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2018年11月21日22:07

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ドゥーチュィムニー「追悼! 翁長雄志沖縄県知事――その闘いの意味、闇を切り裂いた言葉」

 2014年11月16日の夕刻、テレビのニュース特番を見ていた時の高揚した気持ちを、私は鮮明に記憶している。チャンネルはBSのTBSであり、アンカーは後に立憲民主党の国会議員となる杉尾秀哉氏が務めていた。開票開始早々に出た「翁長雄志氏当確」の知らせを伝える杉尾氏の表情には沸き立つ感情が現れており、解説の一人として出演していた前泊博盛氏(政治学者・ 沖縄国際大学教授)の表情がみるみるうちに生気に満ちていった様子は、もう一人の解説者――誰であったか忘れたが、代表的な「安保ムラ」の人物であった――のうつろな表情と好対照をなしていた。2012年末に安倍晋三政権が成立して以来初めてまともなニュー スに接した喜びを私はかみしめていた。
 翁長知事誕生から4年弱、「日本で最も勇敢な男」(米フォーブス誌)は逝った。この間の翁長知事の闘い、オール沖縄の闘い、沖縄の闘いの過程は、日本国家の民主主義・ 法治主義の崩壊の凝縮された過程でもあった。安倍政権は、知事選や国政選挙を通じて沖縄の人々が表明した「辺野古に基地はつくらせない」という意志をあらゆる手段を動員してくじく一方、モリカケ問題の発生とその対処に象徴されるように、統治それ自体を崩壊させた。
 私の考えでは、この二つの事象は別々の事柄ではない。 安倍政権は、私が「永続敗戦レジーム」あるいは「戦後の国体」と名付けた、「従属している事実を否認する特殊な対米従属レジーム」の最高形態である。「最高」と呼ぶのは、この体制こそ「戦後レジーム」の正体であり、それがもはや維持不可能になっているにもかかわらず、無理やりにそれを継続させていることの結果として、限りなく強引で逸脱した政治手法に頼らざるを得なくなっているからである。それにより、翁長県政が苦汁をなめさせられたこの4年弱は、このレジームが腐敗を深め、崩壊する自己をますますむちゃくちゃな仕方で支えようとしてきた期間でもあった。
 それでは、「彼ら」は勝利を収めたのだろうか? 断じて「否」と言わねばならない。このように状況が過酷であるからこそ、翁長知事の言葉は、本質をうがった、闇を切り裂く光となった。「米軍に関する事件事故が相次いでいても、日本政府も米軍も無関心なままでいる。 日本政府はアメリカに必要以上に寄り添う中で、ひとつひとつの事柄に異を唱えるということができていない」、「日本政府には(米軍基地が引き起こす問題を解決する)当事者能力がない」(2017年12月)。「安倍総理が『 日本を取り戻す』という風に、2期目の安倍政権からおっしゃってましたけど、私からすると、日本を取り戻す日本の中に、沖縄は入っているんだろうかなというのが、率直な疑問です」、「『戦後レジームからの脱却』ということもよくおっしゃいますけど、沖縄では戦後レジームの死守をしている」(2015年4月)。
 「日本政府がアメリカに必要以上に寄り添う」、すなわち言うべきことを言わずに卑屈なご機嫌取りに徹するのは、戦後日本の対米従属は根底的には暴力を基盤とする「支配」 ではないという虚構を維持するためであり、この虚構を拒絶する沖縄は国民統合から除かれる(「取り戻す日本」の中に沖縄は入っていない)―― こうした政権の赤裸々な本音を翁長知事の発言は射抜き続けた。
 いまだ安倍政権を支持し続ける本土の国民が理解していないのは、政府・支配権力の沖縄へのこうした態度は、国民全体に対する態度を濃縮したものにほかならない、という事実だ。米軍基地に関して、なぜ沖縄が過酷な仕打ちを受けてきたのか。それは、究極的には、米軍にとって沖縄が「戦利品」だからであろう。
 そして、戦利品であるという状態は、何も沖縄に限ったことではない。日米安保条約・ 日米地位協定は日本全国に適用されるものである以上、沖縄が経験してきた基地のもたらす危険・脅威は、かつては本土でもしばしば実感され、今日ではまれにしか表面化しないものとなったが、本質的には沖縄におけるのと全く同様に存在し続けている。そして、沖縄への基地の集中、封じ込め、過剰負担こそが、この構造を不可視化させてきたのであった。
 戦利品として支配されているという事実を否認し、支配者に進んで取り入ることによって地位と権力を維持してきた勢力、これが今日、「日本を取り戻す」だの「戦後レジームからの脱却」だのといった譫言を口にしてウケている、というのが不可視化の果てに現れた本土の末期的な状況である。その実相は、翁長氏が指摘したように、なりふり構わない「戦後レジームの死守」、より具体的には彼ら対米従属体制内エリートの自己保身であり、そのためには一般国民のどんな犠牲も厭わないというものである。彼らにとって、国民あるいは国家全体は、どう処分しても構わない「私物」にほかならない。
 翁長氏は「魂の飢餓感」と言った。それは本来、全ての日本国民が――自らの運命を自らの掌中に握ろうとするならば――感じて当然のものなのだ。翁長氏は先駆者としてそのことを教えてくれた。この教えが伝わり続ける限り、4年弱の激しい闘いの果てに途半ばで斃れた翁長氏は、決して敗者ではない。
※本稿は2018年8月21日「沖縄タイムス」に掲載されました。
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