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2020年09月22日09:24

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聖書協会2018年版新約聖書で「マルコによる福音書」を読んで


照る日曇る日第1470回

なんでも先行する「マタイ伝」は、2番目におかれたこのマルコ伝に他の情報を加えて収税人マタイによって編まれたらしいのだが、そこに散見される論理矛盾や説明不足はともかく、「これが本物のメシアだ!これがローカルなユダヤ教ではなく世界宗教としてのキリスト教なんだあ!」というマタイ選手の確信、そして全篇に漲る「厳粛さ」と「真実らしさ」は、旧約ぜんたいに流れる「とろさ」とは対照的で、これにゆいいつ比肩できるのは「創世記」の創出くらいだろう。

そんな、私のような無信仰の者でも思わずキリスト教を信じてしまいそうになるド迫力に満ちたマタイ伝を読まされた後では、いくら「先輩はこっちだよ」と注意されても、同じ話の多いマルコの斬新さが後退してしまうのはやむを得ない。

詠んで気になることは多々ある。例えば第3章のバルゼブル論争では、どこが論点なのかてんで分からず、最後にイエスが「精霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる」と恫喝して終わるのも唐突に過ぎよう。第7章の「昔の人の言い伝え」もみょうちきりんだ。

イエスと12弟子たちが汚れた手で食事するのを、パリサイ派と律法学者がとがめたら、イエスは「あなた方は神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と反論するのだが、これは論点のすり替えである。

よしんばイエスたちが彼らと違って神の戒めを破っていても、食事の前に手を洗わないほうがいいという理屈にはならない。新型コロナなんかきたら一発で全滅だろう。

11章や13章では、いちじくの話が出てくる。空腹を覚えたイエスがいちじくを食べたいと思ったのだが、まだ実が生っていなかったので怒って「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と呪いの言葉をかけたら翌朝には枯れていた、というのだが、これって神の子ともあろう人にしては全く理不尽な八つ辺りではないだろうか。
いちじくが可哀そうだ。

14章ではイエスを逮捕しに来た連中の前にユダ以外の弟子たちはみな逃げ出し、ペテロは3度主を否むが、素肌に亜麻布をまとってイエスについてきていた一人の若者が布を棄てて逃げ出すのであるが、私はなぜかこの若者の気持ちがよく分かるのである。

    万が一死んじゃうことも覚悟してさあ出かけよう半額の旅 蝶人

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