春
【大阪府大阪市】
『大阪城公園(おおさかじょうこうえん)』。
初桜 折しも今日は よき日なり
春の歌 愛と希望より前に響く
『豊國神社(ほうこくじんじゃ)』。
『大阪城/大坂城(おおさかじょう)』。
【兵庫県西宮市】
『夙川河川敷緑地(しゅくがわかせんじきりょくち)』。
もう二度と逢えぬなら 春なのに涙
悲しみに似た 薄紅色
花びら舞い散る 記憶舞い戻る
4月。
桜の花、舞い上がる道を
刹那に散りゆく運命と知って
短い春のまぼろし
春の風に 世界は素晴らしいなって少し思えた
願わくば 花の下にて 春死なん
開いたばかりの花が散るのを
見ていた木立の遣る瀬無きかな
桜の道。
『越木岩神社(こしきいわじんじゃ)』
一度はおいでよ。
ありがとう。
大丈夫。
また会えるよ
※『大阪城公園(おおさかじょうこうえん)』
杉山地区は森林公園となっており、外濠の水辺に集まる野鳥を眺めて家族連れが憩う姿も見られ、都会のオアシスとして市民から愛されている。日本国外からの観光客も多い。
春は桜の名所としても有名で、「日本さくら名所100選」に選定されている。
※『豊國神社(ほうこくじんじゃ)』
大阪城二の丸南側に鎮座する。旧社格は府社。豊臣秀吉を主祭神とし、豊臣秀頼、豊臣秀長も配祀する。
明治元年(1868年)、明治天皇により建立の御沙汰があり、明治13年(1880年)、北区中之島字山崎の鼻に京都・豊国神社の大阪別社として創建。昭和36年(1961年)、現在地へ遷座する。平成19年(2007年)、彫刻家中村晋也により豊臣秀吉像が復元された。
※『大阪城/大坂城(おおさかじょう)』
「日本100名城」のひとつ。「日本三名城」のひとつに数えられる場合もある。
天正11年(1583年)から慶長3年(1598年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣大坂城)の遺構は、現在全て埋没。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、元和6年(1620年)から寛永6年(1629年)にかけて、徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構。
元々は古墳時代の古墳があったと言われる。
戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、天正8年(1580年)に石山合戦で焼失した。織田信長はこの立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であった。石山合戦終結後は織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備していた津田信澄が布陣し「千貫矢倉」もあったが、信澄は本能寺の変の際に丹羽長秀に討たれた。その後、清洲会議で池田恒興に与えられるも、ただちに美濃へ国替えとなり、秀吉によって領有された。そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となった。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田三成が敗れ、徳川家康によって東軍への恩賞という形で所領が分配された結果、220万石の大大名から摂河泉65万7千400石の一大名に転落した豊臣氏であったが、遺児の豊臣秀頼は依然として豪華絢爛たる大坂城を居城としていた。しかし、慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣において、講和条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡した。
落城後の大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、忠明は大和郡山へ移封となり、江戸幕府は大坂藩を廃止して大坂を幕府直轄領(天領)。翌元和6年(1620年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城修築工事が開始された。大坂城修築工事は元和6年(1620年)の第一期工事から始まり、実に3期にわたる工事を経て寛永6年(1629年)に完成した。その後、江戸幕府が大坂城代を置くなど近畿地方、および西日本支配の拠点となった。
幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かった。
江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返す。寛文5年(1665年)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。
江戸末期、慶応3年(1868年)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り居城していたが、慶応4年(1868年)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡された。この前後の混乱のうちに出火し、城内の建造物のほとんどが焼失した。
明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用した。敷地には「大阪砲兵工廠」が設けられた。
昭和3年(1928年)、当時の大阪市長・關一が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案し、昭和天皇の即位記念事業として整備が進められた。集められた募金によって陸軍第4師団司令部庁舎と天守の建設が進められた。天守閣の基本設計は波江悌夫が行い、再建工事は昭和5年(1930年)に始まり、翌年に完成。昭和6年(1931年)に大阪城公園開園。同年、鉄骨鉄筋コンクリート構造によって天守閣が復興。現在登録有形文化財となっており、博物館「大阪城天守閣」として営業している。
大阪大空襲など太平洋戦争中の空襲では、二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓を焼失。天守閣に関しては天守台が損傷したものの、破壊を免れた。
江戸時初期から後期にかけて建てられた大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、金明水井戸屋形などの建物遺構が現存。明治20年(1887年)に日本陸軍大阪鎮台によって再建された高麗門も含め、国の重要文化財に指定されている。城跡は710,000平方メートルの範囲が国の特別史跡に指定されている。
現存する石垣も多くが当時の遺構。石垣石は瀬戸内海の島々(小豆島・犬島・北木島など)や兵庫県の六甲山系の石切丁場から採石された花崗岩である。また遠くは福岡県行橋市沓尾からも採石された。石垣石には、大名の所有権を明示するためや作業目的など多様な目的で刻印が打刻されている。
高さ5〜6mで最大幅14mに達する巨石が数多く使われている。最大の巨石である備前国岡山藩主池田忠雄が運んできた本丸桜門枡形にある蛸石の重量は最大130トンと推定され、エジプトのピラミッドやイギリスのストーンヘンジに使用されている最大の石を大きく上回る。
昭和中期の大坂城総合調査により、徳川氏本丸の地下からは秀吉時代の石垣が見つかっている。また、平成には堀底から障壁のある障子堀が検出され、堀の内側の壁にトーチカのような遺構も見つかった。
※『夙川河川敷緑地(しゅくがわかせんじきりょくち)』
通称『夙川公園』。夙川の河川敷沿いに、南は香枦園浜の海岸部から北は阪急電車苦楽園口付近まで約4.4km、20.8haにわたり、河川全体が“街路”として整備されたプロムナード(都市公園緑地)。遊歩道には桜や紫陽花、紅葉、松並木などの樹々や花々に彩られる。広場や東屋など、地域の人たちの憩いの場となっている。
春は桜の名所として有名で、「日本さくら名所100選」に選定されている。また、「日本の歴史公園100選」「美しい日本の歴史的風土準100選」にも選定されている。
臨港線から北夙川橋付近までの約2.8kmに、ソメイヨシノを中心にヤマザクラ、オオシマザクラ、カンザン、フゲンゾウなど約1,700本の桜の木が植えられている。
毎年4月初旬に「西宮さくら祭り」が開催され、桜めぐり・ウォークラリーなどのイベントが行われ、多くの花見逆で賑わう。関連イベントとして、夜桜のライトアップも行われる。
※『越木岩神社(こしきいわじんじゃ)』
前身は延喜式神名帳に載る大国主西神社であるとされる。
女性守護・子宝・安産・商売繁盛のご利益があるという。
祭神は明暦2年(1656年)、円満寺の僧・教順が西宮神社から勧請した蛭児大神(ひるこおおかみ・戎神)。
この周辺地域に村が形成されていく過程で、地域の繁栄のために西宮神社から蛭子大神が勧請されたと思われる。しかし、元々は当地にある「甑岩」等の磐座を祀ったもので、自然崇拝が中心であった所謂古代信仰の時代、当地から北山・目神山や六甲山を一大霊場とした磐座・磐境祭祀のランドマーク・霊岩として「甑岩」が祀られたと考えられている。
当地は、積み出し港の名を取った御影石(花崗岩)の産地としても有名。大阪城築城の際に甑岩を石工が割ろうとしたが、割れ目から鶏鳴とともに白煙が立ち、それは色を変えながら熱気となり吹き出し、石切職人達は手足をふるわせて作業を断念したとの伝説がある。また、徳川氏の大阪城修築の際、池田備中守長幸(備中松山城主)の家紋が刻まれた当時の石の破片が付近に残っている。
境内に鎮座する磐座をはじめ、境内北方の北山にある多くの磐座群を、ほぼ磐座群の南端に鎮座する「甑岩」を通して遥拝するために神社が建立されたと考えられる。「甑岩」は周囲約40m、高さ10mの花崗岩。酒米を蒸す時に使う「甑(こしき)」という道具に似ていることから「甑岩」と名づけられたと考えられる。また、岩上に雑木が生じた姿より、社名・町名も起こった。
甑岩は上部が中央から2つに割れて、その頂上から樹木が生えている。これを陰石(女性器石)とし、女性守護の神・厳島神社が祀られている理由となっている。
甑岩から北へ約50m登ると第二の磐座が、さらに北へ約30m登ると第三の磐座がある。それぞれ、南座・中座・北座と呼ばれる磐座があり、北座は生田神社と同じ稚日女尊(わかひるめのみこと)の磐座とも呼ばれる。また、外見で南座・中座・北座を、陰石・陰石・陽石とする説もある。さらに北の延長線上の標高約200mに北山があり、山中に巨石・磐座群がある。これら磐座を三輪山中の磐座と比較し、関係があるという説もある。
霊験あらたかな霊岩とされてきた。
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