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2018年04月06日17:21

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相撲(見世物)の地位が上がったのは明治天皇が相撲好きだったから

■女性理由に土俵下であいさつ「悔しい」 兵庫・宝塚市長
(朝日新聞デジタル - 04月06日 14:58)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5059654


大女 大渕丸子(芸名)
フォト


明治14年(1881年)


○一月一日より、大阪千日前に、様々な見世物が出る。(朝日新聞1・4)


 「…千日前の観物は、麦わら細工、日蓮記、兼て聞えし大姉人の手踊り、松本喜三郎が後見にて其子息(むすこ)が作なる生人形、此方の小家に大象あれば、彼方に虎の小屋もあり、次には海士の鯉つかみ、又は撃剣、首切、足芸、カッポレ、二〇カ、落語、新内、さへもん、猿芝居と千日前の雑踏は中々筆にも尽しがたく(後略)」


○一月一日より、大阪千日前正面の小屋にて、大女大渕丸子の見世物。(朝日新聞・明治13年10・31)
 「木綿屋橋東詰旧区役所の北隣なる通名竹市と云ふ男は、見世物を興行するを業となし、昨年南地千日前で松本喜三郎の生人形で人気を得しが、来年も何か珍らしき者を出して一儲やらかさんと諸国を尋ね廻る内、奥州白石近在を歩行(あるき)し折、村はづれの生垣の内に酒屋のコキンを風呂になして浴する一人の女あり。能く見れば胸の広さは三尺余あり、顔は小盥の如く、身の丈七尺余もあれば、是は珍らしき者なりとて、其家へ行き、委しく様子を聞くに、目方は六拾三四貫あつて、飯は一日に二升余を喰ひ、酒は三四升位難なくやる」との話。竹市は話をまとめ、大阪へ連れてくる。「此様な大婦人に似合はず、顔は別品で清元、常磐津が甘く、夫故前年豊沢弥七が弾し大三味線に倣ひ、大仏が弾く様な三味線をこしらへて弾かすと云ふが、看物人は注意せぬと声が大きなので、聾になるかも知れんとの話」


 【絵画資料】


 ≪絵ビラ・木版色摺・小信画≫(大阪城天守閣蔵:『大阪の引札・絵びら』34頁/「観物画譜」232)
http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/51808711.html
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女相撲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%9B%B8%E6%92%B2

相撲(おんなずもう)とは、女の取り組みによる相撲を見せることを目的とする興行である。なお、この興行としての女相撲と日本各地に残る民俗ないし神事としての女相撲との間に直接の関係はない。

概略[編集]

江戸中期18世紀中ごろから流行した。当初女同士の取り組み[1]で興行したが、美人が少なく飽きられたため、男の盲人との取り組みを始めて評判になった。
大関・関脇などのシステムは男の相撲に準じており、しこ名には「姥が里」「色気取」「玉の越(玉の輿の洒落)」「乳が張」「腹櫓(はらやぐら)」などの珍名がみられる。

明治5年には、男女の取り組み・女力士の裸体が禁止されたため、シャツや水着が使われることもあった(それまで男同様全裸にまわしなど、少なくとも上半身は裸だった)。明治中期以降現れた複数の女相撲の一座には全国興行を行う興行団もあったという。その後昭和30年代後半まで九州に女相撲の興行団が残っていたらしい。また第二次大戦後に生まれた「女子プロレス」はこれら女相撲と同系統のものだという[2]。

歴史[編集]

江戸時代中期、江戸両国で女性力士と座頭相撲の座頭力士(つまり男の盲人)とを取り組ませたとされ、延享2年(1745年)の『流行記』延享二年落首柳営役人評判謎には「一、曲淵越前守を見て女の角力ぢやといふ、その心は両国ではほめれど、一円力がない」との記述がある。

大坂でも明和6年(1769年)に女相撲興行が始められ、『世間化物気質』に「力業を習ひし女郎も、同じ大坂難波新地に女子の角力興行の関に抱へられ、坂額といふ関取、三十日百五十両にて、先銀取れば」とあり、その人気が窺える。
また『孝行娘袖日記』明和7年(1770年)版には、「とても、かやうな儀は上方でなければ宜しうござりやせぬ。御聞及びの通り、近年女の相撲などさへ出来ましたる花の都」とある。

女性と盲人との相撲が江戸で評判となり、安永年間(1772年 - 1781年)から寛政年間(1789年 - 1801年)にかけて女相撲に取材した黄表紙、滑稽本が流行した。寛政年間には、羊と相撲をとらせる女相撲もおこなわれた。

しかし、安永の頃から女相撲の好色なひいきが申し合わせて興行人・世話人に金銭を与え、衆人環視の中で男女力士に醜態を演じさせることが再三あったため、寺社奉行から相撲小屋の取り払いを命じられることになった。

のち文政9年(1826年)に至り、両国で女性と盲人との相撲が復活した。 他方女同士の相撲の興行については、興行者にも企図する者があったものの、その後の禁止で復活を果たせず、結局嘉永元年(1848年)に至り、名古屋上り女相撲の一団が大坂難波新地にて興行を復活させることになった。
このときそれまで女力士が島田、丸髷姿であったものを男髷に改めた。この興行は『大津絵節』に「難波新地の溝の川、力女の花競べ、数々の盛んの人気、取結びたる名古屋帯、尾張の国から上り来て、お目見え芸の甚句節、打揃ひつつ拍子やう、姿なまめく手踊に引替へて、力争ふ勢ひの烈しさと優しさは、裏と表の四十八手」とうたわれるほどの人気となり、華美なまわしのしめこみと美声の甚句節手踊りが観客のこころをとらえ、幕末の興行界で異彩をはなった。

明治5年(1872年)3月、男女相撲見物の再差止により消滅傾向にあったが、明治中頃興行界に復活した。
興行団一団は30人ほどで地方巡業にも出た。女性力士の多くは14、5歳から25歳くらいの女性で、全裸ではなく薄い肉襦袢を着込んで猿股を穿いていた。

これは挌技を競うというよりもむしろ余興の舞踊、力業曲芸を主としており、演目は、お目見えかっぽれ、相撲甚句、締め込み姿で派手などてらをうちかけてずらりと並び囃子方に合わせて力足を踏みしめ、いちゃな節[3]という俗謡を踊る舞踊、また源太郎、どじょうすくい、その他流行の小唄節、流行踊りのほか、腹の上での餅つき、七人娘曲芸などであった。
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・・・大相撲の「女人禁制」がはじまったのは明治時代に入ってからのことで、古来よりの伝統とは言いがたいはずだ。

北海道教育大学の名誉教授で哲学研究者・吉崎祥司氏と同大学社会学研究室・稲野一彦氏の論文『相撲における「女人禁制の伝統」について』が今、SNSなどでも話題だが、そこでは「相撲は、神道との関わりを理由に、土俵上に女性を上げないという姿勢をとっており、それは『伝統』とされている。しかし歴史をひも解いてみると女性と相撲とは密接な関係を保ってきたことが明らかになる」と、女人禁制の伝統に疑問が呈されている。

 たとえば、日本最古の歴史書「日本書紀」には、雄略天皇による相撲についての記述が存在するが、そこに書かれているのは「采女による女相撲」である。しかも采女は「雄略天皇に呼ばれ、その場で着替え、その場で相撲をしたよう」だというのだから、「そのような特性を持つ相撲を、古来より女性に限って禁止したとは考え難い」のではないか。

室町時代の相撲においても女人禁制の様子は見られず、1596年刊行の『義残後覚』からは、草相撲や野相撲ではない歓進相撲でも女性は自由に相撲を取ること可能だったがわかるという。江戸時代の資料にも、女相撲の様子が描かれた絵画が残っている。



元日本相撲協会がいう「女人禁制の伝統」とは、長い相撲の歴史の中でも比較的近代である明治時代に意図して作られた“新しい伝統”ではないか、ということだ。

http://wezz-y.com/archives/53671
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山岡鉄舟が、明治天皇の侍従を務めていた時のこと。

ある日、天皇が酒に酔って「山岡、相撲を一番来い!」と、
いきなり山岡に組み付き、押し倒そうとした。その時 山岡は
ビクともせず。怒った天皇は、山岡の目を突いてきた。すると
山岡は体をかわしたので、天皇はドッと倒れてしまった。

他の侍従たちが 山岡に「陛下が君を倒そうとなされた時に、
君が倒れなかったのはよろしくない」となじると、山岡は
憤然として、「そもそも大君が相撲ということは、この上
ない不倫なことである。だから小臣は陛下が相撲をした
事実を否定しなくてはならない。だから倒れるわけには
いかなかった」と突っぱねた。

つまり、山岡は「天皇が相撲などという“不倫”な事を
してはいけない」と諌めているのだ。

明治まで、相撲は
被差別集団だった。それは「猿回し」などと同様、見世物
だったからだ。

以下略
https://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/e/c599fb7aab69ad45e45ef4df48f28457
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マスコミと見世物(芸能・相撲モロモロ)と暴力団と楽しい仲間たち・・・隠し子とか名損♪とか・・
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1636196982&owner_id=5690042

●大谷竹次郎
1877年(明治10年)12月13日、京都生れ。父:大谷栄吉、母:しも。双生児の兄が白井松次郎。
実父栄吉は★相撲の興行師で、妻に水場(売店)の経営をさせていた。

1905年(明治38年)に兄とともに大阪市南区葦原町に松竹合名会社を設立(白井松次郎社長)。後に東京新富座買収によって東京に進出して以降は、竹次郎が関東、松次郎が関西を受け持った。
東京の多くの劇場の経営権を握り、1914年(大正3年)歌舞伎座の社長に就任。1920年(大正9年)2月、松竹キネマ合名会社を設立し、映画界にも進出。

1937年(昭和12年)、松竹社長に就任(白井松次郎は会長に)。第二次世界大戦後の1955年(昭和30年)に★文化勲章を受章。1969年(昭和44年)死去。享年92。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E7%AB%B9%E6%AC%A1%E9%83%8E


●相撲興行にヤクザは当たり前。それよりマスコミの癒着が問題

砂被りは前から6席しかなく、その後ろの升席が四人席なのに比べて全部一人席である。しかもテレビカメラに正対した行司の後ろの向こう正面にヤクザが並ぶというのが、全然異様でない光景は、大相撲ならではであろう。
まさに国技と呼ぶにふさわしい日本の伝統が継承されている。
明治天皇の相撲好きが高じて、いつのまにか江戸の見世物興行を、国家(文科省)管理の免税文化事業にしてしまった。

江戸時代から変わらぬものは、かわら乞食(歌舞伎)と相撲などの見世物小屋を、実際取り仕切るのは地回り(ヤクザ)であり、それを許可して上前をはねるのが役所であることだ。
ヤクザに十手取り縄を渡して、それら芸能・風俗のトラブルを統治させたシステムが、いまも生きている。しかしあまりにも古いので世襲以外に後継者がおらず、ジリ貧になっているところも、相撲取りと為政者(政治家)は似ている。

でも相撲は太りすぎフリークスを見せるだけなのだから(小人プロレスが技をみせているのではなく「小人」そのものをみせているように)、外国からの出稼ぎを調達すれば事足りる。ただのデブ集団に国籍はいらない。体重があればいいのだ。見世物としての。

いずれも見世物でありながら、政治家は年貢を溜め込み、ヤクザをつかって興行を行っている。もちろん木戸銭は税金免除であり、すべて庶民から強奪することになっている。

興行は江戸時代から営々として行われている。それにヤクザと賭博とヤクが絡むのは当たり前、何でそれがニュースなのだろう。大相撲をはじめプロスポーツ、芸能とヤクザが関係ないというほうがおかしい。興行なのだから、娯楽なのだから、しかもそのヤクザと共生しているのだから。片棒を担いでいる瓦版屋までもが、そ知らぬ顔して「暴力団をすわらせた」ことをさもいかがわしそうに伝えている。とんだお笑い種だ。

昭和の歌姫美空ひばりが山口組・田岡の、戦後のヒーロー力道山が東声会・町井の仕切りなくして、ありえなかったように相撲がヤクザ(弘道会)に溜席を占拠されたのは当然であろう。マスコミは昔から知ってるはずなのに。

ダニを生かしているのは、ダニだけの問題ではない。多くの政治家・マスコミ関係者が「金」という接着剤でつながり、意識的に生かしているのが原因だ。警察・検察だって無縁とは言わせないぞ。
http://blog.livedoor.jp/shunzo480707/archives/2698518.html#
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雄略天皇と女相撲・・・エロエロ・・・
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=927629931&owner_id=5690042


女相撲・・・豊饒儀礼やら興行やら・
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=526654983&owner_id=5690042

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