ついにワンチャン到来。
去年・一昨年と、タイミングが合わずに断念し続けていた念願の吉野へ。今年は雨にも邪魔されず、絶好の桜日和
過去に納得のいく写真が撮れていなかった京都の東寺もこの機会に撮り直す。
【京都】
[京都市南区]
真言宗総本山・八幡山『東寺(とうじ)』。またの名を『教王護国寺(きょうおうごこくじ)』。
正式名称は『金光明四天王教王護国寺秘密伝法院』、又は『弥勒八幡山総持普賢院』。
真言宗全体の総本山。本尊は薬師如来。
延暦15年(796年)、平安京鎮護のための官寺として建立。
弘仁14年(823年)、嵯峨天皇より真言宗の宗祖である空海(弘法大師)に下賜。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場として栄えた。
鎌倉時代以降は弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。
幾度の火災によって創建当時の建物は残っていないが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建された。
シンボルである五重塔、金堂、大師堂や、多数の絵画や彫刻などが国宝に指定。多くの重要文化財を有する。
「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
春は桜の名所
「講堂」
重要文化財。天長2年(825年)空海により着工、承和2年(835年)頃完成。初代の堂は火災で焼失し、現存の堂は室町時代の延徳3年(1491年)再建。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置する。
須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の「五智如来」、向かって右には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の「五大菩薩」、向かって左には不動明王を中心とした五体の「五大明王」が安置されている。また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置されている。計21体の彫像が整然と安置され、羯磨曼荼羅を構成している。これら諸仏は、日本最古の本格的な密教彫像であり、全体の構想は空海によるもの。
21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作だが、残りの15体は講堂創建時の像。21体中16体が国宝。
「金堂」。
国宝。東寺の中心堂宇で、諸堂塔のうちもっとも早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。現存の建物は慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進によって再建したもので、奉行として片桐且元が任に当たった。内部は広大な空間の中に重要文化財である本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。
「五重塔」
国宝。東寺のみならず、京都のシンボルとなっている。高さ54.8mは木造塔としては日本一の高さ。天長3年(826年)、空海により創建着手に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末。4回焼失しており、現在の5代目の塔は寛永21年(1644年)に徳川家光の寄進で建てられたもの。初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。諸仏は寛永20年(1643年)から翌年にかけての作。
南大門・金堂・講堂・食堂が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のまま。
空海が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、今日も毎朝東寺の西院御影堂で行われている。
21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。
「観智院・客殿」。
北大門の外に位置する。塔頭寺院であるが、別格本山。学僧であった杲宝を1世として延文4年(1359年)に子院として創建。観智院は東寺のみならず真言宗全体の勧学院と位置づけられ、多くの学僧を輩出している。通常非公開であるが、春秋などに特別公開される場合がある。
客殿は慶長10年(1605年)の建立で、国宝に指定されている。
「蓮花門」
国宝。鎌倉時代再建の八脚門。本坊西側で、小子房の西の門。空海が高野山に向かうとき使っていた門で、最後の旅立ちのとき空海の足元に蓮の花が咲き足跡にも蓮の花が咲いていたという伝説から名付けられた。
空海よ永遠に。
【奈良】
[吉野郡吉野町]
歴史深い日本一の桜の名所として知られる奈良県『吉野山』。吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。吉野山の桜はご神木として崇拝され、手厚く保護されてきた。春には日本古来のシロヤマザクラを中心に、ソメイヨシノ、シダレザクラ、ボタンザクラなど約200種3万本と言う世界に類を見ない規模の桜が咲き誇り、その圧巻の桜景色は「千本桜」と形容されてきた
シロヤマザクラは下・中・上・奥の4箇所に密集しており、”一目に千本見える豪華さ”という意味で「一目千本」とも言われている。
おのおの下千本、中千本、上千本、奥千本と呼ばれており、例年4月初旬から末にかけて、下→中→上→奥千本と、山下から山上へ順に開花してゆくため、約1ヶ月にわたって見頃が続く。
また、桜の開花に合わせて夜桜のライトアップも行われており、あたりは昼間と違った幽玄な雰囲気に包まれる。
吉野山全体、及び一部の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、およびこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されている。
[下千本]
標高約230m〜350m。
吉野の玄関口。駅が近いので気軽に立ち寄れる。見所は七曲坂、下千本展望所、お野立ち跡から見る桜景色。
吉野の玄関口に位置する『吉野神宮(よしのじんぐう)』⛩
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。建武中興十五社の一社。
南朝の後村上天皇は、父の後醍醐天皇が延元4年(1339年)に崩御した後、その像を吉水院に安置した。
以降、仏教式の供養が行われていたが、明治時代に入って神仏分離により明治6年(1873年)に吉水院を後醍醐天皇社という神社に改めた。
2年後に吉水神社と改称し、後醍醐天皇を祭神とする神社となった。
明治22年(1889年)、明治天皇の意向で後醍醐天皇を祀る吉野宮の創建が決定。
明治25年(1892年)に社殿が竣工して、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行された。
境内は戸開け桜やシダレザクラを観る事が出来る他、金剛山・葛城山も遠望できる。
社殿は昭和7年(1932年)の改築で、近代神社建築の代表作として高く評価されている。
本殿・拝殿・神門はかつて後醍醐天皇が京都の御所へ帰還される事を熱望されていた心情を汲んで、京都の方角(北向き)に建てられている。
御朱印。
下千本駐車場のすぐ近くにある「下千本展望所」。
ここからは世界遺産・金峯山寺蔵王堂を遠方に観る事ができ、それと共に雄大な桜風景が楽しめる
「お野立ち跡」。
正式名称は「昭憲皇太后・御野立跡」と言い、明治天皇のお妃であった昭憲皇太后がこの場所で花見を行った事から命名。
眼下に見えるのは「七曲坂」と呼ばれる桜並木の坂道。「春もみじ」と呼ばれる紅葉の新芽も見所。近くには吉野山ケーブルも通過し、花見客を楽しませてくれる。
下千本の桜
[中千本]
標高約350m〜370m。
吉水神社から観る「一目千本」は吉野山の千本桜の中でも代表的な桜景色。中千本と上千本の桜を一度に一望出来き、その桜風景は実にダイナミック。
中千本には飲食店が多数あり、桜の眺めも抜群。名物の葛餅を食べながらの花見は贅沢。
金峯山修験本宗総本山・国軸山『金峯山寺(きんぷせんじ)』。
吉野山のシンボル。修験道と呼ばれる山岳宗教の総本山。世界遺産。
7世紀に活動した修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)が山中での修行の末、金剛蔵王権現の姿を桜の木に刻み、これを祀って開創したのが金峯山寺のはじまりとされる。
修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の2つに大きく分かれた。金峯山寺は中興の祖である聖宝(醍醐寺の開祖)との関係で、当山派との繋がりが強かった。中世の金峯山寺は山上・山下に多くの子院をもち、多くの僧兵(吉野大衆)を抱え、その勢力は南都北嶺(興福寺や延暦寺の僧兵)にも劣らないといわれた。
慶長19年(1614年)、徳川家康の命により、天台宗の僧である天海が金峯山寺の学頭になり、金峯山は天台宗(日光輪王寺)の傘下に置かれることとなった。
太平洋戦争後の昭和23年(1948年)に、天台宗から分派独立して大峯修験宗が成立し、昭和27年(1952年)には金峯山修験本宗と改称。金峯山寺が同宗総本山となる。
「銅鳥居(かねのとりい)」。
俗界と聖地の境界を象徴する。現存するものは室町時代の再興。国指定重要文化財。
「二王門」。
国宝。室町時代の康正2年(1456年)の再興。
門の左右に安置する像高約5mの金剛力士(仁王)像は延元4年(1339年)、仏師康成の作。国指定重要文化財。
春になると蔵王堂の前に「四本桜」と呼ばれる桜が綺麗に花を咲かせる。ここは元弘3年(1333年)、北条軍に攻められた大塔宮護良親王が落城前に最後の酒宴を催した故地とされている。
石柵内に立つ銅燈籠は文明3年(1471年)の作。国指定重要文化財。
本堂の「蔵王堂」は正面5間、側面6間、高さ約34m、幅奥行ともに36m。木造建築としては東大寺大仏殿に次ぐ日本で2番目の大きさ。本尊・蔵王権現像3体(重要文化財)は高さ7mにも及ぶ。
豊臣家の寄進で再興されたもので、天正19年(1592年)の建立。山上ヶ岳の「大峯山寺」の本堂「山上の蔵王堂」に対し、「山下の蔵王堂」と呼ばれる。
蔵王堂のすぐ西側は今から約700年前の南北朝時代に皇居が建てられていた歴史的な場所であり、後醍醐天皇が政治改革に努めていた。
ここには現在三重の塔「妙法殿」が建ち、桜との組み合わせが絵になる人気のスポットとなっている。
御朱印。
妙法殿のさらに奥。
長い急な階段を下る。
『脳天大神 龍王院(のうてんおおかみ りゅうおういん)』。
金峯山寺の塔頭。
創建は昭和26年(1951年)。開山は覚澄大僧正。
本尊は脳天大神。
頭を割られた大蛇(金剛蔵王大権現の変化身)を祀っており、「吉野の脳天さん」と親しまれている。
首から上の病気に霊験あらたかと言われており、入学試験合格、病気全癒、商売繁盛祈願の参拝参詣者が多く訪れる。
帰り道はまるで修行。
土産屋や食事処も多く、花見シーズンの参道は多くの観光客で賑わう。
参道付近の「韋駄天山」という小高い丘の上に小さな社が経っており、そこからは蔵王堂や中千本が見晴らせる恰好の展望台となっている。
金峯山修験本宗別格本山・大峯山『東南院(とうなんいん)』。
大峯山寺護持院5箇院のひとつ。役行者霊蹟札所。創建は7世紀後半。開山は役行者。本尊は役行者。
本堂・多宝塔・庫裡・客殿からなり、鎌倉期の作と伝えられる大日如来・毘沙門天・不動明王などが祀られている。
多宝塔のすぐ傍には可憐な枝垂れ桜が寄り添うように一本咲いている。この多宝塔は元々は和歌山の野上八幡宮にあったものを昭和12年(1937年)に移されてきたもの。
『吉水神社(よしみずじんじゃ)』⛩
世界遺産。旧社格は村社。後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方の忠臣であった楠木正成、吉水院宗信法印を配祀する。
もとは金峯山寺の格式高い僧坊・吉水院だったが、明治維新の神仏分離により神社となった。
社伝によれば、白鳳年間に役行者により建立。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に潜幸したとき、宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設け、一時居所とした。後醍醐天皇の崩御の後、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に奉安した。
明治時代に入ると神仏分離令と天皇を仏式で供養することが問題視され、五条県が吉水院を神社に改める案を太政官政府に提出。後醍醐天皇を祀る神社を別に作ることを計画していた政府は案を却下したが、金峯山寺の廃止が迫る情勢となったことから奈良県が神社への改組を働きかけ、明治6年(1874年)に「後醍醐天皇社」の名で神社になることが承認された。明治8年(1875年)に吉水神社に改称。
豊臣秀吉が盛大な花見の本陣とした等の歴史的逸話で知られている。隣接する書院には後醍醐天皇の玉間と源義経が潜居したと伝えられる間がある。国指定重要文化財。
吉野山を代表する桜スポット「一目千本」
御朱印。
『勝手神社(かつてじんじゃ)』⛩
主祭神は天忍穂耳命(あめのおしほみみ)。全国28社の勝手神社の総本社。
創建年代は不詳だが、「日雄寺継統記」では孝安天皇6年(紀元前386年)とする。
その字面から勝負事や戦の神としても信仰された。神仏習合時代には勝手大明神の本地は毘沙門天と言われ、さらなる武門の尊崇を受けることとなった。
蔵王権現(金峯山寺)、子守権現(吉野水分神社)、勝手権現(勝手神社)は三所権現として伯耆の三仏寺に勧請され、蔵王権現は奥院(投入堂)、子守権現は地蔵堂、勝手権現は文殊堂に祀られた。
平成13年(2001年)の火災で本殿が焼失したため、現在御神体は向かいの吉水神社に遷座している。
休憩。
『坂本屋』の桜うどん・柿の葉寿司・葛餅のセット。
春。
[上千本]
標高約370m〜600m。
急な坂道が多くなってくるが、その分眺めは抜群で、大パノラマと共に吉野の桜風景を満喫できる。メインは標高約600mの花矢倉展望台から観る桜景色。
金峯山修験本宗別格本山・『櫻本坊(さくらもとぼう)』。
大峯山寺護持院5箇院のひとつ。役行者霊蹟札所。天武・持統帝の勅願寺とされた神仏習合の修験道場。本尊は役行者である神変菩薩(鎌倉時代・重文)。
天武天皇ご念持仏釈迦如来坐像(飛鳥時代・重文)、地蔵菩薩坐像(平安時代・重文)など数々の寺宝が多く伝わる。
聖天堂には役行者ご感得の、日本最古の聖天尊(歓喜天)が祀られ、本地仏である十一面観世音菩薩が10月1日に特別ご開帳される。
天武天皇2年(673年)、壬申の乱に勝利して皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所(日雄離宮)に寺を建立した。
春は境内で色鮮やかな八重桜が咲き誇る。
文禄3年(1594年)に行われた豊臣秀吉の花見の際には、関白・秀次の宿舎となった。
常楽山『竹林院(ちくりんいん)』。
単立の寺院。本尊は不動明王、蔵王権現、役行者、弘法大師。大峯山寺護持院5箇院のひとつ。役行者霊蹟札所。
宿坊竹林院群芳園で知られる。由緒ある宿坊としても知られ、昭和天皇皇后両陛下がご宿泊された事でも有名。群芳園は大和三庭園のひとつとされる回遊式庭園。千利休の作、細川幽斎の改修と伝わる。
寺伝によれば、聖徳太子が開創して椿山寺と号し、その後弘仁年間(810年〜824年)空海が入り、常泉寺と称した。至徳2年/元中2年(1385年)に竹林院と改称。明治7年(1874年)、明治の神仏分離に伴い廃寺となったが、その後天台宗の寺院として復興。昭和23年(1948年)、現在の修験道系統の単立寺院となった。
桜と青空。花見はもちろん、ハイキングやピクニックにも最適
吉野山の中でも特に桜の多いエリア
まるで谷下から大滝を見上げているかのような、雄大な桜景色を堪能できる「滝桜」。
上千本の桜
儚げで可憐な山桜が尾根から尾根へ、谷から谷へと山全体を埋め尽くしてゆく
休憩。
『吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)』⛩
世界遺産。式内社で、旧社格は村社。
創建については不詳だが、「続日本紀」によれば、文武天皇2年(698年)に芳野水分峰神に馬を奉り祈雨したとの記述がある。
元来は吉野山の最奥部、吉野町、黒滝村、川上村の境に位置する青根ヶ峰に位置した。大同元年(806年)頃に現在地へ遷座した。
現在の社殿は慶長10年(1605年)に豊臣秀頼によって再建されたもので、三社一棟造りの本殿、拝殿、弊殿、楼門、回廊からなる桃山時代の美しい建築。国指定重要文化財。
水を司る天之水分大神(あめのみくまりおおかみ)を祭神とする。「みくまり」が「みこもり(御子守)」となまり、平安時代から子守明神と呼ばれ子授けの神として信仰を集めている。
宣長の両親の子守明神への祈願により、本居宣長が授けられたといわれている。また、豊臣秀吉もこの地を訪れ、秀頼を授かったといわれる。
鎌倉時代・建長3年(1251年)作の「木造玉依姫命坐像」が国宝に指定。神社の神体であるため、一般には公開されず、本殿に安置されている。
境内で咲く可憐な枝垂れ桜が有名。
葛城水分神社・都祁水分神社・宇太水分神社とともに大和国四所水分社の一つとして古くから信仰されてきた。
御朱印。
[奥千本]
標高約600m〜750m。
吉野山で最も山奥にあたる。現在桜の本数は少なめだが、山奥の中でひっそりと咲くヤマザクラを観賞することができる。
『金峯神社(きんぷじんじゃ)』⛩
世界遺産。式内社(名神大)で、旧社格は郷社。
吉野山の地主神・金山毘古命(かなやまひこのみこと)を祀る。
奧千本の杉や桜の老樹におおわれて鎮座する。
創建の経緯などは不明。修験道の行場で、「栄花物語」には藤原道長が詣でたことが記されている。
明治以前の神仏習合時代には「金精明神(こんしょうみょうじん)」と呼ばれ、本地仏は阿閦如来、釈迦如来、大日如来とされていた。
工芸品「金銅藤原道長経筒」が国宝に指定され、多数の重要文化財を所有する。
境内脇の小径を3分ほど下った場所に、義経が弁慶らと追っ手から逃れるために隠れた「義経隠れ塔」がある。現在のものは大正初年に再建されたもの。
御朱印。
金峯神社のすぐ右手に、奥へと続く山道がある。
山道を500mほど歩くと辿り着く「西行庵(さいぎょうあん)」。
平安〜鎌倉時代に活躍した歌人「西行法師」が住んでいたとされる神秘的な場所。
山道を歩く。
展望所。奥千本の見頃は遅いため、まだほとんどが蕾。
周辺には数十本のヤマザクラが植えられており、静まり返った山奥の中で観る桜はしんみりとした気持ちにさせてくれる。
奥千本の桜
夕暮れの帰り道。参道も人が少なくなってきた。
下千本にある、一際目立つ色鮮やかな朱色の「大橋」。
橋と桜の組み合わせが絵になる。すぐ横には無料の休憩施設もあるため、花見や一服をするのに最適。
さよなら吉野。
平成最期の桜、満足です
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