツの恥だ。我々は、反ユダヤ主義、そしていかなる形の差別、排外主義にも毅然として対抗しなくてはならない」。
 またメルケルは1月にフランスで起きたテロ事件にも言及し「パリでは、イスラム過激派が、言論の自由を主張した風刺画家や、ユダヤ人の買い物客たちを殺害した。これは狂信主義が生む結果を明確に示している」と指摘した。
 そして「ナチス時代の犯罪と批判的に対決すれば、将来我々の尊厳を奪おうとする勢力と戦う力を身につけることができる」と述べ、過去との対決は、今日の民主主義体制を守る上でも重要だと主張した。
 翌日、連邦議会での追悼式典で演説したヨアヒム・ガウク大統領は、「ユダヤ人虐殺を記憶することは、ドイツに住む全ての市民の義務だ。アウシュビッツの記憶を抜きに、ドイツのメンタリティーはあり得ない」と断言した。

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