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2018年11月25日22:54

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ドゥーチュィムニー「守った沖縄の誇りと矜持 命削り翁長雄志さんが伝えたこと【金平茂紀の新・ワジワジー通信(37)】」

 翁長雄志知事が8日、急逝された。享年67歳。すい臓がんとの壮絶な闘病の末の死だった。がんが発見されたのは今年4月。いかにも早過ぎる。僕は翁長さんより3歳下の北海道生まれのヤマトゥンチューだ。報道の仕事ばかり41年も続けてきた。だが、これほどきちんと筋を通した政治家に出会えたことを本当に誇りに思う。今の国政レベルにはこんな政治家はいない。命を削るようにして翁長さんは沖縄の人々の誇りと矜持(きょうじ)を守り抜いた。時には本土政府の理不尽な「いじめ」「差別意識」に抗(あらが)いながら、安易に阿(おもね)る凡百の政治家とは明らかに異なる道を歩んで、誇り高い生き方とは何かを身をもって示された。


 僕は前号の本欄でこう記した。〈沖縄戦没者追悼式の進行をリハーサルの段階から刻々と見ていた僕は、とても複雑な思いに苛(さいな)まれた。この式典の進行の先には、より大きな深刻な帰結が待ち構えているように思えてならなかったのだ〉(7月5日付本紙 知事壮絶、命がけの訴え 73年目の慰霊の日 「新・ワジワジー通信」より)。その「より大きな深刻な帰結」は突如やって来た。6月23日のあの壮絶な訴え、そして公の前に姿を見せた最後の場となった7月27日の県庁記者会見(辺野古埋め立て承認撤回プロセスを開始するとの内容。死のわずか12日前だ! )を経て、翁長さんの死は、遠くではないいつか、残念ながらきっとやってくるのではないかとの思いを、多くの県民が心の底に抱いていたのではなかったか。

 僕は翁長さん死去の知らせを那覇空港に着陸する直前の飛行機内で受け取った。信頼している友人がメールしてきてくれた。午後7時23分。体から力が抜けていくような感覚に襲われた。そのまま亡くなられた直後の浦添総合病院に直行した。正直かなり動揺していた。翁長さんをここまで追い込んだのは誰だったか。翁長さんがこうなることの心の準備はできていたのか。これから翁長さんの遺志を誰がどのように継いでいくのか。いくつもの問いが心の中を行き交っていた。翁長さんの亡きがらを乗せた乗用車が病院を出て行った。駆けつけた市民から「翁長さん、ありがとう!」という叫びが上がった。その女性にインタビューしていたら鈍い振動が体に伝わってきた。オスプレイだ。病院の上空をオスプレイが飛行していった。時計を見ると午後10時半を過ぎていた。これが翁長さんが亡くなった夜の現実だ。

 お通夜、県民大会、告別式、その後の県知事選に向けた生臭い動きを取材して見えてきたものは、翁長さんのあまりにも大きかった存在感だった。だからこそ亡くなった後の喪失感も大きい。なぜ翁長さんは最後までぶれなかったのか。それを伝える報道が本当の所少ないのではないかと思う。世の中には、死去の意味をきちんと報じないまま、早く忘れ去り、「次は選挙だ!」とばかり、状況の移行をセットしたがる輩(やから)がいるものだ。まるで沖縄戦の記憶を早く過去のものだとしたいかのように。

 翁長さんは元々、保守政治家だった。それが政府に抗(あらが)うようになったきっかけは何だったのか。ここでは三つのことを記しておく。一つは2007年の教科書検定の際に、沖縄戦のさなか日本軍から強制された住民の「集団自決(強制集団死)」の記述が削除されたことへの強い怒りがあった。これはご本人が語っていたことだ。「日本政府はこういうことまでやるのか」と。さらに、2013年4月28日、政府が鳴り物入りで開催した「主権回復の日」の祝賀式典。沖縄にとってはこの日はサンフランシスコ講和条約締結によって日本から切り離されアメリカ軍政下に入った「屈辱の日」である。それを単純にことほぐ本土政府の浅薄さと非情さ。そして同じ年にオスプレイ配備反対、普天間基地県内移設反対の「建白書」を携えて上京しデモ行進をした際に、銀座で遭遇したヘイトの言葉。「売国奴」「日本から出ていけ」「中国のスパイ」などという暴言を翁長さんは直接浴びせられた。そうした動きと並行して、辺野古新基地工事の強硬な進め方に、翁長さんは沖縄に対する本土政府およびそれを支持する本土国民の、沖縄に対する無関心、本能的な蔑(さげす)み、いじめのような差別意識を体感したのではないか。沖縄人としての健全な郷土愛=沖縄ナショナリズムが強靱(きょうじん)なものとなったのだろう。それが「イデオロギーよりアイデンティティー」という言葉に結実した。

 現在の政権は、翁長知事が就任早々上京した際も面会しようとしなかった。何と幼稚な振る舞いだ。国政選挙で辺野古反対の民意が示されるや、その投開票日の翌朝に工事を再開させるようなことを何度もやってきた。こうした彼らがやってきたことを考えると、よくも葬儀に顔を出せたものだと僕は思う。

 7月27日の最後の記者会見に臨む前、翁長さんは妻の樹子さんに珍しく弱音を吐いたという。一つは体力の極端な落ち込みがあった。3メートル歩いては休み、また3メートル歩いては休むという限界に近い状態だった。「記者たちの質問にちゃんと答えられるかどうか心配だな」。これまで翁長さんはそんなことを一度も言ったことはなかった。樹子さんは「これは大事なことだからあなたにはできるよ」と励まして送り出した。会見では30分以上、翁長さんが喋(しゃべ)っていた。質疑応答もこなした。会見後の映像を見ると足元がふらついていた。この頃は口内炎が多発していて水を飲むことさえしんどかったという。入棺の際、身に着けていたかりゆしの襟元が輸血管等でできた傷口からの血でみるみる染まっていった。父親の翁長助静さんは元真和志市長。沖縄戦を生き延びた政治家、歌人で、沖縄で最初の慰霊塔「魂魄の塔」を建立した住民の一人でもあった。翁長雄志さんは、娘さんにはこう語っていたそうだ。「僕はおじいちゃん(父親の助静氏)の役職は越えたけれど、人間的には越えられなかったなあ」。いや、沖縄戦の歴史とアイデンティティーの伝承は、翁長雄志という郷土をこよなく愛した政治家によって、確実に成し遂げられた。合掌。

 (テレビ報道記者・キャスター)=随時掲載
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