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2020年07月02日18:32

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あまたのカケラ

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暮しの手帖、今号に掲載されている聾唖の写真家斎藤陽道さんの言葉に強く感動した。この2ページだけで今号は買う価値があると思う。

斎藤さんは就寝前、洗面所と子供の寝室が隣り合っているので照明はつけずに手探りで歯磨きを行なう。その一連の動作の間、斎藤さんは目を閉じている。
そして、この習慣になっている動作をするたび、なんばさんのことを思い出す。

なんばさんは全盲の友人で、なんばさんへはスマホの音声読み上げ、なんばさんからはホワイトボードに文字を書いてもらってお互いのコミュニケーションを取っている。

その遣り取りで生じる少し待つ時間、斎藤さんはなんばさんの動作を観察していた。
そしてその動作の真似をしてみた。目を閉じて、他の感覚を総動員して。

最初は勝手がつかめずにいたが、だんだんと手で感じて判断する基準のようなものができあがっていった。

なんばさんの動作を自分の身体に宿らせることで「理解」までは及ばずとも、「共感」が生まれたようだった。


斎藤さんは子供を持ってから、子供たちの動作も真似ている。

たとえば美味しいものを食べて、顔をくしゃくしゃにしながら全身を揺らす。世界を全身で受け止めている子供の動作を真似ることで、彼らのカケラが自分の中に溶け合っていく。

子供たちもまた、斎藤さんの動作を取りこんでいる。子供のなかに積み重ねられていく自分の動作が、驚くほどの精度で再現される。

「ぼく」という存在は、「ぼく」だけの感覚でできているのではなかった。出会ってきた者たちのカケラが積み重ねられた結果が「ぼく」だった。

そして「あなた」も、あまたのカケラによって存在してる者だということを、おのずと知っていく。

「あなた」のなにかしらのカケラを自分に宿らせる。逆に、相手に宿った「ぼく」のカケラを見出したりする。

年齢、性別、障害、人種・・・・異なる人と付き合うには、自分の「あたりまえ」を一旦ほどいて脇に置かなければならない。

「あたりまえ」は、言い換えると「私がそう感じるんだから、あになたも同じに感じているでしょう」という、想像力を欠いた「断定」だ。

それはいともたやすく、他者への「差別」につながる。

自分の「あたりまえ」に執着しない、その大切さを教えてくれたのは、子供たちだった、斎藤さんはそう思う。

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