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2019年04月21日14:24

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発見・・・

この週はなかなか刺激的な週だった・・・・・この歳になって、なお刺激というか、新発見と言うか、「知らなかった」という感情、「解らない」という感覚、「未知」への好奇心・・・・。そのせいか、マイミクの書き込みにも、妙に戦闘的な気分でコメントを付けたくなったりもした・・・・もし気を悪くされた方がおられたら、ゴメンナサイ。

ノートルダムの火災のことはすでに書いた。マクロンが5年で再建と言ったら”そんなに簡単じゃない”と異論があるそうな、「尖塔」のデザインは公募・・・と発表したら”とんでもない!”から”結構じゃないか”まですでに喧々諤々、莫大な募金が集まりそうだ・・・と言うニュースにも”成金の偽善だ”とさっそく抗議があがって”結束”どころじゃない、と言う。さすが”フランス革命”の国だ・・・・と妙に感心してしまう。

私のクラシック演奏家に対する好悪と言うのは、もう独りよがりと言うか、我儘というか、独善と言うか・・・・ソウ言うものだと今は高をくくっている。昔は、客観性とか公正な判断とか、と言ったものも気にかかっていたが、さすがにコノ歳になると、音楽の好みくらいは自分の独善と偏見で決めたいと言う気になるらしい。”独善と偏見”なので、碌に聞きもしないで何となく無視してしまう音楽も(結構たくさん)あるが、”それで良いじゃないか”という気もする。しかし、ソレだけでは済まない・・・・と言うこともある、という経験。
ネットの某音楽サイトで、たまたまアニー・フィッシャーというピアニストを紹介していた。曲目はモーツアルトの協奏曲24番(ニューフィルハーモニア管/エフレム・クルツ)。アニー・フィッシャーという名前は随分昔から知っていた。しかし、ブロードウェイ・ミュージカルのタイトルみたいな名前に対する偏見か、当時(1960〜)雨後の竹の子みたいに輩出した”女流モーツアルト弾き”の一人・・・という(失礼千万の)偏見の中に埋もれてしまったのか、とにかく碌すっぽ聴きもしないでスルーしていた演奏家である。
その24番、最初は当然好い加減な気持ちで聞き始めたが、ピアノが鳴り始めると”アレッ?”・・・と耳が引き付けられた。演奏は勿論(恐らく)現代のフルコンサート・ピアノだと思うが、重心の低い、ペダルを抑制した明確な輪郭をもった音は、どこかちょっと古いエラールのピアノのような素朴さもある。演奏は、ピリオド志向などとは正反対の演奏だがピアノが野放図になる直前で抑制が利いている。50−60年代の演奏らしく、ある意味で即物的な演奏とも言えるけれど、ギーゼンキングなどよりも骨太で、そのなかに強い”個性”と”意思”が感じられて並の”即物演奏家”とは一線を画している。繊細華麗、印隠滅滅、天衣無縫・・・・というのとは違うモーツアルトだが、コレはコレで私が今まで余り聞いてこなかった新しいモーツアルト像で聴いていてなんだか嬉しくなってくる。
調べると、1914年生まれの彼女は80年代には何度か来日もしていてN饗でも弾いていたのだそうだが、残念ながら殆ど記憶に残っていない程度にしか私の意識の中には入っていなかった。同じ時代を共有して生きた彼女のピアノを聴く機会を逃し、亡くなって(1995年没)20年以上経って発見・・・・と言うのは残念でもあるけれどソレも私の意固地と阿呆の自業自得で仕様がないとあきらめて、せめて録音だけでも聞きたいと思って早速アニー・フィッシャーEMI録音集(Waner Classics 2564 93412-3)と言うのを入手してコノ週の後半はコレばかり聞いている。演奏には多少のムラがない訳ではないけれど、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、バルトークなど、何れの演奏もファッションとしての音楽とは異なる確固たる演奏で、音楽への信頼を感じさせてくれて久しぶりに聞いていて嬉しい演奏。
・・・・・やはり、聞かず嫌い・・・と言うのは、弊害もある。

今週送られてきたパブリッシャー・レビュー(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1967162862&owner_id=5691043)は白水社の番だった。”平成”最後のレビューということで、巻頭言は「平成の終わりと人文学の歴史」という大田俊寛という人の一文。中に東大教授であった福田歓一著「政治学史」という本の紹介が有る。30年以上前(昭和の御世)の本だが、19世紀の政治学のまとめと、現代政治学への連鎖として、

<その(19世紀のヘーゲルなどに代表される理性主義の)政治哲学は、もはや現実に対して働きかける理念としての積極性を保ちえず、ついに観想的、さらには神秘的な性格を示さざるを得なかった・・・・・・・・・(それに続く現代政治学の)それはイデーの見失われた時代であり、政治哲学がイデオロギーと科学主義とに対してその力を回復しない点において、われわれは依然として19世紀以来の惰性のうちにある>

と、あるそうな。さすが”東大教授”だけのことはあって、簡潔にして要点をついている。最近の自民、野党の動き(更には世界政治)を見ていても、まさに政治は”19世紀以来の(誤謬と欺瞞の)惰性のうち”にある。


しかし、私の今週の発見のハイライトはなんと言っても帷子耀(かたびらあき)である。パブリッシャー・レビューの小記事として紹介されたコノ詩人のことは全く知らなかった。1954年生まれ、13歳で詩壇にデビュー19歳で忽然と消えた人なんだそうである。その人の詩が、紹介されている断片だけでもすごい・・・・

<カンシャク玉ごっこの後のうそ寒い焼跡へもうもうともろく飛び散り死水(シャボン)とびおお思いつめて知恵の輪いじりに似る不協和音あれ・・・(「ふる卵のへりで遊べない朝までは」より)>

詩心に鈍い私の脳天にも何か理屈ではない突きこめてくるような感覚がある。この帷子耀氏、現在も存命で郷里長野県でパチンコ屋・チェーンの社長なんだそうである。詩言葉の爆発といい、詩壇を離れて中東で貿易商になった経歴といい、ランボーと相似の異才である。驚いて、ネット上を探したら他にもいくつか彼の詩(?)作を見つけることが出来る・・・

<病むな虚無ふりつもれとはたらちねに
  盗み見ていたにくしみの煮る
  軟禁を 顕(た)ちすくんでいる
  プラトニク あなたは知らずあなたと知った>
<挨拶は殺意に殉じ
  ありふれた尾行を曳くひとすじの息
  放水か 正義のようにひきしまり
  腹部命を つちにひたした>
<法廷を娼婦にしたて身を投げる
  うつうつと見よ うつうつと見て
  食らいあう切りたった眉字の暗さすら
  〈風の背後〉と言葉すくなに> 
etc.・・・・

どれも、強烈な自意識に貫かれていて、読んでいるこちらが言葉に窮する。
”詩”以外の中学生の作文のような散文(?)でも、

<子どもの頃、祖母に連れられて映画「楢山節考」(多分)を見に行き、見終わった後、「いい映画だったな。」という祖母の感想を聞いて、なぜか「その夜の闇に乗じて私は家族すべての呼び方を変えました。姉のユリコはユリステ。弟のヒロユキはヒロステ。妹のヒデミはヒデステ。母はオカステ。祖母はそのままオバステ。目の前にして呼ぶことはありませんでしたが父はオトステ。 人は皆、人を捨てる。人は皆、人に捨てられる。急に四方にある山々を覆っていた霧が払われ木々がくっきりと見えなおその成長する様、枯れるまでが眼前に一気に広がるのを感じました。」>

その感性の鋭さ・新鮮さと、それを表現する言葉の才能は明らかだと思う。もっと、他にも読みたいという気もするが(3年ほど前彼の詩集が纏められたのだそうだ)、本など買ってイソイソと読むようなまねは、この才能に対して失礼だという気がする。今はこう言う”詩人”がいた(る?)と言うことを、コノ歳になって発見したことで満足(我慢)しておく。

追記
いつも遊びに来る近所の三姉妹もそれぞれの新学期。長女は小学三年、次女はピッカピカの小学一年生、三女は幼稚園年中組である。長女、次女はそれぞれの教科書を見せに来てくれた。まあ、文科省の学習指導要領というのも何かとアレコレ問題も有るが基本的には良くできているところも多い。本来、コノ教科書を100%理解することが出来れば、塾などに行ってわざわざ馬鹿になる必要はないと思う。三女は姉二人をじっくり観察していて、二人の同年代の頃より更に知識オマセで幼稚園児にしてはとても思慮深い。
まだ宿題なども殆どないので、あとはお遊びである。下二人は私が近くの公園に連れて行き、長女は奥方とイチゴ入りクレープ作り。
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