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2019年12月23日22:00

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The Autumn Leaves

毎年恒例・京都の紅葉もみじ








【伏見区】




真言宗醍醐派総本山・醍醐山(深雪山)『醍醐寺(だいごじ)』。
上醍醐の准胝堂は西国三十三所第11番。多数の国宝や重要文化財を有する。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
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「三宝院唐門」。
国宝。1599年建立。
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「西大門」。
豊臣秀頼が慶長10年(1605年)に再建。
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「清瀧宮本殿」。
国重要文化財。永正14年(1517年)再建。
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「五重塔」。
国宝。総高38m。承平元年(931年)、その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るために第三皇子の代明親王が発願し、穏子皇太后の令旨で建立が計画。しかし、代明親王の死去などの影響で工事は停滞し、発願の20年後の天暦5年(951年)に完成。以後、自然災害による被害を受け、幾度の修理が行われた。
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京都に残る数少ない平安時代建築として貴重であるとともに、初重内部の両界曼荼羅と真言八祖を表した壁画も平安絵画の遺品として重要であり、塔本体とは別に「絵画」として国宝に指定されている。
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「金堂」。
国宝。豊臣秀吉の発願により紀州から移築したもの。慶長3年(1598年)から移築を開始し、秀吉没後の慶長5年(1600年)に落慶。
内部には本尊・薬師如来坐像(重要文化財)と日光菩薩・月光菩薩と四天王像を安置する。
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「祖師堂」。
向かって右に弘法大師、左に理源大師を祀る。慶長10年(1605年)建立。
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「観音堂」。
旧・大講堂。昭和5年(1930年)建立。本尊は丈六の阿弥陀如来坐像であるが、現在は消失した上醍醐「准胝堂」の西国三十三所札所が仮に移されており、「観音堂」と改称されている。
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空と紅葉
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「弁天堂」。
昭和5年(1930年)に林泉の北東岸に建立。
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京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持つ。
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平安時代初期の貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。
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醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯の「上醍醐」を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。
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室町時代の応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。しかし、豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから金堂などの寺院建築が移築されたり三宝院が再建され、今日の姿となった。
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上り口にはかつて女人結界があったことから女人堂がおかれている。
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醍醐山頂は標高450m。
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上醍醐は西国三十三所第11番札所であり、西国一険しい札所として知られる。
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山頂から笠取山に向かう途中には奥の院がある。
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「清瀧宮拝殿・本殿」。
国宝・国重要文化財。 室町時代の永享6年(1434年)に再建。弘法大師(空海)が唐・長安の青龍寺から勧請した密教の守護神を祀った醍醐寺の鎮守社。
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「醍醐水」。
聖宝が感得し、醍醐寺の名前の由来となったといわれる霊泉。
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「准胝堂跡」。
西国三十三所観音霊場第十一番札所。聖宝が如意輪堂とともに建立。昭和43年(1968年)に再建されたが、平成20年(2008年)に焼失。再建までの間、西国札所は下醍醐の観音堂に移されている。
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「薬師堂」。
国宝。醍醐天皇の勅願により、延喜7年(907年)頃に聖宝(理源大師)によって創建。現存の堂は保安2年(1121年)の建立。内部には薬師三尊像(国宝)、閻魔天像、帝釈天像、千手観音像(以上は重要文化財)などを安置していたが、現在は全て下醍醐の霊宝館に移されている。
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「五大堂」。
聖宝が開いた鎮護国家の祈願道場。
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「如意輪堂」。
国重要文化財。開山堂とともに慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により再建。元は理源大師(聖宝)により准胝堂とともに建立されたと伝わる。
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「開山堂」。
内陣の厨子には理源大師(聖宝)坐像など安置。
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やっと来れた。
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【右京区嵯峨】




京都を代表する紅葉名所『嵐山』。
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テレビや雑誌などでよく見る嵐山のシンボル『渡月橋』。上流の大堰川と下流の桂川に架かかり、桜や紅葉など一年を通して絶景を楽しむことができる。
承和年間(834年-848年)に僧、道昌が架橋したのが始まりとされる。現在の橋は昭和9年(1934年)に完成。橋脚は鉄筋コンクリート製だが、欄干部分は和製のヒノキ製で、嵐山の景観に溶け込むように設計されている。
平安時代初期に亀山上皇が、月が橋を渡るように動いていく様を見て「くまなき月の渡るに似る」と述べたことがその名の由来。
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「京福電鉄嵐山線(嵐電)嵐山駅」。
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構内「はんなり・ほっこりスクエア」。
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駅のホームに「嵐山温泉」を源泉とした足湯があり、額のハートをなでると運気がアップするという「ふれ愛地蔵」がお出迎え。湯は弱アルカリ性単純温泉で、歩き疲れた足を優しく癒してくれる。足湯は有料で1人200円で、「駅の足湯」オリジナルタオル付き。
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『キモノ・フォレスト(友禅の光林)』。
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高さ約2mの和モダンな京友禅柄に彩られたポールが約600本、ずらりと並ぶ。大正時代から続く老舗「亀田富染工場」のもので、柄の種類は全部で32種類。デザインは世界で活躍するインテリアデザイナー・森田恭通によるもの。
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駅でありながらSNSでも人気の観光スポットとなっている。
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奥には友禅に囲まれた小さな池「龍の愛宕池」がある。天龍寺が目の前にあることにちなんで名付けられた。この池の龍に祈ると希望が叶い、地下50mから湧き出る霊峰・愛宕山の伏流水に手をひたすと心に安らぎが訪れ、幸せへと導かれるとされている。
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嵐山のメインストリート「嵐山(嵯峨)商店街」。
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臨済宗天龍寺派大本山・霊亀山『天龍寺(てんりゅうじ)』。正式名称は『霊亀山天龍資聖禅寺』。
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本尊は釈迦如来、開基は足利尊氏、開山は夢窓疎石。神仏霊場巡拝の道88番霊場。
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「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
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「法堂」。
明治33年(1900年)再建。本尊釈迦三尊像を安置する。天井画の雲龍図は明治時代に鈴木松年によって描かれたが、傷みがひどかったため、平成9年(1997年)に加山又造により、八方にらみの龍の雲龍図が描かれた。
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嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が平安時代初期に開いた檀林寺が約4世紀を経て荒廃。その地に後嵯峨天皇とその皇子である亀山天皇は離宮を営み、「亀山殿」と称した。
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足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。
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足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一として栄え、寺域は約950万屐現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えた。しかし、たびたびの火災により創建当時の建物はことごとく失われた。
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土産屋が並ぶ。
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「化野念仏寺」
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『野宮神社(ののみやじんじゃ)』。
旧社格は村社、現在は神社本教の被包括法人。祭神は野宮大神(天照皇大神)。
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学問・恋愛成就・子宝安産等の祭神を祀り、地域住民からの崇敬はもとより、観光ルートの便から他府県または海外からも多くの参拝者が訪れる。
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豊鍬入姫命を端とした伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社。黒木鳥居と小柴垣に囲まれた嵯峨野の清浄な地を選んで建てられた。
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天皇が代替わりすると、未婚の皇女・女王の中より新たな斎王が卜定され、宮中の初斎院で1年間、そしてこの野宮に入り1年間潔斎した後に三重の斎宮寮に向かい、伊勢神宮での神事に臨んだ。その様子は源氏物語「賢木の巻」にも描かれている。この行列を「斎王群行」といい、平成10年(1998年)より毎年10月の例祭において氏子を中心に「斎宮行列」としてその様子を再現している。
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渡月橋と並んで嵐山のシンボルでもある『竹林の小径(こみち)』。テレビドラマやCMなどにもよく登場する京を代表する風景。野宮神社から大河内山荘庭園まで約400mにわたって空を覆うほど高く伸びた竹の林が続く。
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平安時代には貴族の別荘地だったといい、1000年を経た今も変わらず普遍的な美しさを称えている嵯峨野の竹林。竹が鬱蒼と生い茂る道で、幽玄の世界に誘われる。
観光用の人力車に乗って竹林の散策コースを巡るのもおすすめ。初冬には渡月橋や竹林の両側がライトアップされる「嵐山花灯路」が開催される。
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「トロッコ嵐山」。
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彩。
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日蓮宗・小倉山『常寂光寺(じょうじゃっこうじ)』。
「山門」。
江戸時代後期に改築されたもの。
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「仁王門」。
南北朝時代の貞和年間に本圀寺の南門として建立。元和2年(1616年)に現在地に移築。
仁王像は福井県小浜の日蓮宗寺院・長源寺から移されたもの。足腰の病を癒やすとされ、信徒が奉納したわらじが壁に掛けられている。
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境内の庭園には200余本のカエデが植えられており、秋は全山紅葉に包まれる。その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。
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百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあり、境内からは嵯峨野を一望できる。
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何度見ても飽きない。
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「本堂」。
安土桃山時代の大名・小早川秀秋の助力により、伏見城の客殿を慶長年間に移築。
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本尊は十界大曼荼羅。
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「鐘楼」。
寛永18年(1642年)建立。梵鐘は第二次世界大戦中の金属供出により失われたため、昭和48年(1973年)に京都工芸繊維大学教授青木一郎の音響設計により鋳造された。
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「妙見堂」。
妙見菩薩を祀る。
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イチョウの絨毯。
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平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が隠棲の地として当山を開いた。
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歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。
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「多宝塔」。
国重要文化財。元和6年(1620年)建立。高さ12m。
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浄土宗・五台山『清凉寺(せいりょうじ)』。
本尊は釈迦如来、開基は譱魁開山はその弟子の盛算。国宝の釈迦像をはじめ、多くの指定文化財を有する。
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嵯峨天皇の皇子・左大臣源融の一周忌に当たる寛平8年(896年)、源融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を「棲霞寺」と号した。
永延元年(987年)、東大寺出身の僧・譱(ちょうねん)が宋へ渡航。雍熈2年(985年)、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。インド、中国、日本、と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれている。京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺の建立を計画。都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした。しかし延暦寺の反対に合い、その願いを達しないまま長和5年(1016年)に譱海亘廚靴拭y譱海琉篁屬魴僂い青鏤劼寮校(じょうさん)が棲霞寺の境内に建立したのが五台山清凉寺。
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弘安2年(1279年)以降、大念仏中興上人と呼ばれる円覚が当寺で融通念仏を勤修。大念仏が盛んになり、融通念仏の道場となった。嵯峨大念仏が初めて執行されたのは嘉吉3年(1443年)のこと。享禄3年(1530年)に円誉が当寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより、本寺は浄土宗の寺となる。
江戸時代になると三国伝来の釈迦像は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれ栄えた。
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真言宗大覚寺派大本山・嵯峨山『大覚寺(だいかくじ)』。
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本尊は不動明王を中心とする五大明王。開基は嵯峨天皇。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院。
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代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道嵯峨御流の総司所(家元)。
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国宝である「後宇多天皇宸翰御手印遺告」や「後宇多天皇宸翰弘法大師伝」の他、多くの重要文化財を有する。
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「宸殿」。
国重要文化財。東福門院(後水尾天皇中宮)の旧殿を移築したものと伝える。内部は大きく4室に分かれ、各室には襖絵があり、中でも「牡丹の間」の牡丹図と「紅梅の間」の紅梅図の襖絵(ともに狩野山楽筆)は著名である。前庭には一面に白砂が敷き詰められ、右近の橘と左近の梅がある。
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回廊。
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時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内は映画やテレビなどの撮影によく使われている。
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「御影堂」。
伽藍の中心部に位置し、北側に建つ心経殿の前殿である。この建物は大正天皇の即位式に使用された饗応殿を下賜され、大正14年(1925年)、後宇多法皇600回忌を機に大覚寺へ移築されたもの。堂内の中心部は北側に建つ心経殿の拝所となり、その左右に大覚寺にゆかりの深い嵯峨天皇、弘法大師(空海)、後宇多法皇、恒寂法親王の像を安置する。
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回廊。
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「霊明殿」。
総理大臣を務めた斎藤実が昭和3年(1928年)、東京の沼袋に建てた日仏寺の本堂だったもの。昭和33年(1958年)、当時大覚寺門跡であった草繋全宜が移築した。阿弥陀如来を本尊とする。
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「正寝殿」。
国重要文化財。桃山時代建立の書院造建築で、内部は大小12の部屋に分かれる。
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間取りは、東列は北から南へ「剣璽の間」「御冠の間」「紅葉の間」「竹の間」の4室、中央列は北が「雪の間」、南が「鷹の間」、西列は3間×1間半の細長い部屋が2室で、北が「山水の間」、南が「賢人の間」。
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障壁画は狩野山楽および渡辺始興の筆。
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「五大堂」。
本堂。境内東側に位置する。天明年間(1781-1789年)の建立。当初は伽藍の中心部にあったが、大正14年(1925年)、御影堂が移築された際に現在の位置に移動した。元来この堂の本尊であった鎌倉時代作の五大明王像は収蔵庫に移され、現在は松久朋琳・松久宗琳が昭和50年(1975年)に完成した五大明王像を本尊として安置している。
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「大沢池」。
中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、平安時代前期の名残をとどめ、日本最古の庭池とされている。
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毎年中秋の名月頃に、池に舟を浮かべて「観月の夕べ」が催される。
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池の北岸沿いに、西から天神島、庭湖石、菊の島と並んでいて、この二島一石の配置が華道嵯峨御流の基盤とされている。池周辺には「護摩堂」、「大日堂」、「聖天堂」、「五社明神」などの小堂や、昭和42年(1967年)建立の「心経宝塔」などが建つ。
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嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。
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嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。
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鎌倉時代の徳治3年(1308年)には後宇多法皇が大覚寺を再興。ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれる。
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法皇の父である亀山法皇から続く系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながった。
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元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。
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「名古曽の滝跡」。
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夜のキモノ・フォレスト。
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京友禅のポールにはLEDが仕込まれており、夜には優しい光に包まれた幻想的な光の森に変化する。淡い光に包まれながら歩く「着物の小径」と呼ばれるゾーンでは、自分が幻想空間に迷い込んだかのような感覚を味わえる。
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臨済宗天龍寺派・大亀山『宝厳院(ほうごんいん)』。
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秋の特別拝観。
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夜間ライトアップ。
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天龍寺の塔頭。
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本尊は十一面観音。
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寛正2年(1461年)、細川頼之が聖仲永光を開山に招聘して創建。
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当時は現在の京都市上京区にあった。
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応仁の乱(1467年-1477年)に巻き込まれて焼失し、天正年間(1573年-1591年)に再興された。
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明治時代、河川工事のために寺域が買い上げられ、天龍寺塔頭の弘源寺内に移転。
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平成14年(2002年)、天龍寺方丈南側の現在地を購入して移転・再興した。
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「本堂」。平成20年(2008年)の再興。田村能里子作の障壁画がある。
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庭園は「獅子吼の庭」と呼ばれる借景回遊式庭園で、策彦周良の作庭。
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獅子の形をした獅子岩、岩から生えている破岩の松、苦海、三尊石などが有名。
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庭園や建物は時代劇の撮影に使用されている。
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秋は紅葉の名所。
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旧妙智院庭園は江戸時代には都林泉名勝図会にも紹介された名園。
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紅葉のトンネル。
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燃える秋。
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寄り添うようにもみじもみじ
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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年12月23日 22:33
    お疲れさまわーい(嬉しい顔)
    拝観料でたくさんお金使いましたねウッシッシ
    でも、今年の紅葉はいい感じやったと思いますねウインク
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年12月24日 23:02
    > mixiユーザー 使っちゃいましたね🤮年末年始もかなり使いそうです…マル秘

mixiユーザー

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