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2020年04月04日03:50

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不謹慎者の自省・・・

昔、私の師は「医学は科学ではない」・・・とよく言っていた。勿論、医学と言う学問体系の内容には科学の要素が全く含まれない・・・・と言う意味ではない。当然、医学にも”科学”の要素は含まれているが、医療と言うもの全体を科学と見做すには、未だ人類は”科学的”に生命について知るところが余りにも少ない(科学と言うのはソレほど単純なものだ・・・と言うことでもある)・・・従って、医療(行為)の実態については、(科学的根拠の無い)推測・推理、或いは希望、etc.に委ねざるを得ない部分が圧倒的に大きい・・・と、でもいう意味で「医学は科学ではない」・・・・と言うことである。
科学万能を盲信しがちな現代にあっては、「医学は科学ではない」の言葉は場合によっては医学をけなす言葉とも受け止められかねないが、決してソウではない。医学が現代の(未だ稚拙な)科学に完全には委ねられない・・・と言うことは当然でもあるが、寧ろ救いでもある。恐らく、良い医者はこのことをよく理解していると思う。
しかし、この医学と科学の区別をつけず科学を装う医学は、時として害悪を為すことが有る。昨今のPCR検査議論やマスク談義に、この害悪の一端を見るような気がすることが有る。勿論、(医療)政治政策としてのPCR検査抑制論、或いは”一家にマスク2枚”の是非(愚)については色々見解はあり得るが、(わが国の)PCR検査抑制論、或いはマスク無意味諭・・・と言った問題での医者の議論には明らかに科学的思考訓練の未熟さに由来する論理矛盾が含まれると思われる。
科学は、1)既知の事実の列挙・検証・選別、2)ソレ等の事実の組み合わせに基づく論理展開と結論の誘導、3)結果の無矛盾性の検証(無矛盾性を保証できる根拠及び限界の設定を含む)・・・と言った段階を踏むことが多いが、上記の議論では、れっきとした責任アル医者或いは医療関係者の言にこの科学プロセスを逸脱した(と思われる)ものがあって、考えさせられる。
検査抑制論には、PCR検査の信頼性問題、COVID-19対抗手段が無いこと(検査で陽性と判ってもどうしようもない)、現医療体制の不備(検査キット、人員、設備が膨大な検査に耐えられない)・・・と言った要因(及びソレ等の複合要因)が検査抑制の(科学的?)根拠に挙げられるようである。一つ一つの要因にはそれぞれ根拠が無い訳ではない。その意味で科学の”事実の列挙”段階は(ある意味で)パスしている。しかし、これらの事実(およびその組み合わせ)を、どう論理展開しても”検査抑制”を”科学的に妥当”とする結論は導きだすことはできないのは明らかである。それは、もしコノ抑制論を導く論理が妥当だとするのであれば、同じ事実から”検査推進”の結論も誘導できることから明らかである・・・と考えられるからである。従って、現在の検査抑制論は科学的結論というよりも、寧ろ特定の(科学的には根拠の無い)”信念”あるいは”期待”に基づいた結論と言うべきものだと考えられる。・・・・と言うことは、検査抑制論は(検査推進論と同様)やって見ないとソノ効果の程は判らない・・・と言う議論に過ぎない。
マスク無意味諭は、COVID-19ヴィルスの粒子径に対してマスク素材の目が粗過ぎると言う事を根拠にしているようだが、コレは明らかに今回の感染が空気感染ではなく飛沫感染だという事と相反する議論である(前提事実と結論の矛盾)。マスク素材の目はヴィルスよりは粗いだろうが、(かなりの程度の)”飛沫”よりは明らかに細かいのだからヴィルス粒子が素材密度より小さいことはマスクに効果が無いことの根拠にはなり得ない。
無論、寧ろ、問題は、だからマスクを着けていれば、被感染あるいは加感染に対して安全である・・・という訳ではないことだろう。ヴィルス粒子の体内への侵入或いは体外への放出を完全に阻止するには、その侵入・放出形態がなんであれ外気と完全遮断された防護服・室の使用しか無いだろう。その運用は”日常生活”の範囲内では維持し得ない現状は幾らマスク(例え医療用マスクでも)を着用したからと言って、ヴィルスの侵入・放出を(完全に)阻止できるわけでは無いことを意味しているし、マスクの使用もソノ認識の基で使用する必要はある。医者が科学的な態度をもって語るべきはソウ言った認識・・・もし可能なら、マスク着用で阻止される”飛沫感染”以外に考えられる感染リスク(行為)の指摘を含む・・・であって、決して知ったかぶりのマスク不要論では無い。

今回のCOVID-19禍は、人間にとって厄災以外の何物でもないが、パンデミックは人間集団(社会)と言うものの本質を露わにする所があって、そういった観点から事態を観察してみると(不謹慎にも?)とても興味深いところもある(上述の医者たちの行動パターン等もソノ一つ・・・・)。
危機的現状に対して、繁華街・歓楽街への不要不急の外出は控えよ・・・と行政は叫ぶ。しかし、都市部では一部の連中が、それを無視して出歩くんだそうである。インタビューをすると、「そんなこと知った事じゃない」「俺は大丈夫だ」「罹るときは時はどうやっても罹るんだから・・・」と言ったお決まりの答えが返ってくるばかりか、中には「外出抑制要請が出ていることを知らなかった」と言う者までいるんだそうである。で、私でも、そういった連中の馬鹿面を見ていると思わず「馬鹿が!」・・・・と思ってしまいそうになるのだが、動物行動学的な藪睨みをしてみると、そういう輩がいること自体は中々興味深いところもある。
蜂とか蟻とかといった社会的集団を作る生き物を観察していると、どの集団にも必ず何の仕事もせずにダラダラしている”怠け者”の一群があるんだそうである。・・・で、面白いのはそいう”怠け者”集団を人為的に排除すると、残った集団の中で一定の割合が”怠け者”化して、結局その集団にはある一定の割合の”怠け者”集団が戻ることになるんだそうである。私は、動物行動学者では無いので、コノ事の信憑性・一般性については判断できないが、生き物の”機械的”側面をあらわす事実として大いにあり得ることでは無いかと思う。例えば、ある一定のエネルギーを持つ気体分子集団の速度分布はボルツマン分布と言う釣り鐘上の形態を示すが、その+・−両端裾野の速度を示す分子数は平均値の分子数よりは(圧倒的に)少ないけれど常に0では無い。ソレは、気体が独立した粒子状の機械的な物の膨大な数の集団から成っている・・・と言う事実からの直接的な帰結でもある。で、面白いのは、仮にこの気体から分布の裾野にある(例えば極端に速い速度を持つ)分子を人為的に除くと、其の系は”自発的”に除去された速度域の分子を補充してやはりボルツマン分布を回復する・・・と、その点では蜂や蟻の社会の裾野に分布している”怠け者”の挙動とよく似ているともいえることである。ただ、気体の場合、ある速度域の分子を除外すると、当然のことだが系全体のエネルギーは低下することになるが、この類推を”怠け者”議論に当てはめれば、怠け者を除去することは結局怠け者の排除の結果にはならず、ただ社会全体のエネルギー(活気?)を低下させるだけ・・・と言うことになるのかもしれない。
・・・と考えると、件の外出自粛要請を無視する馬鹿者どもも社会集団に付き物の必然的存在・・・・と言うことも出来なくもないのかもしれない。そのことに、人間(集団)にとって合理的な意味があるのか無いのかは判らないが、例えば社会維持の道義的要因とは何か?・・・と言ったことを考えさせる一種の反面教師的な役割・・・・なんていうものが有るのかしら・・・???

音楽
アファナシエフのショパン(マズルカ、ワルツ、etc.)を聴いた。無論、私の個人的な感想の範囲内で・・・と言うことだが、今般のコロナ騒ぎの喧騒の中で、彼の沈み込んでいくようなショパンの演奏は殊の他感慨深い。彼のピアノは、人間の自省の意味を考えさせてくれる音楽であって、無意味な楽観論を戒めるものだが、決して悲観論に陥ることなく、混乱の中にあっても自立する・・・・孤立しているが孤独ではない、連帯しているが自立している・・・・ことの意味を教えてくれる。

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